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Paul Auster:Why Write?
ポール・オースター「なぜ書くのか」
オースターのエッセイ「なぜ書くのか」は、最初 「ニューヨーカー」誌(1995年12月25日号)に掲載されたものですが、以下に訳出したものはthe National Endowment for the Arts のウエッブ・サイトに掲載されているオンライン版テクストに基づいています。ただこれには、翻訳の途中で気づいたのですが、いくつかスペルの誤りなどがありますので、暇ができて「ニューヨーカー」誌のオリジナルを入手したら、翻訳ももう一度チェックして手直ししたいと思います。というわけで、不完全版ということで読んで下さい。なお、このエッセイは、5つのセクションに分かれています。
1
ドイツ人の友人が二人の娘を出産する以前の状況について語っている。
19年前、数週間も予定日を過ぎていてお腹もひどく大きくなっていたAはリビング・ルームのソファーに腰を下ろし、テレビをつけた。運のいいことに映画の冒頭の配役リストが画面に流れて始めたところだった。その映画は、「尼僧物語」で、オードリー・ヘップバーンが出演している1950年代のハリウッド・ドラマだ。彼女は、これで気を紛らわせられる、よかったと思い、腰を据えて映画を見始めてすぐ夢中になった。半分ぐらいまで観たとき、陣痛が始まった。彼女の夫が病院まで車で運んでくれて、彼女は映画のその後の展開がわからずじまいだった。
それから三年後、二番目の子供を妊娠していたAは、ソファーに座り、今度もテレビのスイッチを入れた。このときもまた映画が流れていて、しかもオードリー・ヘップバーンの「尼僧物語」だった。さらに驚くべきことは、Aはこの点を強調するのだが、3年前に最後に見たちょうどそのところの映画の場面から見始めていたのだ。今度は、映画を最後まで観ることができた。それから15分とたたないうちに彼女は破水して、二回目の出産のために病院へ出向いた。
Aの子供は、この二人の娘だけだ。最初の出産は、たいへんな難産だった(この友人は、もうちょっとで出産がうまく行かなかったほどで、産後も何ヶ月にもわたり病気をしていた)が、二回目の出産は、スムーズにいき、面倒なこともなかった。
2
5年前、私は、妻と子供たちと一緒に山の頂の人里離れた古い農家を借りて、その夏をヴァーモントで過ごした。ある日隣町の女性が4歳の女の子と18ヶ月になる男の子をつれて、我が家を訪ねてきた。私の娘は、ちょうど3歳になったばかりで、その女の子と楽しく遊んだ。私の妻と私は、客と一緒にキッチンの椅子に座っていた。子供たちは、自分たちで遊ぼうと走って出ていった。
5分後何かがぶつかる大きいな音がした。小さな男の子が、反対側の玄関に入り込んできたのだ。妻がちょうど二時間前に花をさした花瓶をそこに置いておいたので、何がおこったのかは容易に推測できた。見なくとも玄関の床に割れたガラスが散乱し、水たまりができているとわかった。散乱した12本の花の茎と花弁といっしょに。
私はいらだった。「とんでもないガキだ。いまいましいぶきっちょな子供を連れてきたアホドモ。電話もせずに他人の家ひょっこり訪ねてきていい、と誰が言った!」と心のなかで叫んだ。
私が後始末をするよと妻に言って、妻と来客が会話を続けている間に私はほうきとチリトリとタオルを集めてきていそいそと玄関へ向かった。
妻は、階段の手すりの真下に置いてある木製のトランクの上に、その花瓶を置いていたのだった。この階段は、特に急で幅が狭く、一番下から1ヤードほどのところに大きな窓がついていた。この位置関係が重要なのだ。物がどこにあるかということが、次に起こることとあらゆる関係をもつ。
