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    第一章  春風


 

        ビルの間から東京湾が覗き、朝日を反射させてキラキラと輝いている。一日の仕事をを始める車の数が増えてきた。
    普段であれば、亜沙美も隆男もそれぞれの職場へと急ぐ頃である。
        早春の平日である。朝7時、岩瀬亜沙美は助手席に座っている夫の隆男とふたりで、大型のワゴン車を都心に向け
    て走らせていた。この車は二人が結婚してから初めて買ったもので、角張ったスタイルは保守的な印象を与えるが、車
    に対する二人の割り切った考え通りの無駄のないデザインだ。

        ハンドルを握った岩瀬亜沙美は湾岸高速へとハンドルを切った。渋滞には早く、車の流れはスムーズだ。スピーカー
    からはFM放送が流れ、助手席では夫の隆男が何を話す訳でもなく、コーヒーをスタイロフォームのカップから飲んでい
    る。

    「隆男さん、夕べは眠れなかったでしょう」
        亜沙美が悪戯っぽい笑みを浮かべて隆男に聞いた。
    「本当なら満員電車に乗っているはずの時間にあなたとこうして一緒に車に乗っているだけだって何だか特別のことをし
    ているような気分だわ。まるで遠足に行くような気持ち」

        亜沙美は二十七歳である。コンベンションの企画会社に勤務して四年になる。海外の大手企業が日本でプレゼン
    テーションを催す時の企画を担当している。コンベンション・センターを仕切って、国際会議のマネージメントを取りまと
    める華やかな職業だが、実際には几帳面に細部を詰めることの連続である。
        一流私立大学の社会学部を卒業して仕事を持つ亜沙美はキャリア・ウーマンの典型と言える。ブリーフケースを片
    手に歩く姿は、背筋が真直ぐに伸びて美しい。ショート・ヘアはおかっぱと言った方が似つかわしく、ほんのり薄化粧を
    した亜沙美は、結婚した後もどこか少女の愛敬を漂わせていた。

    「まあ、大人の遠足っていうところかな。初めてのデートに向かう男の子のような心境だよ」
        隆男は平静を装うように答えた。

        隆男は三十三歳。外資系投資銀行で外債の引受を担当するインベストメント・バンカーである。外国の政府や企
    業が株や債券を発行して何百億円という資金を調達する際、その証券を引き受けて投資家に販売するのが仕事で
    ある。巨額の資金を相手にするだけに、例え一パーセントの一割でも条件の設定を間違ってしまえば販売は直ちに
    滞ってしまうという神経戦である。

        亜沙美は親の転勤で高校時代の三年をすべてニューヨーク州郊外のハーツデールという町にある現地校で過ご
    した。その後も国際的な分野で定評のある私立大学に帰国子女として入学し、訛りのないアメリカン・イングリッシュ
    を話した。

        隆男は日本の国立大学の経済学部を卒業して都市銀行に就職したが、つねに集団行動を求められる社風に馴
    染むことができず退社し、アメリカのビジネススクールに留学した。2年間の留学を終えてアメリカの大手投資銀行
    にニューヨークで採用され、現地で1年間勤務した後に日本に帰ってきた。書類の上ではアメリカの企業から日本に
    「海外駐在」を命じられた格好になっている。

        隆男のクライアントが来日し、日本の機関投資家に対して『ロードショー』と呼ぶ会社説明会を開催した時、その
    アレンジを担当したのが亜沙美だった。隆男はその後も別のクライアントのアレンジのために亜沙美の手を数回に
    わたって煩わせることになったのだが、それがきっかけとなって二人はプライベートに付き合う仲になった。ふたり
    は一年半の間の交際を経て結婚し、東京湾岸のアパートに住むことになった。
        「アパート」とは言っても、それは二人がそう呼んでいるだけであり、実際には高級マンションと呼ぶのが相応し
    い。隆男の会社が日本に駐在している海外駐在員のために借りた外国人用のアパートであるので、広さは150平
    方メートルを超え、二人には十分過ぎるサイズである。
 
 
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