迷走映画日記

「Talk is Cheap」
音楽が無ければ、僕は人を殺していたのではないだろうか。セックスよりも先に、脳を痺れさせ、魂を踊らせることをロックが教えてくれた。ギターの暴力的響きとドラムの根源的な唸りが十代の絶望的な渇きに与えた輝きを、今も忘れない。
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「金太郎飴中毒〜井上陽水の悪意に満ちた10年殺し Fri, 5 April 2002
マキシシングル「この世の定め」井上陽水(フォーライフ)

ったく油断のならないオヤジである。
“もう井上陽水なんか終わりでいいじゃないか”そう思ったのは、たしか90年代の初頭「少年時代」が売れたころだろうか。今思えば若気の至りというか、愛する故の反発でそんなことを思い詰めてしまったようなのだ。
しかし、このシングルにはそんな10年間の鬱屈した彼への思いを吹き飛ばすような衝撃がある。イヤ、なにも新しい事をやっているわけではない。ただ井上陽水が井上陽水に戻ったというだけのことであり、それこそが凄いことなのだ。

この人の才能はとにかく凄い。そもそもフォークという時代的なジャンルがあったから世に出た人なので、音楽辞典的なカテゴライズで言えばフォーク歌手と呼ぶのが正しいのだろうけれど、彼の作り出す音楽はそんな狭い領域に当てはまりはしない。というか、この人の音楽をきちんと分別できるジャンルなどありはしないのではないだろうか。ロックというにはくねくねとしていて、フォークと呼ぶには色気がありすぎる、ポップというにはシュールすぎて、にもかかわらず人の心をぐっと捕まえる声とメロディが確実にそこにはある。テクノやレゲエといった異文脈の要素もがっちりと取り込みながら、どれにも寄り添わない。リズムや音色によるジャンル分けなどまったく無意味にしてしまう、強力な存在感と個性によって構成される“井上陽水の音楽”としか言いようの無いものがここにはある。
メロディや詩もさることながら、あの声、あのタイム感、いわば個人の体臭の様なものが濃厚に楽曲の中に封じ込められていて、第三者にそれを再構成しろといっても絶対に無理なもの。それが井上陽水なのだ。
しかし、そのワンアンドオンリーさゆえに、あれだけのセールスを誇りながら(彼の畢生の名作「氷の世界」のセールスは当時のレコード販売の記録を軒並み書き換えているのだ)どうしてもスタンダード化しないという恨みもあった。それが故に、王道に君臨するシュールという奇妙なたたずまいを彼にあたえていたのだが。
その風向きが変わったのは映画「少年時代」のサントラ曲としてリリースされた同名曲がヒットしたころのことだろうか?極々正統派のこのバラードを歌う陽水の声は日本中に響き渡った。しかし、いつものヒットとは違う。あまりに美しすぎるメロディに、僕は首をかしげた。
ご存知の通り井上陽水という人はどんなときにもサングラスを外さない。
まるで顔面に張り付いてしまったとでも言いたげな、その黒い仮面は、世の中を斜めにながめ、絶対の第三者として、生涯裸の王様を告発しつづける意地悪な子供の魂を忘れない、井上陽水という人の絶対個性の象徴であったように思う。
あのくねくねしたメロディも、ねっとりした歌声も、そして意味というものとはおよそ程遠い歌詞もすべてはそうした彼の存在全体から産みだされた産物であって、陽水以外の人が歌ってもなんの意味もない。爆発したような癖毛と狂気のサングラスとねじ曲がったあの口元から発せられるものであるから、陽水の音楽は陽水の音楽として存在し続けてきた。
「アジアの純真」も、「飾りじゃないのよ、涙は」も、すべて陽水が書いた曲ではあるが、アイドル達が歌ったそれと、陽水がセルフカバーしたそれとでは、音楽としての質感が全く違う。
「この世の果てから人類を眺めた、地球最後の爬虫類の視点」とでもいうべき陽水の超絶した“非所属感”があって、はじめてあれらの楽曲は完成するものである。陽水の音楽が羽毛布団の本体なら、第三者のカバー曲は布一枚のベッドカバーにすぎず、また陽水の音楽が芳純なワインであるなら、第三者のカバーはそのラベル一枚にも達していないと言ってしまってもいい。


