Belles Lettres Diary


6・18 「雨の日のピクニック、蕎麦屋について、アンナ・カリーナと映画の夜」
 
 今日は祖母の予てからの望みを叶えるために、家族と車で明治神宮の菖蒲園へと散歩しに
出かけた。毎日が日曜日であるような暇人のぼくは違うが、家族全員が仕事や用事もなく
揃うのは割と珍しいので、それだけで雰囲気もいつもより和らいでいるような気がした。
 
 ぼくが明治神宮を訪ねたのは恐らく約11年振りほどだと思うが、それは11年前に
明治神宮にて個人的に象徴的な出来事があり記憶しているだけで、実際にはその
風景など全く覚えていないので、今回はとても新鮮な気がした。平日だから空いていると
家族全員が考えていたのに、「平日が空いてるから平日が良いわよ!」、と話し合いでも
して来たのだろうか、中年と中年も半ば過ぎたおばさまが大群をなしていて、ぼくは思わず
家族の人と、「これは・・・・・これは熟女パレードか・・・・・!」、と狼狽したほどであるが、
森の奥深くまで進むと、辺りは霧のように静寂が舞い降りていて、唯一聞えるのは風と、
緑の隙間を縫いながら飛び交い、地上に黒い翳を落とす鳥の鳴き声くらいで、それから
しばらくして、「ピクニック、昔のピクニックのような懐かしい気分にさせられるね」、と話した。

曇り空の立ちこめる灰色の大気と、そぼ降る雨。辺り一面に木々やその緑に覆われた森。
そしてその暗い緑の翳から透き通りながら震えているかのように映る粒子。そして池に
咲いた蓮と、その池だけが木々や緑からも光を遮られず銀色に輝き、水面は雨の滴りを
受け揺らめき、紫と白に統一された菖蒲はかすかに風に吹かれ、時折ささやくように
震える木の葉と、その隙間からこぼれおちる古い一筋の光のような古ぼけた記憶の
かけらたち。そしてぼくは記念にとせがまれて、家族の写真を撮るのに忙しい。
 
 散歩も終わると、まだかなり早い時間ではあるが折角家族全員で出かけて来たのだからと、
赤坂の蕎麦屋、砂場へと車は雨の原宿の街から街へと走り去り、ジョン・レノンのテープが
流れるのに合わせて、ぼくらは物思いに耽る時を過ごす。ところでぼくはスパゲティも
好きだけれど、麺類となるとやはり蕎麦が一番好いと思う。他にもおいしいお店はいくつも
あるに違いないが、ぼくらが出かけるとなると神田藪蕎麦か、六本木の本むら庵か、
赤坂の砂場かで、母に言わせるとぼくが生まれてはじめて外食したのはその砂場らしい。
 
 砂場に着き、一息ついたところで家族と煎茶を飲みつつ、卵焼き、焼き鳥、茶碗蒸、それから
かけを食べ、冷えたお汁粉をいただく。ぼくはお汁粉に詳しいわけではないけれど、個人的には
ここの冷えたお汁粉に勝るお汁粉などないと考えている。またどうでもいいような話なのだ
けれど、ぼくはすてきなお店に行くと必ずマッチをもらうようにしている。特に収集癖があるわけ
ではないのだけれど、<そこまでぼくは根気良くもないし気力もないのだ>、すてきなマッチを
見つけるともらわずにはいられないわけだ。だけれど、行き慣れないお店に出かけることが
なく、いつもと同じお店にしかぼくは行かない性質なので、部屋にはここ砂場のマッチと喫茶店
ウエストのマッチばかりが揃えられているけれど、ふたつともすてきだし砂場の方は絵柄が
いつも違うので、集めがいがある。そして砂場はいつも絶対に2種類の絵柄が印刷された
マッチを二箱用意しておくのに、今日はどうやら一箱だけらしくて、すこし寂しいような気がした。
 
 家に戻ると、まだ5時を過ぎたばかりで玄関には猫が出迎えてくれた。それから
しばらくして明るいうちにと思い、すぐに風呂に入る。ぼくは明るいうちに蝋燭を燈して
風呂に入り、日が青白く翳り行くままに風呂に浸かるのがとても好きなのだ。とても寛ぐ。
 
