ラジオを聴くきっかけになったのは中学1年のころ、ラジオ付き目覚まし時計を買ったのがきっかけで、ラジオを聴くようになりました。SBSで初めて聞いた番組は土曜の10時からやっていた。「クンちゃんの何でもナイト」でした。SBSのクンちゃんが色々なコーナーに来たハガキを読んで、楽しむ番組で、俺はその中でも川柳のコーナーが好きでした。
高校になると、当時アナウンサーだった高梨アナとアシスタントパーソナリティーのげんちゃんと言う人がやっていた。”パステルミュージアム”を毎日聴いていた。月曜から金曜の11:30からやっていた30分番組で「恋の相談パピプペポ」とか替え歌のコーナーがあった。どんなリスナーが聴いていたかはあまり覚えていないが、この番組が終わった後、”今夜は全国ラジオバトル”という全国の地方番組を紹介する番組があった。俺はこの番組ではじめて”俺たちパープリン”に出会う。パープリンを初めて聴いた時は正直びっくりした。こんなバカで面白い番組は聴いたことがないと思った。それより宮崎弁の連発に驚いた。この時宮崎に行くことが決まっていたので、「俺はこのラジオを聴くんか」と思い「大丈夫やっちゃろか?」と言う不安でいっぱいだった。
大学生になり、宮崎に引っ越した。最初のころは、宮崎でパープリンを聴いて、実家に帰った時に、”今夜もポンと肩貸すよ”を聴いていた。ラジカルモンスターが始まってから実際に聴くようになったのは、3年ぐらいしてからだ。たまたま宮崎でSBSに合わせたら聞こえたので、驚きと嬉しさのあまり電話をしてしまった。そしたら、スタッフの人に「クイズに出てみない」と言われたので、クイズに出る事になった。それが”てつのラジカルモンスター”だった。そのときのペンネームは”宮崎の男”だった。見事クイズに勝ち、図書券をもらった。それからSBSにハガキを書くようになった。
SBSにハガキを書くようになって、思った事は「パープリンのと同じ様に書けばいい」と思った。当時の俺は(今もそうだが)パープリンの存在が強くて、ラジカルモンスターでは笑えなかったからである。そこで俺は静岡の番組を面白くするために、バカなハガキを何枚も書いた。普通の言葉だとハガキを読まれても存在感が無いので、宮崎弁で書いて、存在感を出すようにした。と言うよりもパープリンにハガキを出す時に、宮崎弁を使っていたので、言葉を一緒にしたほうが、ハガキが書きやすいだけだった。これがリョーチにうけた。ラモーではかなり存在感のあるリスナーの一人になったようだ。この頃静岡で自分のハガキが読まれるのは嬉しいが、宮崎で聞き取れなくて困っていた。そこで”ラジオ番組表”という本にあった通販のページを見て、ループアンテナを購入した。初の通販がこれであった。これがまたすごい代物でノイズが少なくなって、クリアに入るようになった。SBSの放送の7割ぐらいは聴けるようになった。(電波の関係で夜だけ)
「俺たちパープリンがなくなります」という放送があった後、俺は言葉もでなかった。あれは忘れもしない98年3月13日。前の放送で「重大発表があるから明日は必ず聴けよ」と言った時、俺はどんな重大発表やろか?と思い、気になって仕方がなかった。もしかしてパープリンが終わるのではないかと思った。次の日もその事がづっと気になり、俺は学校を休んでしまった。俺の予想は的中した。今まで”寝る前にパープリン”といった具合で歯みがきやお風呂に入るのを忘れても、パープリンだけはかかさず聴いていた。その俺の生活の一部が消えるのかと思うと、食事もうどんしかのどに通らなかった。重大発表の後、リスナーから「なんで終わると?」というハガキや電話が絶えなかった。リスナーの中にはラジオ企画製作の責任者宛にハガキを出した奴もいた。大人の人からも電話があった。何でも「今の中高生の考えている事がわかる素晴らしい番組だから続けて欲しい」とのことだった。パープリンが終わる前、最後のイベントをやった。ノーリーが歌ったり、公開録音も行なった。公開録音の時、俺のはがきが読まれた。ノーリーが「このハガキ書いた奴は起立!」と言ったので、俺は立ち上がった。丁度そのハガキは俺がはじめてパープリンを聴いた時のハガキだった。ノーリーから「静岡から来て、パープリンのリスナーになった素晴らしい人間です」と言われ、会場のみんなから拍手をもらった。俺はちょっと恥ずかしかったけれど、すごく嬉しかった。
今ではパープリンも終わり、”らじおの王様”とMRTラジオの”ノーリーのよざらナイト”ぐらいしか聴かない毎日になりました。これからも面白い事があったら、ハガキに書いて出すようにします。
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