が、「少年時代」はちがった。
当たり前のメロディ、当たり前の歌唱でしかない。確かにあのノスタルジアにあふれた秋の午後の日差しのような空気感は確かに、陽水でなければ出せない味であり、楽曲としても優れている。しかし、一方でこんな小学校の音楽の時間に歌わされるような折り目正しい唱歌のような音楽を彼が歌う意味などドコにあるのだろうかと僕はいぶかった。

伝え聞くところに井上陽水という人は、非常に談話好きの面白い人である反面、非常に嫌みで意地悪な部分ももった人でもあるそうだ。これはある人の経験談として漏れ聞いた話しだが、酒を飲むと「あなたは頑張っていないですね」などと挑みかかるようなことを、あの爬虫類のような口調で言いだすのだという。無論相手もその世界でいっぱしのポジションを掴んだ有名人だったりするから、一歩まちがったら殴り合いになるような物言いである。しかし、陽水は相手の気持ちなど斟酌もせずにこう言うという。「僕はね。親の望んだ医者の道を全部放り出して音楽をはじめて、20代のはじめにレコードを山ほど売ったんです。誰の助けも借りずにね」。そのレコードというのは言わずとしれた国民的大ヒット「傘が無い」のことであろう。あの曲ほど誰の口にも口ずさまれず、愛されていない大ヒットも無いと思う極めてエゴイスティックで病的な作品のくせに、誰もが一回きくと脳にウィルスでも植え付けられたように忘れられなくなってしまう。それでいて誰の心にも染まないという意味ではまるで宇宙人の言語のような歌詞と曲だった。しかしそんな作品を、日本中に認めさせ、実際に財布のヒモを緩めさせたという事実を持ちだして、彼は相手を黙らせてしまうのだという。
なんとも陽水らしい、異様でなおかつチャーミングなエピソードだと思う。

しかし、その異様さがまったく「少年時代」にはない。
まるで普通に才能のある音楽家のつくった、当たり前のバラードではないか。
アレを聞いたとき、僕は陽水もやはり人であったのだなと思ったものだ。
それまでのシュールで異様な楽曲とは明らかに違う。

そこに僕は、井上陽水であるが事への倦怠を嗅ぎだしていた。
井上陽水というアーチストは「己自身であり続けること」を貫いた事によって、強大な存在感をもったオリジナリティの金字塔を築いてきた。人は誰しもそれぞれに独自の生理や快楽構造をもっているものだが、社会に出ればそれを曲げ、ドコにも存在しない“中道”と言う架空の価値観に寄り添うことで糧を得、社会のどこかにポジションを確保する。
だが、陽水は、まるで赤ん坊のような無垢さ、傲慢さを貫いて、社会を逆に彼の感覚に寄り添わせて見せた。先に紹介した「君はまったく頑張っていない」という、一種ワル絡みのような物言いの正体はこれである。いわば、社会に媚びを売って、日々の糧を得ている音楽など何の意味もない。芸術とは己の感覚の表現である以上、徹底して自分を貫いた上で、社会の価値観をねじ伏せ、巨大なセールスを得る以外は意味が無いのだ。「君は全然頑張って居ないよね」という意地悪極まり無い彼の物言いの中に、僕は陽水のそうした主張を感じてしまう。いわば裸の王様を狩りたてた、純粋無垢かつ冷酷無比なあの少年の視線を。
当時陽水は40代半ばであり、プロ生活20年を越える大ベテランである。その華やかなキャリアから考えて、名声も金も十分すぎるほど得て居るはずであり「もう一華」といったさもしい根性で世間に媚びて「己を曲げて世によりそう」必要があったとはとうてい思えない。その時期にあえて時期に、あたりまえすぎる「少年時代」を書き歌ったということを、この文脈でどう解釈すればいいのだろう。