 部屋に戻り、今夜こそはとジャック・リヴェットの『修道女』を観る。J.L.G.作品以外で唯一
アンナ・カリーナが主役を演じた映画らしく、いつものJ.L.G.での気が楽に抜けたような
かわいらしい役者としてではなく≪勿論、気を張り詰めた役は他にもあるけれど≫、今回は
迫真の演技という感じで、一言で内容を説明すると自分の意志ではないのに修道院に
入れられた少女がどうにかして自分の馴染める世界に逃げたいと願う物語りで、原作は
「百科全書」などの著者のディドロによるもので、舞台は18世紀だ。この映画が完成された
当時は内容がショッキングなため≪つまり、健全で清純な場として誰しもが認知しているで
あろう教会をそのようには全く描いていない≫、正当な評価を受けられず、ただ噂の
種として話題にされただけで終えられたそうだ。確かに観終えたいま思うが、内容は
長くてしかも全編重いし、ヨーロッパ人からすればその歴史的な宗教観やらの重圧さも
あるだろうから、尚更に重々しく感じたことだろうけれど、これほどまでに完成度の高い
問題作であり傑作があまり知られていない≪勿論、遅れているぼくが今まで知らずに
いただけの部分もあるだろうけれど、一般的にも例えばJ.L.G.によるアンナ・カリーナ
作品の認知度と比べてみてもやはり低いと思う≫ことこそが問題視されるべきだ。
 
 それでも、ぼくはやはりこの作品よりも軽くてポップな例えばJ.L.G.の『はなればなれに』に
記録されているアンナ・カリーナの方が素直に好きだけれど、今まではどことなく彼女を
かわいらしいだけのような印象が拭い去れずにいたけれど、やはり彼女は凄いのだな、と
改めて思わされた。後、ぼくはいまのところそこまで歴史を遡る趣味はないのだけれど、
18世紀マニアの人も観れば好いと思う。そして自分がつくづく18世紀に生まれずに
済み、現代を生きている幸運を感じれば好いと思う。ところで博識でフランス映画好きの
シネフィルたちから笑われてしまうかもしれないのだけれど、ぼくはこの映画を
観ながら、この胃がもたれるような重々しさはどこかで感じたことがあるぞ・・・・・と
思い出していたら、それは若尾文子が悲劇の女を演じる増村保造作品で、それは
例えば『女の小箱より 夫が見た』でもあり、またいま書いていて思いついたが
重たさだけでいえば、個人的には川島雄三の『雁の寺』の胃にもたれる感覚とも
似ていた。全部、若尾文子が主演だな・・・・・。だけれど、『雁の寺』には人を食う、壊れ
気味とさえ思える冗談のような終わりが用意されているし、増村保造の一連の作品にしても、
『修道女』ほどの重圧で救いのない雰囲気はないかもしれない。恐るべし・・・・・。
 
 ただ増村保造作品であろうが、川島雄三でも、この『修道女』でもただ単純に重苦しいだけ
なのなら約二時間半も観るに耐えられるはずはなくて≪しかも画面から一瞬たりとも目を
離せなくなるほどに意識を圧倒的に集中される≫、ここまでやはり見せられてしまい、そして
この映画を語りたくなるのは、そこにあまりにも刹那的で、儚い美しさが観る者の心に
静かに染み渡り、重々しさと同時に静かな熱を胸の奥深くに燈させるからなのだろうな。
 
 そして気づかないうちに夜は深まり、部屋は穏やかな闇に浸され、ぼくは半ば茫然として
ベッドに寝転がり、この同じ夜の闇が浸されていた時にアンナ・カリーナも最後のシーンである
舞踏会のある部屋の窓から、同じ古ぼけた夜を見つめていたのだ、と思うぼくの夜は更に
流れ、胸に揺らぐ確かな重たさだけが、ぼくにこの映画を記憶させようとしているかのようだ。



『修道女』

ジャック・リヴェット / アンナ・カリーナ



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6・17 「ウディ・アレンの映画に、そして東京の街にも、今日は雨が降る」

