『ゴッホ解読』
浜田節子
「星月夜」
わたしはこの作品を見たとき、日食を直観した。真昼の光景が日食という現象により夜を映しだした驚き、見えている世界が全てではないという実感。この絵は昼と夜の共存、存在の神秘、生と死を包み込んだ心象風景なのだと思う。生きることは同時に死ぬことであるというゴッホのメッセージを感じる。
「オヴェールの教会」
この絵にはこの世ならぬ恐れと霊気が漂っている。紺碧の背景は上方にいくに従って漆黒にさえなっている。にも関わらず、教会の頭上には太陽がある。しかも、極めて近い位置に光源は二つなければならない。なぜなら、陰影は教会の左右に広がっているからである。くっきりした影は中央で凹んでいることからもゴッホの意図は確信できる。
この絵と同じ角度から撮った写真@を見ると教会の前部は円形に突き出している。だからゴッホの絵のように二つの窓が平らに同じように並ぶことはありえない。しかしゴッホはこの矛盾を絵の中央に確信的に描いている。
画面を中央から半分づつ見ると右半分は明、左半分は暗であることが判る。右端の赤い屋根の上の灰色部分は写真@で確認するとやはり屋根であるがわたしはこれは水平線を暗示したのではないかと推測している。左端の地平線は草地から屋根が見えていることで下り坂である。右側は写真@では道を隔てて建物であるが、道幅を狭め草地を仮定し、左右の道が対称になるように描かれている。日除け帽子を被った婦人は手前へ歩いて来るようにも向こうへ立ち去るようにも見える。この絵の鍵である。
つまりこの絵は教会という媒体を描いて現世(手前)と冥府(左は死への道、右は誕生の道)を表現しているのではないかと思う。婦人は死に逝く人のようでもあり、死の淵から蘇った人のようでもある。もちろん時計は時刻を示すことはない。教会の歪みは精神の病からではなく、強い意図による製作上の必然である。
「烏の群れ飛ぶ麦畑」
荒れ模様の麦畑に群れ飛ぶ烏たちは不安、不吉をかもしだしている。烏たちは人の化身、死に逝く魂のようでもあり、死から逃れ来る魂のようでもある。道は三本に別れているが「オヴェールの教会」のそれとは逆で、手前に死界を想定、右の道のように見える土色は死界の領域かもしれず、道は二本(生と死)ではないかと推測される。
「荒れ模様の空の麦畑」
収穫寸前の麦畑、労働の結実、空と大地の歓喜の絵である。にもかかわらず荒れ模様と名づく。作品は言葉を超えている。どんなことがあっても荒れ模様になってはならないというゴッホの強い祈りを逆説的に命名した作品なのだと思う。
@写真(日経新聞2000.11.19. 日曜版より)