国木田独歩『忘れえぬ人々』解釈



★「一人の人は世界に等しく、世界は一人の人に等しい」
☆多摩川(霊川)の二子(相似)の渡し(わたし=自分)をわたって少しばかり行くと  溝口(自ずの口)という旅人宿がある。
★その後今日まで殆ど十年の間僕は何度この島かげの顔も知らないこの人を憶い起こし  たろう。この顔も知らないこの人は「死の幻想」である。何度も死を切実に考えたと  いう意味だと思う。
☆どこかに深い約束があるように感じるのは輪廻転生。
★「忘れえぬ人々」というのは「平凡な人たち」であり、忘れたって一向に構わないが 終に忘れてしまうことの出来ない人、それはわたくし、つまり自分に他ならない。あな たとわたしに差異があるのは不思議なこと、みんな無窮の天に帰る者ではないか、大き な声では言えないがそのわけは「過去の因縁」である。

<始めに>



「忘れえぬ人々」というのは結果論から言えば、つまんない人々、つまり平凡な人々と いうことだと思う。何でもない市井の人々こそ天地海山に記憶されるべき特別の生命で あり、それはとりもなおさず大いなる自然との共存における賛歌である。黒い点に見え る人の背景たる自然はその黒い点に等しい存在価値がある。
『一人の人は世界に等しく、世界は一人の人に等しい。』このことが国木田独歩の忘れ えぬ人々の主張なのだと思う。独歩は自然主義に偏らず生命賛歌の主観によらず、客観 的な眼差しで宇宙の中の地球、地球の中の島国日本の凡人を言及した、すなわちそれは 「わたくし」であり、わたくしこそ「忘れえぬ人々」である。


「奇異は差異 吾もと違すが 過去の籤」
この句がどこに伏せられているかは後に回すが、この意味は不思議なものは人それぞれ 少しづつ異なる点である、わたしとあなたと違うのは過去の籤によるもので全くの偶然 に過ぎない。どこの誰もたいした違いはなくみんな同じなのではあるまいか、というこ とだと解釈する。(過去の籤というのは因果を示唆すると思うが、人知を超える巡り合 わせ)


 アート(芸術表現)には必ず第三者に対するメッセージがある。たとえばそれが無な ら「無」というメッセージであり、伝えたい意思が表現を思考させるのである。止むに 止まれぬ感情が作品を昇華させる、その奥行き深さが時に第三者たる読者に問いかけて くることがある。人の数以上に物語は潜在するにちがいないが、等しく海山の自然にも ドラマがある。天地自然は意味ある言葉を発しないために人間優位の背景にもなりかね ず、余程の美観余程の衝撃を呈しないかぎり忘れ去られてしまう。
 冒険家たちはその海をその山を忘れない、画家たちはその対象である景色に執着す る、大抵の人には自分自身の思い入れの強い風景との出会いがある。天地海山との対峙 は「わたしとは何か?生きるとは何か?」の問を刺激し、答の何たるかを暗示するので はないか。人が存在するということは太陽地球があって春夏秋冬の機微が生じ、天地海 山の空間を認識し、自ずと出来た道を行くことなのだと独歩は語る。


<解釈の鍵>



 国木田独歩は明治の人といえども翻訳を生業とするほど英語に長けた人である。小説 は言語が唯一の道具。人とは何かを問うとき自然との絶対的な差異に言葉があることの 気づく。言葉は意思伝達の約束手段であるが本質的に成り立ちの異なる言語のそれぞれ の領域がある。その音から外国語を、その音の配列から句や歌を読み込んだ独歩は言葉 の不思議、意味の因果を巡らしながら作品を多重多層化し書くことの読むことの構造そ のもをも問いかけている。そしてそれはそのまま人が生きてある不思議に変換されて一 つの世界を創造したのだと確信する。

