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ボストンの最も治安の悪い地区の下層階級の家庭に、71年6月5日に9人兄弟(アーサー、ポール、ジェームズ、デビー、ミッシェル、ロバート、トレーシー、ドニー、マーク)の末っ子として生まれる。 マークの母親は、夫と離婚後収入が少なく、マーク達家族は貧しい生活を送っていた。 1984年、12歳のときにはブレイクダンサーとしてボストン中の街角で踊り、同年夏マークが12歳のとき、86年に全米デビューしニューキッズ・オン・ザ・ブロックとして世界的なブームを巻き起こすグループがまだナヌークと名乗っていた下積み時代、マークはそのオリジナルメンバーとしてオーディションを受け、兄のドニーと参加した。しかし、音楽的方向性の違いから、一年も経たないうちにマークはすぐに脱退。 その後、14歳で参加したダンスグループ、エレクトリックジェネレーションズはかなり有名だったらしい。 ドニーがニューキッズで富と名声を得ていく一方で、ストリートキッズだったマークは16歳で高校を中退し、万引き、車泥棒、強盗をしたり、ドラッグやアルコール、喧嘩を繰り返していた。 88年、彼が17歳のときには友達とドラッグでハイになって凶器携帯と通りを歩いていた男性に対する暴行で逮捕され、更正施設に入っていたこともある。 この一件以来、自分の生活を変えようと決心したマークは、施設に入る前からやっていた曲作り、ストリートラップにさらに力を入れる。 そして、既にニューキッズで活躍し音楽界で力を持っていた兄ドニーの協力で、91年にインタースコープ・レーベルからマーキー・マークアンド・ザ・ファンキー・バンチとしてデビューする。 『ドニーの弟』として大いに注目を集め、デビューシングル『グッド・バイブレーション』は一躍全米ナンバー1に輝く。また、1992年MTV・ビデオミュージックアワーズで マークはニューキッズのような甘いラヴソングやポップスとはかけ離れた本当に自分が歌いたいラップをとことん追求していった。その結果、アルバムには少々過激な歌詞の曲も含まれ、CDのジャケットにはペアレンタル・アドバイザー(子供には不向きな内容があるため親には注意を払って欲しいと伝えるシール)が貼られてしまった。 次第に『ドニーの弟』としてではなく、ラッパー、マーキー・マークの音楽を聴いてくれるファンをつかみデビューアルバム『ミュージック・フォー・ザ・ピープル』はプラチナディスクを獲得した。92年に本格的なツアーに乗りだし、9月には兄ドニーのプロデュースのもと、セカンドアルバム『ユー・ガッタ・ビリーヴ』を発表。 しかし翌年バンドは急に解散してしまい、惜しまれた。 その93年の夏、ドイツでプリンスアイタル・ジョーのプロダクツにマークが参加する事になった。2人がジョイントしたファースト・シングル「Can't stop we」がスマッシュヒットとなったことを受けてセカンドシングルの『Happy People』をリリースしたところこれがドイツ国内でいきなり25万枚のセールスを上げて見事トップ5に入り。ドイツの権威あるメディア・コントロールのチャートでは最高4位をマークし現在までに40万枚を超えるロングセラーになり、このデュオはスターとなった。 高校を中退したために、ハイスクール卒業の資格さえ持っていなかったため、レコードデビュー後に自宅近くの学校で再び勉強を始めた。そこでいくつかの単位を修得し、残りは通信教育で修学。ツアーバスの中でも勉強を欠かさず、21歳で高校卒業能力試験をパスし無事卒業証明書を郵送で受理している。 また彼は故郷ボストンにあるドーチェスター青少年共同体に多大な援助をしている。ここは教育に恵まれない子供達が集まり、スポーツや音楽が自由にプレイできる、いわゆる個々の才能を磨くための場所。職員も子供達をやさしくし指導しながらサポートしている。 マークと三歳年上のドニーは他の兄弟が独立した後もしばらく母親と同居していたこともありとて仲がいい。ドニーがニューキッズとして成功してからも、マークは彼の仕事場を訪れ、ツアーついて行った事もある。ニューキッズの『ステップ・バイ・ステップ』や『ゲームズ』といったヒット曲のプロモーションビデオにも特別出演している。マークがデビューした時には、ドニーがチーズィー・ラット・シガリーと言う偽名で何曲かプロデュースしたり、ライヴステージで司会も勤めマークのマネージメントを執り行うようになった。 92年秋から93年にかけてのキャンペーンで、ケイト・モスと共にCMに出演、二人が上半身裸で抱き合ったポスターが各国の店頭に貼られていた。 ゲイにも大人気だったマークだが、カルヴァン・クラインの下着モデルとして活躍しているとき、同性愛を嫌悪するような発言をし、アンチ・ゲイで有名なレゲエ・ミュージシャン、シャバ・ランクスとテレビに出たことから非難を浴び、アメリカとヨーロッパでゲイの活動家達がカルヴァン・クライン商品に対するボイコット運動を呼びかける。