The Human Stain 白いカラス (2003年12月)
教鞭をとっている大学で黒人を差別しているとも思える発言で舌禍事件を起こし教職を辞さざるを得なくなったコールマン・シルク (アンソニー・ホプキンス) は、妻も亡くし、ニュー・イングランド地方に越してきて、そこで今ではほとんど筆を折っている状態の作家、ネイサン・ザッカーマン (ゲイリー・シニース) と親交を得る。シルクはネイサンに、実はその歳にもなって若い女性のフォーニァ (ニコール・キッドマン) と男と女の関係を結んでいることを告白するが、実はシルクには、さらに大きな秘密があった‥‥
(注): 重要なプロットに触れてます。
今週から公開されるスカーレット・ヨハンソン主演の「ガール・ウィズ・ア・パール・イアリング」と、ティルダ・スウィントン主演の「ザ・ステイトメント」と、ティム・バートン監督の「ビッグ・フィッシュ」の、さあ、どれを見ようかと思っていたら、なんと3作とも今週はマンハッタンのみでの限定公開で、私の住むクイーンズに来るのは年末か年明けになるらしい。アメリカにはこういう先行上映的なシステムはなかったんじゃないのか。
というわけで、いったんはもう見るのを諦めたロバート・ベントン演出の「白いカラス」(なかなか言い得て妙の邦題だが、作中に出てくるカラスはやっぱり黒い) を見に行くことにした。実は私はこの映画を見る前に、止せばいいのに普段は滅多に読まない批評家評なんてのを読んでしまったために、巷で言われているこの映画の欠点とやらを先に知ってしまった。
で、その欠点というのが、作品の大きなプロットに絡んでくるもので、いきなりミステリでネタをばらされたような気がして興を削がれてしまった。その上、主演の二人がミスキャストと至るところで言われている。この映画、8対2の割合でわりと失敗作として叩かれているのだが、それにしては今度は誉める奴は激賞している。それで、やっぱりベントンだし、失敗しているにしても、どのように失敗しているかをこの目で確かめてみようと思ったのだ。
ここで私も重要なプロットに触れざるを得ないが、この映画、黒人を差別しているかのようにもとれる不用意な発言で教職を追われざるを得なくなった主人公のシルクが、実は途中で彼こそが肌の色が薄いだけの黒人だったとわかるというのがミソになっている。しかし、もちろんこのツイストはフィリップ・ロスの原作だと効果的に途中に挿入されているのだろうが、最初から主人公がスクリーンに登場する映画ではそのような方便はほぼ不可能だし、その上、我々が白人と承知しているホプキンスを黒人として描くのは、たとえどんなに肌の色に手を入れようとも、かなり難しい。
さらに、ここでのキッドマンは、裕福な家に生まれこそすれ、義父の振る舞いにいたたまれなくなってまだロウ・ティーンの頃から家を出た、それほど教育を受けてない女性として設定されている。ほぼ文盲という役どころのキッドマンが、これまた嘘くさいというのが大方の意見だ。
という前知識を既に身につけてから見に行ったのだが、実は、この映画、かなりよくできている。さすがベントンと思えるできなのだ。演技だけを見ると、ホプキンス、キッドマンに加え、脇のゲイリー・シニース、エド・ハリスの曲者を配し、非常に見応えのある作品に仕上がっている。それなのにどうしてこの映画がかなり叩かれているのかというと、やはり、ホプキンスが黒人という設定がほとんど受け入れられなかったからと言うことができる。
表面上は人種差別がないことになっているアメリカ社会において、まだそれが根強く残っているのは、アメリカに住んでいる者なら誰でも知っている事実だ。人種差別は、アメリカで最もセンシティヴな問題だと言える。白人が黒人を演じたり、あるいはその逆が起こるのは、だいたいコメディという一ジャンルに限られる。シリアスなドラマで白人が黒人を演じるためには、それ相応の理由をつけなければならないだけでなく、それが本当に見えなければならない。 ところが、アメリカ人にとってはホプキンスが実は黒人だったという設定は、ほとんどマイケル・ジャクソンが自分は白人だと言っているかのように受け入れ難く、滑稽なものと映ったようだ。作品の前提が受け入れられなければ、作品そのものが破綻するしかない。