たとえばここに<一つの約束>を例に挙げてみたい。
@(亀屋の主人は大津の後姿に対し)じっと眼をふさいでいる。
A大津は自分の書た原稿を見つめたままじっと耳を傾けて、
Bこの人をじっと眺めていた。(一人目)
C僕はじっと睇視めていた。(二人目)
Dしかし僕はじっとこの琵琶僧を眺めて(三人目)

その最後に書き加えてあったのは「亀屋の主人」であった。という彼と大津の間にも 「じっと」というキーワードがある。「じっと」というのは何か。
"ditto =the same"ではないか、と思う。


<「忘れえぬ人々」解釈>



 多摩川の二子の渡しをわたって少しばかり行くと溝口という宿場がある。其中程に亀 屋といふ旅人宿がある。(本文より)

 多摩川というのは「霊川」ではないか、熟読の後にはどうしてもそういう気がしてな らない。二子というのは「あの世とこの世」の二つの世界の暗示。溝口というのは 「自ら」の「溝の口」、中程というのは、自分自身の直系。亀屋は内なる住処、存在の 根源たる旅人宿なのだと解釈する。

暗い一筋町というのは自分の直系のルーツたる道なのではないか?

 つまり「霊川」の「あの世とこの世」の渡し(わたし=自分)をわたっていくと自己 存在の入り口である宿場がありその中央に亀屋という自身のルーツがある、という書き 出しからは独歩の自然主義というよりは存在論追求の哲学者の風貌が垣間見えるのであ る。

 突然に障子をあけて一人の男がのっそり入ッて来た。長火鉢によっかかッて胸算用に 余念もなかった主人が驚て此方を向く暇もなく、広い土間を三歩ばかりに大股に歩い て、主人の鼻先に突ッた男は云々。(本文より)

 突然という言葉には速度の規定こそないが、なんの前触れ兆しもないという意味で切 り口の鋭さを感じる。なのに一人の男が<のっそり>入ってくるのである。のっそり 入って来るような男は障子もゆっくり開けるのではないか?突然入って来たという描写 にのっそりという形容は不自然である。のっそり入って来た男は主人が向く暇もない程 の速さで主人の鼻先に突ッ立ったにもかかわらず三歩も歩いている。三歩あるくには歩くだけの時間が必要である。どう考えても矛盾だらけの光景である。
 しかしある条件を設定するとこの光景が成り立つ。それはなにか?消音(或いは気配 の消去)である。人は無意識のうちに音で状況を判断し予測する。この光景から移動に 不可欠の音(気配)を消してしまえばこの場面が納得できる。この条件はある意味で 「現世」三次空間を否定するものであり、この宿屋の特質(異空間、霊川の渡し=わた し、自分をわたって行くような)を書き込んでいるのだと思う。
 つまり、この男は「幽霊、a spirit, 精神」ではないか?

『六番でお手が鳴るよ。』
哮える様な声で主人は叫んだ。

哮える様な声というのはどういうことだろう?人が哮える、人間の声とは思えないと 言った感じなのではないか。(外国語なんていうのはそんな風に聞こえはしまいか?)

『六番でお手が鳴るよ。』普通といえばフツー、ちょっと妙だと思えば妙。
"Look bond auto goner."
「わたしの死人との絆を見よ」とでも言ったのではないか?意味不明に思える外国語は 哮えているように聞こえたのだと思う。

『何方さまでございます。』と問われれば「大津です」と答えるのが普通ではないか。 そこを『僕か、僕は東京。』と言い、『それで何方へお越しで御座います。』
『八王子へ行くのだ。』と答えている、これはおかしい。

『何方さまでございます。』『僕か、僕は語り部。』と言い、『それで何方へお越しで 御座います。』『死の国のへ行くのだ。』という伏線をわたしは感じる。
 東京→トーキョウ→talker,
 八王子→素戔鳴尊(スサノウノミコト)の五王三女を合わせ奉る神社。
     尊は根の国(死の国)に追放される。
『旦那、東京から八王子なら道が変で御座いますねェ』
『いや僕は東京だが、今日東京から来たのじゃァない、今日は晩くなって川崎を出発て 来たからこんなに暮れて了ったのさ。』(本文より)