 いつものように遅い朝に目覚める。窓の外には静かに降り注ぐ小雨。

 いくらの焼きおにぎり茶漬けと漬物を食べ、ほうじ茶を飲む。食事の間、まるで今の今まで
忘れられていたのに、突然思い出された古い冗談のような激しい雨が窓の外に降りしきり、
自分はつくづく雨男だな・・・・・と諦めるかのように思う。そしておいしい食事をいただきながら、
激しい雨が滴る音を聞き、ウディ・アレンの映画について家人に話す。『夫たち、妻たち』、では
ウディ・アレンが密かに恋する女学生の誕生日パーティーの夜に嵐のような雨が降り、
『マンハッタン』でもコートをダイアン・キートンと頭に被り、ふたりして雨から逃げ去るように
プラネタリウムへと走り去るシーンがあり、そのふたつのシーンをぼくは思い出していた。
 
 食事も終わる頃になると、また思いついたかのように激しい雨は止む。身支度を済ませてから
今日は渋谷に出かける。以前はバスや電車に乗り、ひとり勝手気ままに街を散歩する日には、
必ず本やCDを用意した鞄をさげて出かけたものだけれど、最近はようやく大人になりつつ
あるのか、財布とハンカチだけをポケットに用意して、身軽にそのまま出かけるようにしている。
 
 渋谷に着くと人だかりの隙間を縫うようにして歩き、1階が小奇麗に新装されたらしいHMVを
通り抜け、それからブック・ファーストへと向かう。主な目的は今日発売されたばかりである、
待ちわびていた岡田史子の単行本である。来月には高円寺文庫センターにて、その単行本を
購入した人だけのための岡田史子のサイン会があるらしくて、サイン会のために高円寺まで
出向こうかかなり迷うも、そこまでミーハ―になるのもな・・・・・、と自らを鎮めるかのように、
高円寺と比べれば家から割とすぐの渋谷の本屋で買うようにしたのだ。だけれど、店には
彼女の単行本が一冊も見当たらず、結局2階の文芸コーナーをうろつきまわり、店を出る。
 
 それから、ブック・ファーストにもないとなると後はパルコ・ブック・センターでも覗いて
見るしかないな・・・・・と思い、ブック・ファーストを出て真向かいの東急文化村にある
ナディフにも行こうかしらとも考えたが、結局そのままパルコ・ブック・センターへと向かう。
 
 パルコ・ブック・センターの漫画のコーナーを恐る恐る覗いて見ると、すぐに平積みされた
やたらとポップな装丁の岡田史子の単行本を見つけ、一安心する。随分と昔に雑誌の特集で、
彼女の「サンルームの昼下がり」に触れてから、その儚い美しさに心を震わされ、それから
つい最近までどうにかして彼女の他の作品も読みたいと常々考えていたので、今回の単行本は
本当に嬉しい。高野文子が彼女について書いているのも、両者のファンであるぼくは個人的に
尚更嬉しくさせられる。しばらく店をうろつき、それから本屋と本屋を渡り歩いてようやく見つけた
『ODESSEY 1966 2003 岡田史子作品集 episode1 ガラス玉』を買う。読むのが楽しみだ。
 
 今日出かけた一応の目的も果し、一層気楽な気分でぼくのとても好きな古本屋である
Flying Booksへと向かう。Flying Booksはビルの2階にあり、まずは1階の古本屋もひやかし
程度に入口脇の岩波文庫のコーナーを覗く。ただついでに立ち寄り覗いていただけなのに、
以前から読みたいと考えていた、ジャン・ルイ・フィリップ、『小さき町にて』を発見し、暫し喜ぶ。
 
 それから目的のFlying Booksへ入る。別にFlying Booksだけではなくて、例えば池ノ上にある
十二月文庫でも、中目黒のCOW BOOKSでも好いわけなのだけれど、そういう趣味の良い
素敵な古本屋で時を過ごすのは、時々ぼくにはささやかな奇跡のようにさえ思えるすてきな
ひとときなのだ。店内にあるすべての棚と棚を穏やかに歩き、流れているジャズを気にして、
そして古い本たちの言葉、永い時を過ごして来た古い本にしか語れない静寂の内に宿る
ささやきよりも孤独な言葉に心を開く。ぼくはただその静けさに引き寄せられれば良いのだ。
 