掃除をを半分ほど終えたころに、私の娘が自分の部屋から二階の踊り場に飛び出してきた。私は、階段の登り口近くにいたので、娘の姿を垣間見ることができた。(あと二、三歩その場から離れていたら、娘の姿は遮られて見えなかっただろう。)その一瞬のうちに、娘がすばらしく元気のいいまったく幸福そのものの表情、中年の私の心があふれんばかりの喜びで満たされる、そんな表情をしているのがわかったのだ。それから、一瞬あとに、私が声を掛ける間もなく、彼女は飛んだ。スニーカーのつま先が踊り場の床にひっかかって、叫び声や合図のことばもなしに、宙を舞った。階段を落ちているとか、転げているのでもなく、また弾んで落ちているというわけでもない。彼女は空中を飛んでいる。つまずいて文字通り身体が空中に発射され、その軌道から彼女がまっすぐに窓に向かって突き進んでいることが分かった。私はどうしたのか。私は自分がどうしたのか覚えていない。彼女の飛行を見たときには階段の手すりの反対側にいたのだが、彼女が踊り場と窓の中間に到達したときには、階段の登り口に立っていたのだ。どうやってその場へ移動したのだろう。わずか数フィートという距離の問題ではなく、時間が無に等しい、たったあれだけの時間にその距離を移動することは、ほとんど不可能のように思えるのだ。にもかかわらず、私はそこにいて、そこに到達するや上を見上げ、腕を広げて、彼女を受け止めたのだ。
3
14歳の時だった。3年連続で両親が私をニューヨーク州のサマー・キャンプに入れた最後の年のことだ。私は、たいていバスケットや野球をして時間を過ごしたが、男女一緒のキャンプだったので、他の活動もあった。夜の「親睦」、女の子たちとの初めてのぎこちない取っ組み合い、パンティ狩り、ありふれた青春の悪ふざけといったものだ。またこっそり安物の葉巻を吸ったり、フレンチング・ベッド(訳注:ベッドのシーツを半分折りにしておくことでベッドに入って眠ろうとする人をびっくりさせるいたずら)をしたり、水の入った風船の投げ合いを大々的にしてみたりといったことも思いだす。
こんなことはどうでもいい。ただ14歳がいかに大切な年齢であるかを強調しておきたい。もう子供でもないし、まだ大人にもなっていない、過去の自分と間もなくそうなる自分との間をバウンドして行ったり来たりする。私の場合には、メージャー・リーグでプレイすることをまともに考えてみてもいいと思うほど幼かったけれど、神の存在に疑いを持ち始める程度には大人だった。「共産党宣言」はすでに読んでいたが、土曜日の朝の漫画のテレビ番組もまだ楽しんでいた。鏡で自分の顔を見る度に、誰か別の人間を見ているように思えた。
キャンプの私のグループには、16人か18人の男の子がいた。そのほとんどは数年の間一緒だったが、その年の夏は数人の新来者が加わった。ラルフもその一人だった。物静かな子で、バスケットでドリブルをしてカットマンにぶつかっていくことには大した情熱を示さず、誰かが特別つらい目に遭わせたわけでもないのに、仲間と交わることが難しかった。その年に何科目かに合格できなかったので、自由時間の大部分は、一人のカウンセラーの補習を受けていた。ちょっぴり悲しく、気の毒に思ったが、しかしひどくすまないという気持ちではないし、そのことを心配してあげなかったことを後悔しているわけでもない。
私たちのカウンセラーは、みんなブルックリンやクイーンズから来たニューヨークの大学生だった。パンチの効いた冗談をとばすバスケット・ボールの選手だったり、歯科医、会計士や教師志望だったが、一応に骨の髄まで都会っ子だった。たいていの生粋のニューヨーカーみたいに、足下は雑草や小石や泥しかないのに、地面のことをしつこくフロアーと言い続けた。ニューヨークの地下鉄がアイオワのお百姓さんにたいしてそうであるように、伝統的なサマー・キャンプを飾る諸行事は、彼らにはまったく無縁だった。カヌー、ロープ、登山、テント張り、キャンプファイアーを囲んで歌を歌うことは、彼らの関心事にはリストアップされていなかった。バスケットボールでスクリーン・プレイ(訳注:ディフェンス側の選手の動きをブロックする位置に攻撃側の選手が立ちはだかる戦法)やボクシング・アウト(訳注:ゴール下にいるデフェンスが方陣を組んで攻撃側を寄せ付けないこと)によってリバウンドを取る細かなポイントは私たちに教えこむことができたが、そんなことも無いときは、ふざけまわったり、冗談をとばしたりしていたのだ。