「今日は晩くなって反対(逆)を出発て来たからこんなに暮れて了ったのさ。」
 川崎→riverside,(崎というのは先、先端)
    reverse,→逆の、反対の。

よく分からないが、哮えたり、怒鳴ったりするときのセリフは英語なんじゃないか? ふとそういう気がして文法などは無視して音をただ英語に当てはめてみた。違うかも知 れないが遠からずという気がする。

『早くお湯を持て来ないか。へぇ随分今日はお寒かったでしょう、八王子の方はまだま だ寒う御座います。』
"How are you, mortal corner. He is even kin of same."
「いかがですか?死すべき町は、彼はちょうどわたしと同族だ。」
語り部(幽霊)なので「彼と」というように三人称を用いているのではないか?
「八王子(神の子たち)の方はまだまだ "son of God." 神の子です。」

『七番へ御案内申しな!』
"See to bond, He is goner."「絆に注意しな、彼は幽霊だ」

と怒鳴ッた。それぎりで客へは何の挨拶もしない、其後姿を見送りもしなかった。
                                 (本文より)

『早くお湯を持て来ないか。へぇ随分今日はお寒かったでしょう、八王子の方はまだま だ寒う御座います。』このセリフは普通に読んだだけでは正直という言葉につながらな いが、読者は単に印象のことだと受け流してしまうのである。セリフ(日本語)を英語 の音に置き換えてみる。(英語力がないので不確かさはつきまとうが多分こんなような ことを言っているのではないかという気がする)すると、亀屋の主人はこの旅人が自分 であることを風采を見たときから気づいていたことになる。何とも言わず、無愛嬌で客 へは何の挨拶もしない、其後姿を見送りもしないという状況に合点がいくのである。

ちなみに六番は"Look bond" 七番は"See to bond" どちらも「絆に注意」という意味で はないか。六番(秋山)七番(大津)の関係を考える条件。

『六番さんのお浴場(ゆ)がすんだら七番のお客さんを御案内申しな』
"Look bond same of you soon after. 
See to bond of catch same goner more than I."
意味はあまりよくわからないが音からするとこんな英語になるような?(怪しい英語だ けど)
 このセリフを聞いて膝の猫が喫驚して飛下りるのだけれど、catch を cat と聞き違 えた、つまりここは英語のわかる猫というシャレなのではないか、この言葉通りではべ つに驚くには当たらない。(もっと適当な英語文があるはず、猫がびっくりして飛び退 くような)

『もう店の戸を引き寄せて置きな』
"Oh,misery, what heck do you want?"
「ああ、気の毒に、一体君は何が欲しいの?」

『叉た降て来やがった。』
"Mortal fata(future) can ghost."
「死すべき運命(未来)は幽霊になる」

 秋山は心のうちで、大津の今の顔、今の眼元は我が領分だなと思った。(本文より) 身内の言う言うセリフである。

大津は無名の文学者で、秋山は無名の書家。
無名→無明→迷いの中にあって悟りを得ない状態。煩悩にとらわれている状態。
文学者も書家も"writer"なのかもしれない。

絆を確認しあう二人の関係。大津は秋山自身の語り部、大津が僕と言うときそれは秋山 自身のことかもしれない。
大津は"out" 外部、秋山は"akin man"同類の男という暗示だろうか?。
大津弁二郎という名は語り部にふさわしいとも思える。