さらに、白人が演じている黒人の主人公が、自分が黒人ということにプライドを持てず、黒人ということを隠していることに対し、腹を立てる黒人観客が多いということも間違いない。彼らがこの映画を誉めることがあるとはまず思えない。たとえ作り手の意識がそういうところにはないとしても、黒人がこの作品を見て不愉快な気持ちになるであろうことを抑える術はないのだ。
だいたい、ある俳優が自分と違う人種を演じようとすると、作品にリアリティを欠き、失敗する可能性が非常に高くなる。「白いカラス」を見て私が思いだしたのが、ウィリアム・H・メイシーが主演した「フォーカス」で、非常によくできたこの作品が人々に受け入れられなかったのも、作品の設定上、ユダヤ人に見えることになっているメイシーが、まったくユダヤ人に見えないというその一点だけで、人々から無視されたのであった。
基本的に全人種が揃っているアメリカにおいて、その人種に見えないというのは、ほとんど致命的なのだ。これがまだまだ極東の一国に過ぎない日本が舞台の「ラスト・サムライ」なら、まだ作品に対する批判も余裕があったり、アメリカ人が日本人を演じているのではないから、その批評は作品の構成や内容といった部分に向かうが、アメリカにおいて主要な民族であるユダヤ人や黒人を、別の人種の俳優が演じるというのは、それだけで非常に大きなリスクを負うと言わざるを得ない。リスクどころか、そのことが作品の重要なポイントとなっている場合、ほとんどの場合、まず成功しないと見て間違いないだろう。その時、作品の質は問題ではないのだ。
また、一方の、ほとんど教育を受けていないフォーニァを演じるキッドマンの場合、こちらも、確かに言われているように彼女は無学には見えないところが、一瞬違和感を感じさせる。彼女は雑役婦のようなことをして生計を立てており、その日暮らしをしているという設定なのだが、例えば、初めてシルクとフォーニァがベッドを共にするシーンで、フォーニァを車で送っていったシルクが2階に上がると、素っ裸のフォーニァがベッドの上で待っていたというシーンは、無学な女の本能的な振る舞いというよりは、知的な女の計算という印象が強く、むしろ非常に高い知性を感じさせる。ただし、いずれにしても、キッドマンの場合、ホプキンスのように作品そのものの成否に関わるほどの問題を提起しているわけではない。やはり問題はシルク=ホプキンスをどこまで受容できるかなのだ。
とはいえ、アメリカにおいて、実際に白人のように見える黒人がいることもまた事実ではある。特に南米の血が入っている系統にその傾向が強い。南米では白人と黒人が長い年月を経て交じり合った結果、親子や兄弟姉妹間で、まるで違う人種のように見えることが往々にしてある。作中にも描かれているように、兄は白人のようだが妹は黒人にしか見えないという例は、実際に、それこそ掃いて捨てるほどある。
つまり、この作品、ホプキンスのようによく知られているわけではない俳優が演じさえすれば、白人が演じていようが黒人が演じていようが、それほど問題にはならなかったであろう。原作にあるように、白人に見える黒人俳優を見つけてくることができれば、さらに完璧だったに違いない。実際、それほど知られているわけではないウェントワース・ミラーがシルクの若い頃を演じる部分では、違和感はまったくなく、ベントンの手慣れた演出ぶりが満喫できる。
しかし、だからといって、では、ホプキンスでないならば、いったい誰を起用すればよかったのかとなると、ホプキンスのシルクを見た後では、まったく思いつかない。滅茶苦茶印象強いからだ。ホプキンスって、やっぱり名優だなあ。一方のキッドマンが演じたフォーニァの方は、実は、キッドマンが「コールド・マウンテン」で共演しているレネ・ゼルウェガーの方が、本当は向いていたんではないかという気がしないでもない。彼女って、本能のままに行動する、嫌だけど目の放せない女って役をやらせたら絶品だからなあ、などと思ったりしたのだが。
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