 そして今日、ぼくがささやかではあるにせよ、お互いの永い孤独な沈黙の時を過ごし、
そして今日はじめてお互いを見出したのはナット・ヘントフ、『ジャズ・カントリー』。それからまた
誰かを待ちわびて、静かに夢見るような古い本たちを見て過ごし、ジャン・ルイ・フィリップの
『小さき町にて』も大切に買い、そのささやかな奇跡たちに小さな感動に震え、家に帰る。

 夜。家族との夕食。鰹のたたき、あさりの味噌汁、トマト・サラダと煎茶。食事を終えると、
その後片づけを手伝う。食事についての事柄がすべて終わると、リビング・ルームにある
ソファに寝ていた猫としばらく戯れる。6月にもなると、毛皮を纏う彼女はさすがに暑いらしく
最近はよくソファで寝ているようだ。そしてまたしばらくの後、風呂に入り安らぐひとときに浸る。

 風呂に入る前はジャック・リヴェットの「修道女」を夜更けに観ようかと考えていたのだけれど、
実際に風呂から上がり部屋で過ごしてていると、その永く重たそうな内容を思い、今日のように
街へ出かけて疲れている時には、何も考えずに観れるような映画の方が好さそうだと思い、
以前にも観ているのだけれど、カトリ―ヌ・スパークのかわいらしさをどうしてももう一度また
観たくなり借りてきた、バスカーレ・フェスタ・カンパニーレの『女性上位時代』を改めて観た。

 この映画についてはすでにあらゆる人が多くを語りすぎているので、今回またこの辺鄙な
物書きのためのスペースを使い書くまでする必要はないだろうけれど、ともかくインテリアから
ファッション、そして音楽に至るまですべてが洒落ていて、また気楽な雰囲気が何も考えずに
楽しめて好いと思う。それにしてもカトリ―ヌ・スパーク嬢のコケティッシュな可愛らしさには
ただ感謝したくなるほどだ。勿論、現代のフランスにもすてきな女の娘はいるのだろうけれど
<例えばコラリー・クレモ―ンやケレン・アンやカーラ・ブルーニー>、この時代のすてきな
女の娘たちには、スペシャルな雰囲気があるような気がする。勿論、ぼくが60年代頃に憧れを
持つ者のひとりだから、特別な印象があるだけなのかもしれないのだけど。その憧れの時代の
ぼくの好きな女の娘たちはフランソワ―ズ・アルディやアヌーク・エーメ、ブリジット・バルド―、
ジャンヌ・モロー、クロディ―ヌ・ロンジェやカトリ―ヌ・スパークなどがすぐに思い浮かべられる。
 
 ところで関係ないような話なのだけれど、今夜の映画にはそのぼくの大好きな美しい
アヌーク・エーメとも共演しているジャン=ルイ・トランティニャンが出ていて、ぼくは個人的に
役者が割かしと好きなので、この映画を観る楽しみは二倍あり、尚更このすばらしく軽い今夜の
映画が好いと思えて来る。彼の神経質そうで内気な雰囲気と、終盤では煙草をくわえ楽しそうに
映画でのカトリ―ヌ・スパークの隠れ家を破壊するシーンでのギャップが心地良い。他にも彼は
エリック・ロメールの「モード家の一夜」にも出ていて、ぼくはその映画もとても好きだ。
 
 映画を観終わり、ビデオを巻き戻す。、まぶたの裏に焼きつかれているのは嬉しそうに男に
またがるカトリ―ヌ・スパークと、馬乗りされたジャン=ルイ・トランティニャンの姿。もし
今夜のぼくが、いくらとてもすてきな女の娘と、例えば高橋マリ子のような女の娘と、
愛について語り合える機会があるとしても、多分ぼくは戸惑うだろうな、とすこしそう思うのだ。
 
   
『女性上位時代』

バスカーレ・フェスタ・カンパニーレ / カトリ―ヌ・スパーク ジャン=ルイ・トランティニャン