そんなふうだから、ある午後のことカウンセラーが森にハイキングへ出かけるぞと言ったとき、私たちはひどく驚いてしまった。カウンセラーはある思いにとりつかれていたので、誰かが説き伏せてその計画を思いとどまらせることなんかできそうになかった。バスケットボールは十分だ、せっかく自然の中にいるのだから、そろそろその利点を活かして本物のキャンパーのように活動すべきだ、とかそんなことをカウンセラーは言った。そこで昼食に続く休憩の後、16人か18人の男の子のグループ全体が、二人のカウンセラーと一緒に森の中へと出発した。
それは1961年7月の終わりごろだった。みんなはかなり浮かれ気分だったとおもう。30分も歩くと、野外の散歩も悪くなかったというのが一致した意見だった。もちろん、だれもコンパスも携えていなかったし、どこを歩いているのかすら検討がついていなかったが、みんなは楽しんでいたし、たとえ道に迷ってとしてもどうと言うこともなく、そのうち帰り道が見つかるさと思っていた。
それから雨が降り始めた。最初はほとんど気がつかず、小粒の雨が木の葉や枝の間にポツリ、ポツリと落ちてくるくらいで、心配するほどのことはない。ちょっとの雨でせっかくの楽しみをおじゃんにしたくないという想いで歩き続けていたが、数分後には本降りになってきた。全員がずぶぬれになり、カウンセラーは引き返すことに決めた。だが、問題はキャンプの位置をだれも知らないと言う点だった。森は木が生い茂り、樹木やトゲのある藪の固まりがいくつも密集していて、私たちはそこをあちこちを縫うように進み、先へ行くために唐突に方向を変えることもあった。だんだん視界がきかなくなり、混乱の度を深めた。森は最初から暗かったけれど、雨が降り出し空が暗くなったので、午後の3時、4時というより夜中のようだった。
さらに、雷鳴がとどろき始めた。雷鳴のあとは、稲光が走るようになった。嵐がちょうど私たちの真上に陣取り、それはすべての夏の嵐を締めくくる、まさに本物のサマー・ストームと呼ぶにふさわしいものだった。その前もそれから後も、私はこんな悪天候は経験していない。雨が激しく、実際痛いくらいに私たちに降り注いだ。雷が炸裂する度に体の中で雷が鳴り響いているのを感じることができた。稲妻が来ると、いくつもの槍のように私たちの周りを踊った。薄い大気中から武器が飛び出してきたようなもので、突然のせん光は、すべての物を明るい、青白いものに変えた。樹木が雷に撃たれ、枝がくすぶりはじめた。それから一瞬暗闇にもどったかと思うと、空にまたすさまじい音が響きわたり、別のところに稲妻が帰ってくるのだった。
もちろん私たちは稲妻が怖かったので、すっかり混乱してしまって逃げようとした。だが、嵐はとても巨大で、どこへ行ってもさらなる稲妻に見舞われた。大勢があわてふためいてどっと防空壕へ飛び込んだり、あちこちをぐるぐる廻って頭から突っ込んでいく感じだった。そのとき、突然誰かが空き地を捜し当てた。空き地の方がいいのかこのまま木下に立っている方が安全なのか、少しの間論争が起ったが、空き地を推す声が強かったので、私たちは空き地の方向へ走っていった。
そこはちょっとした草地、と言うよりは土地の農家の牧草地らしかったので、有刺鉄線の柵の下を這って行かなければならなかった。一人ずつ腹這いになって少しずつ前に進んだ。私は、列の真ん中で、ラルフの真後ろだった。ラルフが有刺鉄線の下にいたとき、また稲妻が走った。2,3フィートしか離れていなかったが、瞼に激しく雨が降り注いでいたので、私にはなにが起こったのかわからなかった。ラルフがじっと動かなくなったことだけは、間違いなかった。気を失ったのだろうとおもって、ラルフをすり抜けて柵をくぐり反対側にでると、彼の身体を引っ張った。
二、三人が何かに打たれていた。たぶん雷によるものか、それとも雷が近くの地面に落ちたときのショックだったのかも知れないが、草地はうめき声でいっぱになりはじめた。泣いてお祈りをするものもいた。なかには怯えた声で分別のあることばを発する者もあった。金属類は捨てるように、金属は雷を引きつけるぞ、と叫んだ。私たちはみなズボンのベルトを外して、遠くへ放り投げた。