の当時の僕はそこに、倦怠と20年のキャリアによって図らずも体制化した自己への批判を感じた。
彼が誰にも媚びない井上陽水自身であるかぎり、その創作物ははすべて高い水準で井上陽水作品として生産され続ける運命にある。それが世間一般の物差しが通用しない唯一無二の存在であるかぎり、それを越えるのも陽水作品でしかないし、対比される対象も己自身の作品以外に無いからだ。ということは無限に続く鏡地獄の中で陽水は、一生陽水でしかない。彼の天の邪鬼な感性は、年々酌みせど尽きぬ泉のように、ずっと名作を産みつづける“井上陽水工場”である自分に飽きてしまったのではないか。そして自身をも、裸の王様に仕立てて笑い飛ばそうとしたのだろう、と。
その手段として彼は、これまで唯一やっていない人の世の当たり前の感性に降りて、その文脈の中で自分が何を作れるかを試した、と考えればすべての平仄が合う。“あの井上陽水”が平易なメロディで万人に通じる叙情的世界を歌うという行為は、生涯井上陽水一筋という彼の作ってきた文脈に対する最大の反逆であり、極めてアバンギャルドな行為になるからだ。
裏の裏は表であるように、異端者が己の作風に異端な作品を作れば、平凡な作品を産むことになるのは道理である。とはいえ、腐っても陽水は陽水である。作品はそれなりにハイクオリティなものになったが、決して独自な作品ではなくなってしまった。陽水個人にとっては冒険であっても、それを観賞する側の僕らには関係ない。漠然と僕は、今後、退屈しのぎに陽水はこの路線で、自分に陽水たることを望む人々を裏切り続けていくだろうと思った。社会一般の価値観と拮抗詩続けることの年齢的体力的限界も考え合わせると、今後、陽水が陽水であり続けることをこれ以上期待するのは無理だと感じたからだ。
ならば、陽水という独自の純度百パーセントの金鉱脈はここで終わったのだと、そう考えよう。これまでも己の世界を描き続けてきた作家音楽家たちが、この罠にはまって結局凡庸な作品しか作れなくなったパターンを僕らは何回もみてきた。結局はそれは疲れであり、己でアリ続ける頑なな行為への疲労でしかないのだ。陽水の作ってきた膨大な傑作群をおもうとその独自の感性の連なりが20年近く継続してきた奇跡を思ってぼう然とはするが、それもどうやら終わりが来たらしい。
そう感じて以降、僕はぱったり陽水の作品を聞かなくなった。
実際、僕の琴線を揺さぶるシングルも耳にしなかったし、アルバムも友人の購入したものを軽く聴くことはあっても、自分のライブラリーに加えたいという欲望はまったく喚起されなかった。セルフカバーやベスト、ときおりのシングルといった話題は耳に入らなくもなかったが、結局僕はそれらに積極的に耳は傾けなかった。途中、奥田民夫の好フォローに支えられた「アジアの純真」などという突然の小春日和もあったものの、所詮あれもPUFFYの曲でしかないといっていいだろう。でたらめで軽やかなフットワークこそあったものの、全盛期のオリジナル楽曲が放っていた毒々しい色気と悪意は、そこにはほとんど嗅ぎ取れなかったからだ。


