迷走映画日記

「ハリウッド・ノクターン」
時に太平洋を渡る飛行機のシートにおしこめられながら、時にゴザの上であぐらをかきながら、眠い目をこすって凝視したいとしいフィルムたちに贈る、罵倒と冷笑とコーフンに満ちたひねくれものの映画日記。
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「小説家なんて、どこにいる?」 [ 4 May 01]
「小説家を見つけたら」Finding Forester(2000)

この物語はあるタイプの小説家の神話を描いたものだ。
センセーショナルな大傑作をものしながら、その一作のみで筆を折った天才作家。
謎に満ちた私生活と、永遠に語り継がれる傑作。
彼の才能を持ってすればもっと多くの作品が世に問われても然るべきだったのではないか?
しかし、彼は隠遁し、世界中からのラブコールを一切無視する。
ありていに言えば、これは実在の作家J・D・サリンジャーをモデルにした物語だ。
この映画の主人公は、その隠された私生活を発見し、その再生と死に立ちあう。
プロットとしては面白い。プロットに忠実に製作されていれば、傑作になった可能性もある。

人は、可能性のまま封印された才能と言うものに、あこがれを持つ。
例えば、ジェームス・ディーン。
例えば、エルビス・プレスリー。
例えば、たこ八郎。
夭折した才能は無限の可能性のまま、生きることを許される。
人々の想像力の中で、永遠に。
そして“書かない作家”“引退した女優”という存在は、神話のように人々の精神を揺さぶる。前者の代表が、J・D・サリンジャーであり、後者の代表は原節子だ。
死者に引退の理由を聞く人間は居ないが、生きたまま職を投げ出した人間には常に“なぜ?”という問いが付いて回る。下手をすれば、彼らの存在は、その残した作品本体よりももっと興味深いと言ってしまってもいいかも知れない。

だから、その謎を物語の形で説き明かすと言うのは、十分に面白い。だが、残念ながらこの物語はその面白さの本質を伝えるだけのリアリティを備えていない。

要するに、嘘臭いのだ。

例えば、主人公の少年ジャマールの設定。
彼はバスケットボールにずば抜けた才能を持ち、ブロンクスの貧民窟に暮す黒人少年だ。
私立高校からその才能を見込まれて、スカウトされる。
だが、その学校の主のような古ダヌキの国語教師を上回る教養を持ち、文章能力も抜群。
その才能は、隠遁を続ける作家フォレスターとの出会いによって磨かれ、その教師の嫉妬を引きだすほどの輝きを放つようになる。

だが、ブロンクスの貧民少年が文学に馴染み、その基礎的な教養をどこで学んだのか?あるいはあえてこの現代に古典的な教養を身に付けるに至ったモチベーションはどこに有るのか?

この物語は、そういったキャラクターの本質に迫るエピソードを一切語ろうとしない。
あくまで最初から文武両道の万能の能力(ただし、物語の要請によって若干粗削りで残されている)を付与された狂言回しとして、都合よくそこに出現した機械仕掛けの人物でしかない。

またフォレスターの隠遁に関しても、この映画はロマンチックに過ぎる動機づけを与えている。戦争から帰還しアルコール漬けになった兄の死ろ看過したために筆を折ったという、一見それらしい理由がそれだ。しかし、それも正直言って、自らを緩やかな時間の死の刑に服させるような動機になりうるかは疑問だ。才能ある作家が沈黙に至る動機としては、あまりに取って付けたような理由にしか思えない。

プロットから、物語へと肉付けする段階で、この脚本家は明らかにプロット本来の要請するエピソードを膨らませていく作業を怠っている。要するに、人前で自分の才能を証す作業をする職業、作家に限らずスポーツ選手、絵描き、バンドマン、映画監督、俳優、コメディアン、なんでもいい。そういった実際に生産には関らない“虚業”を自らの職業に選んだ人間の、内なる葛藤や苦悩に一歩も迫っていないのである。

