今回友人のHP開設祝いとしてパチンコ・パチスロのセミプロ日誌をプレゼントしたい思います。その前に簡単に私の自己紹介をしようと思
去年を語る
思い起こせば去年は最悪の年だった。1月から3月は卒業研究の合間をぬって仕事(パチンコ)に行ったのだが、月2日程の稼働では大き
く勝てるわけがなく、月3万程度の収入では生活していくのにも事欠いた。大学を卒業すると同時に就職、状況はさらに悪化したように見え
た。しかしさすがにパチンコのメッカ名古屋、大学の時には見られなかった激甘台、スロットの高設定台と勝つために必要な条件が揃ってい
た。そのため月5日程の稼働であったにもかかわらず2ヶ月で20万オーバーの好成績を叩き出した。しかし6月状況は一変する。研修場所
が名古屋から静岡に変わったのだ。現在の静岡といえばパチンコは2.3円交換、スロットは等価交換が大半を占める非常に勝ちにくい地域
なのである。運良くこの時は移動も入れて1ヶ月という短い期間だったため、試し打ち程度のマイナス1万円で済んだ。しかし静岡に配属に
なった場合の事を考えると、引退の二文字が脳裏から離れなかった。そして最後の研修地岐阜にたどり着いた。岐阜といっても飛騨高山地
方なので出玉を心配したのだが、静岡に比べればまだ打てる台が何台かあった。結局遊びに行くところもないので稼働日数が増え5万ほど
の収入があった。これで名古屋に帰れると今後の展開に期待していると“静岡配属”の辞令が下された。それは僕にとっては“赤紙”のよう
なものであった。同期の仲間と離れてしまうという辛さもあったが、あの環境の中で生活していかなければならないという絶望感が僕を襲っ
た。結局それ以降名古屋で仕事(パチンコ)する事は叶わぬ夢となってしまった。(1月〜7月 +約35万)
8月落胆の中、静岡にやって来た。早速ダメ元で近くにある3件の下見に行った。しかしそこにはわずかな期待を打ち砕くような光景があっ
た、どの店も出ていないのである。その中で一番ましだったのが大手チェーンのH店、釘に癖はないのだが2.3円交換にしては釘が渋く台毎
の格差が小さいため、勝てる台は見つけにくそうだった。あとの2店G、J店は無制限営業で全体的に釘が渋く、ボーダーを上回っている台を
見つけるのが不可能に近かった。そのような状況下であったため8,9月は他の市に下見を兼ねて打ちに行く程度で、ほとんどパチンコはしな
かった。さすがに10月にもなると近くのホールの下見も終わり、何とか打てそうな店を見つけることができた。しかしそんな数少ないホールで
も1日粘って1万〜1万5千という低い日当期待値の台しか打つことはできなかった。そのような状況下では打つ気も起こらないので月に2日
程度の稼働しかなく、11月が終わった時点で下半期の収支は+5万程度のものだった。しかしこの5万は本当に実力で掴み取った5万であ
ると言えた。そして12月の初めにやっと打てる台を見つけたのだが思ったとうりに出てくれず、気づけば釘が締められてしまっていた。その後
はどこの店に行っても打てそうな台が見あたらず仕方ないのでスロットを打っていた。しかしそれが間違いであった。結局スロットで4日ほど
稼働したのに全く確率どうり出てくれず、BIGの確率は常に1/300を軽く超えていた。しかもそれは等価交換の店ではなく7枚交換の店でで
ある。結局4日間で1回もコインを替えることはなかった。最後の最後の12月にきてハマリを連続で喰らい、勝てる台を打っているのに大幅に
マイナスになってしまった。結局最後に苦労して溜めた下半期のプラス分5万も無くなり、下半期の収支は±0となってしまった。
このような経緯から、去年のトータル収支は結局+35万という厳しいものになってしまった。この結果は下半期つまり静岡に来てから勝ち
分がないこと(±0)が原因なのである。
「パチンコで楽しんでるから負けないだけましだよ。」なんて事を言われても、そう簡単に同意はできない。現金投資に耐え、1000回転ハマリ
に耐え、日当期待値の低い台を打つ恐怖に耐えて半年間がんばってきたのに、それが無駄だったなんて酷い仕打ちだとしか言えない。98
年の12月が終わった時点で本当に引退を考えた、しかし僕からパチンコを取ってしまったら何も残らないのだ。パチンコを辞めてしまったら土
日は何をしたら良いんだろう、これと言った趣味もなく彼女もいない、家でゴロゴロしているのも嫌だ、暇の嫌いな僕にとって休みの日は地獄
のようなものになってしまうだろう。そう考えると僕にはパチンコをするしか道は残っていないのだ。結論にたどり着くまでにそう時間は掛かの
なかった。引退はしない、99年は必ずここ静岡の田舎でプラス収支にしてみせる。そう誓って99年を新しい気持ちで迎えたのであった。