何か声を発した覚えはない。泣いた記憶もない。もう一人の少年といっしょにラルフの介護しようと懸命だった。ラルフはまだ気を失っていた。手や腕をさすった。喉につまらないように舌を押さえたり、頑張るんだと声を掛けた。しばらくすると彼の身体が青みを帯びてきた。触ってみると身体は前より冷たくなっているように思えたが、事実が積み重なっても、彼が息を吹き返すことはないのだとは考えつかなかった。ほんの14歳だったし、結局何もわかってはいなかったのだ。前に死んだ人など見たことがなかったのだ。
考えてみると有刺鉄線のせいだと思う。雷に打たれた他の子供たちは、一時間かそこいら手足がしびれていたが、それから良くなった。ラルフは雷に打たれたとき有刺鉄線の下にいたので、その場で電気椅子に架けられていたのだ。
後になって、彼が死んだと聞いたとき、彼の背中には8インチのやけどがあったことを知った。私は、この知らせを何とか胸の内にしまっておこうと頑張ったり、人の生命をあんなふうに感じることは二度とないだろうと自分に言い聞かせたことを思い出す。不思議なことに、あのことが起こったとき私が彼の側にいたのだということを考えることもなかったし、もう二、三秒後だったら私が犠牲者だったということも考えなかった。私が想っていたことは、彼の舌を押さえて、歯を見ていたということだった。唇が少し開いた彼の口はゆがんでいて、私は彼の歯の先の方を1時間見続けていた。三十四年たっても、まだその歯のことをを思い出す。半分閉じて、半分開いた彼の目も忘れない。
4
数年前にブリュッセルに住む女性から手紙をいただいた。その中で彼女は、ある友人−子供の頃からの知っている男性−の話を私に語ってくれた。
1940年にこの男性はベルギー軍に入隊した。その年にベルギーがナチスの手に落ちたとき、彼は捕らえられドイツの捕虜収容所へ送られた。彼は、1945年に終戦になるまでそこに留まっていた。
捕虜はベルギーの赤十字の職員と文通することが許されていた。この男性は適当に文通相手−ブリュッセル出身の赤十字の看護婦−をあてがわれたが、それから5年間二人は毎月手紙を交換した。しばらくするうちに二人は、無二の友人になった。ある時点で−−私にはどれ程の時間がかかったかわからないが−−二人は、お互いの間に友情以上のものが育っていたことを知った。文通が続き、手紙のやりとりの度に親密の度が深まっていった、そしてついに二人は愛を告白した。こんなことがあり得るのだろうか?彼らはそれまでに会ったこともなければ、二人で一緒の時間をすごしたこともなかったのに。
戦争が終わって、男性は解放されブリュッセルにもどった。彼は看護婦に会い、看護婦は彼に会った。そして二人は失望することがなかった。間もなくして二人は結婚した。
月日が過ぎ去った。子供が産まれ、歳をとっていき、世界は少しは変わった。息子はベルギーで勉学を終えて大学院で学ぶためにドイツへ行った。ドイツの大学で彼は若いドイツ人の女性を愛するようになった。両親に手紙を書き、彼女と結婚するつもりだと伝えてた。
どちらの両親にとってもこれほど幸福なことはなかっただろう。両家は会う手はずを整えて、約束の日にドイツの両親がブリュッセルのベルギー人の親の家に現れた。ドイツ人の父親が居間に歩いて行きベルギー人の父親は立ち上がって出迎えたが、そのとき二人は互いに目をのぞき込み、旧知の間柄であることに気づいた。何年も過ぎていたが、相手が誰であるかに疑いの余地がなかった。過去の一時期彼らは毎日顔を合わせていたのだ。ドイツ人の父親は、ベルギー人の父親が戦争中をそこで過ごした捕虜収容所の看守であった。
手紙をくれた女性は急いで付け加えて書いているが、二人の間には悪い感情は何もなかった。ドイツの体制がいかに野蛮であろうとも、ドイツ人はその5年間ベルギー人の父親が反感を覚えるようなことは何もしていなかったのだ。
この二人は、今ではかけがえのない友人である。人生の中で最大の喜びは、共通の孫たちであった。
つづく
1999年6月19日
http://www.geocities.co.jp/Hollywood-Miyuki/4665/whywrite.html
qfwqf@geocities.co.jp