これに対してカルヴァン・クラインはマークとの契約更新を中止。 最近のインタビューでゲイの人からもてはやされる事についてどう思うかという質問に対してこう答えている。『全然構わない。彼らのおかげでここまで来た部分もあるから。人が僕のことをキュートだって思わなければカルヴァン・クラインのモデルには選ばれなかっただろうし』 94年には日本でカルピスソーダのCMに出演。ドニーがCM用に作ったラップソングを歌った。 また若者の選挙離れを防ぐため、MTVの選挙参加を訴えるCMにも参加した事がある。 その後マークは次第に映画界に足を踏み入れる。 カルヴァン・クラインのモデルをやっていたときにオファーはたくさんあった。 しかし、どれもマーキー・マークのイメージのものばかりで93年にギャラ欲しさに出たテレビドラマ「悪女は三度涙を流す」(The Substitute)に対してマークは「全くくだらない番組で、撮影なんかたったの2日だけ。台本すら読まずに出演を決めてしまった。だってどうせ俺の台詞なんてマーキー・マークがコンサートでしゃべってるようなことと変わらないんだから。」と。 しばらく経って94年ペニー・マーシャルから『勇気あるもの』(Renaissance Man)のオファーが来た。最初は役に興味があったんじゃなくて、ペニーと主演のダニー・デビートに会ってみたかったという理由だったが、打ち合わせが終わるころには、ぜひ出演したいとの思いから脚本を読み、仕事に釘付けになった。これがマークが役者にはまるきっかけになった作品である。 『勇気あるもの』の演技で実力を認められたマークは、95年「バスケットボール・ダイアリーズ」(Basketball Diaries)でレオナルド・ディカプリオと共演した。この共演がきっかけでレオとは友達になり一緒にクラブに遊びに行きドンチャン騒ぎをして喧嘩までしたというエピソードも。 96年には『悪魔の恋人』(Fear)で主役を演じMTVムービー・アワーズで最優秀悪役賞にノミネートされた。 97年には『フェイクディール・偽札』(The Traveller)ビル・パクストンと共演した。その後 97年『ブギー・ナイツ』(Boogie Nights)で主演しポルノ男優の役を演じたこと、またその作品自体のすばらしさも認められ、俳優マーク・ウォルバーグとして世間に名を知らしめた。 それからは、98年『ザ・ビッグ・ヒット』(The Big Hit)で主役を演じ、 99年『NYPD15分署』(The Corrupter)では、チョウ・ユン・ファと共演。 同年『スリー・キングス』(Three Kings)では、アメリカのテレビドラマ『ER−緊急救命室』のドクター役で有名になったジョージ・クルーニー、ミュージシャンのアイス・キューブと共演。 この映画での共演をきっかけにジョージとは意気投合し、2000年公開の『パーフェクト・ストーム』(Perfect Storm)でも共演している。 また、2000年『ザ・ヤーズ』(The Yards)、同年 『メタル・ゴッド』(Metal God)ではロックシンガー役を演じるなど次々に映画に出演している。 さらに、マークはアパートを借りて映画を制作、旧友を出演させている。その作品は『GHB』という殺人事件もの、『Damn Van Damme』というジャン・クロード・ヴァンダムを殺そうとする男の話、『16A』というビバリーヒルズ・ホテルで自殺しようとする男の話、自伝的な『goota get off Donkey Kong』などなど。 マークは音楽活動も続けており三枚目のアルバム制作も終えているらしい。自分が映画界にきちんと腰を据えるまではリリースしないつもりだそうで。 (映画雑誌「MOVIE STAR」より引用の部分あり) |
![]() お姉さんのトレーシー、とドニー。 抱っこされている赤ちゃんがマーク。1歳6ヶ月ってあります。 ![]() 左からドニー、マーク、ロバート・ウォルバーグ兄弟。 ロスで行われた『ブギー・ナイツ』でのプレミアでの様子。 ![]() ![]() アンダーウェアーを見せるのもマーキー・マークスタイル。 右は92年リリースの2ndアルバム『ユー・ガッタ・ビリーブ』。 |
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![]() ![]() 左はケイト・モスとのカルヴァン・クラインのポスター。 右は日本でのカルピスのCMのころのもの。 |
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![]() この共演がきっかけでレオとは友達! ![]() MTVムービー・アワーズで最優秀悪役賞にノミネート スリー・キングスでジョージ・クルーにとは意気投合! |
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