年に入って、陽水の新しいシングルを偶然耳にして、僕は吹き飛んだ。
TVCMのお茶のコマーシャルに陽水が起用され、そのテーマがたまたま中古屋に転がっていたのを偶然手に取ったのだ。正直言って、マキシシングルの一掃セールで5枚500円のセット売りの枚数合わせで買ったに過ぎない一枚である。いわば、クソ安い半端ものばかりのなかの、そのまた他のシングルのおまけである。僕の中での陽水に対する訴求力はそこまで落ちていたわけだ。
だが、一聴して僕は耳を疑った。
あの傍若無人で、まったく聞く人の論理を踏みにじる、しかし美しいとしかいいようのない暴力的なシュールな世界がそこにはあったからだ。それはまるで80年代の全盛期を思わせるような、奇妙でしたたかで生命力にあふれた作品だった。タイトルは「この世の定め」なる奇妙なもので、まさに人を食った陽水世界の王道である。軽いアップテンポのボサノバ調のその楽曲は、当時僕を魅了してやまなかった「white」や「スニーカーダンサー」といったアルバムに収められていてもなんら遜色の無い出来で、金太郎飴のような才能があふれて仕方がなかった時期の陽水世界の産物にほかならなかった。特にアレンジは最高で、歌に絡むホーンとピアノのなんと色っぽいことか。当時切っても切れない関係にあった、星勝やBANANAといった陽水お抱えのアレンジャーの持ち技であるフュージョンやテクノ的要素も取り込みながら、より濃密で色っぽいアレンジに仕上げた手腕はお見事の一言。クレジットをみたら、ご本人だったのは意外というか、やっぱりあそんでいたわけではなかったのねという感慨すら沸き上がる。

間違いはこの世の定め
壊れそうな札束のパレス
I GET MOOD AH-
I GET MOOOOOOOD AH-
神々の手で描かれるテレビアート

美人ならまつ毛は飾り
マリブ・カリブ・ゲシュタポの踊り
I GET MOOD AH-
I GET MOOOOOOOD AH-
愛する目にあわせて
もう少し手で抱きしめて
溺れあうミルクセーキ

(この世の定め)

っきり言ってまったく意味など無いごろ合わせと、しかし耳に快い単語の羅列だ。それでいて皮肉で、意味深げで、世界全体をバカにし尽くしたような軽さと毒にあふれた歌詞は、まるでウィリアム・バロウズの小説を読むような悪夢的な美しさと、従来の価値観をけり飛ばす暴力性にあふれている。さらにその歌詞を軽やかに、つややかに歌い上げるあの歌声はまさに、あの悪魔のような陽水節の復活を遂げている。
しかし陽水は10年間なにをやっていたのだろう。これができるのなら、軽々とこの十年をぶっちぎることも可能だったろうに。だが、そんなファン気質丸出しの泣き言を言いだした途端、「やろうと思えばいつでもやれたんだけどね。あなたたちはご馳走を出すとすぐ食べ散らかしておわりでしょ。イヤですよ」と意地悪な声が聞こえてくるような気もする。

そのうえ、この曲を収めたマキシシングルのたのしみはそれだけでは終わらない。「毛ガニ」と「名古屋食べ物事情」と題された二曲は、異名同曲のライブ収録曲、というより、その前日に食べた土地土地の名物の名前を即興で羅列し「おいしかった」と歌うだけの口から出任せのアドリブである。恐らく前者はサッポロ、そして後者は間違えなく名古屋でのライブの時のものであろう。しかしその軽さいい加減さ、中身の無さ。すべてが陽水流のブルースになっている。揚げ句の果てに「適当に曲を作っているが、どこかで終わらなきゃいけない。ミュージシャンが勝手に参加してきたけどどうやって終わるのか。俺は抜けるぞ、自分たちで勝手に終われ」などと言い放ってしまうこの無責任さは、まさに彼以外のミュージシャンではありえない発想であり、楽曲である、ましてこれをレコードにして売ってしまおうという神経が、陽水以外ではありえない。
はっきり言って、「少年時代」のあのとりすました当たり前さとそれ以降の10年近くは、この悪意に満ちた一枚のマキシシングルをおもいっきり楽しむための前戯ではなかったのだろうか、と思わせるような恐るべき作品である 。まったくこのオヤジだけは油断がならない。

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