ハッキリ言おう。作家の筆を止めるのは、自らの才能と読者の期待にギャップを感じ、その重責に耐えられなくなるからだ。他に理由などない。嫁との不仲や、肉親の死、借金や、失恋などは、作家にとってアフターバーナーになることはあっても、筆を止める理由になどならない。己の人生の満ち足りない思いや、苦悩、不満たらたらの愚痴を作品に昇華させるのが作家という生き物なのだ。もしそんなことを理由に作家稼業の看板を降ろす輩が居たとしたら、そんなものは、そもそも作家と呼ぶに値しない人間なのである。

前から思っていたことだが、もしかしたら「作家」という稼業の本質は、実はアイドルなのではないだろうか。そう言いたくなるほど、世間が“作家”という職業に抱くイメージはロマンチックで現実離れしている。例えばそれは、“スチュワーデス”や“看護婦”あるいは“アナウンサー”といった花形業種が、AVビデオのコスチュームプレイで人気があるのと変わらない扱いだ。職業自体の本質とはまったく関係ない部分で、第三者の装飾された無責任な思い入れをもって、記号化されあがめ奉られているわけだ。

映画には、そうした記号性を利用した「職業物」というジャンルがある。いわゆる大物スターに特殊な職業を設定して目先を変える企画モノである。したがって映画的本質はその職業がもつリアリスティックなドラマを描くつもりはさらさらない。スターに少し変わったシチュエーションを与えて、いつものマンネリズムから脱却させようというだけなのだ。先のAVの例えで言うなら、この映画は「欲情スチュワーデス濃厚サービス」だの「エロ看護婦、注射はされるのが好き」だの「女子アナ、恥ずかしい特別番組」だのといったエロ映画とかわらないレベルなのだ。一言で言えばこの映画は、ショーン・コネリーに“作家ごっこ”をやらせたらどうだろうという以上の企画意図はみられない駄目映画だったのである。

だが、現実的なことを言えば、創作者の内面を掘り下げるというテーマは、けっしてショーン・コネリーが出るような映画で追求出来るテーマではないのも事実だ。この映画の製作者としては、ショーン・コネリーの次のコスチュームプレイに、たまたまスパイや盗賊ではなく、作家という職業を選んだだけに過ぎないのだろう。理由などなんでもいい、物思いに耽る苦悩の作家の横顔をショーン・コネリーに演じさせておけば、商品としては一丁上がり。そんな会話が、映画会社の会議室で交されたような気配がぷんぷんする。

確かにこの映画には多くの古典からの引用、教養風味の会話が溢れている。無邪気な映画ファンなら、それだけで、文芸風味のエッセンスを感じ、そこから先は判断停止状態に陥ってくれるかもしれない。だが、それは、古ぼけたタイプライター同様、一見もっともらしくコネリーを飾る小道具でしかないのだ。本当の作家は、他人の書いた内容になど頓着しない。なぜ自分がことばを操るのか。言葉を通じて何を語ろうとするかを追求するのが仕事であって、他人が書いた文章をずらずら引用するのが職業ではないのだ。むしろそれは、フォレスターが軽蔑する評論家や国語教師のファッションに過ぎない。作家の武器は自分自身の感覚と言葉であって、他人の言葉ではないのだから。この辺の認識の甘さも、この物語の薄っぺらさを助長している。

そういえば、根本的な疑問なのだが、ここに登場する文筆家は本当に小説家なのだろうか?確かにフォレスターは文筆家であり、「バビロンをめざして」(この辺はフィッツジェラルド風味か)という著作が一冊あるとは言われている。だがそれが小説なのかどうかは、誰も何も言っていない。作中登場する彼の作品は野球をテーマにするエッセイであってフィクションではないのだ。そうか、キーボードを叩いていて、不機嫌そうで、偉そうで、なんか値打ちの有りそうな賞を貰っていれば、それで小説家ということになるだろうという、この無神経な感覚に至っては、吐き気しか感じない。

だがそうだとすれば、ショーン・コネリーの風貌だけでこの邦題を付けた日本の配給会社は、見事にこの映画の本質を突いている事になる。この物語の中には小説家なのど一度も登場しない。だから「見つけたら」(仮定)なのだな。フォレスターさんは見つかったが、「小説家」と呼ぶに足る人物は徹頭徹尾この映画には姿を表さないのだから。

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キャスト ★★
監督   ★
脚本   ★
美術   ★★

2001年5月4日 コンチネンタル航空ロサンゼルス→成田機内
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