<時間からの読み取り>


<十二時を過ぎても未だ洋燈が耿々と輝いている。>とあり、その流れに続く文章に今 度は<十一時を打ったのに気が付かない>とある。普通なら十一時を過ぎてもと前出を 十一時前にすべきではないか?最初の書きだしから時刻を遡る形の経由というのは不自 然である。独歩はこの描写においてなにかを示唆するつもりなのだと思うがここまで読 んだ限りでは不明である。強いて考えられるのは時間観念を否定、この幻想の宿には時 間の逆行という矛盾歪みは自然なことであり登場人物も時間を超えて同一人物の任意の 世代の自我の分解である秋山と亀屋の主人を一つ屋根の下に措いている(吉蔵という子 供も同一人物の流れかもしれない)、大津の指し示した「忘れえぬ人々」というのは秋 山にとっての「忘れえぬ人々」なのではないか?大津はあくまでその語り部としての精 神的な登場なのではないか?大津は東京(talker)から東北(talk)に行くがあくまで 語り部、精神的な第三者(大津=out=外部)なのかもしれない。

『この模様では明日のお立ちは無理ですぜ』
と一人が相手の顔を見て言った。これは六番の客である。(本文より)
"Come in, earth of timely decedent."
「いらっしゃい、この世の時を得た故人だ」

『こんな晩は君の領分だねェ。』
秋山の声は大津の耳に入らないらしい。返事もしないで居る。(本文より)

これもおかしい。大津は自分の書た原稿を見つめたままぢっと耳を傾けて夢心地になっ た。ぢっと耳を傾けたのに何故耳に入らないのか?
『こんな晩は君の領分だねェ。』聞こえないほど小さな声だったのか。
"Numberone kin of lover."
「愛しい人と同族の自分自身」つまり「こいつは俺だァ」くらいの意味ではないか?
はっきりしないつぶやきとして音を拾うとこんな感じになる。

大津は秋山の方に転じた。
『詳細く話して聞かされるなら尚のことさ。』
と秋山が大津の眼を見ると、大津の眼は少し涙にうるんでいて、異様な光を放ていた。
                                 (本文より)

 大津は秋山を見る→「セリフ」→秋山が大津を見る。このセリフはどちらが話したの か明確ではない。
"The quest for nice to kin of career from narrow house."
「墓からの同族の一生の精密な探求。」とでも言ってるのだろうか?とにかく客観的な セリフのような気がする。このセリフが大津の眼に涙を誘引し、異様な光をはなったの には間違いない。存在の根源を探る、大津は秋山のルーツを探求する語り部なのだと思 う。
「しかし君には大概わかって居ると思うけれど云々」初対面の人に自分の忘れ得ぬ人々 が大概わかっているというのも妙である。そして「僕は世間の読者の積もりで聞いて居 るから」と聞手の秋山は答える、ということは秋山は世間の読者ではないということで はないか。大概わかって居るのはこれから大津(語り部)が話す忘れ得ぬ人々というの は他ならぬ自分の事だという立証条件の一つになるのではないか?


この作品は、最後の『忘れえぬ人々』が置いてあって、其最後に書き加へてあったのは 『亀屋の主人』であり『秋山』では無かった。という意外性によって余韻を残している かに見えるが作者の意図を掘り下げるともう一つの構成、自我の分解が作品全体を支え る力点になっていることが判明する。二重に仕組まれているというよりもあるがままの 状況というものは常に自己と自己以前の対峙によって存在し、成り立っているという独 歩の見解と見るべきかも知れない。

『忘れ得ぬ人は必ずしも忘れて叶ふまじき人にあらず』
『親とか子とか叉は朋友知己其ほか自分の世話世話になった教師先輩の如きは、つまり 単に忘れ得ぬ人とのみはいへない。忘れて叶ふまじき人といはなければならない、そこ で此処に恩愛の契りもなければ義理もない、ほんの赤の他人であって、本来をいふと忘 れて了ったところで人情をも義理をも欠かないで、而も終に忘れて了ったところで人情 をも義理をも欠かないで、而かも終に忘れて了ふことの出来ない人がある。』
                                (本文より)

 ここに真の解釈を遠ざける独歩の軽口があるため読者は平面的な読み方をせざるをえ なくなる。独歩のさりげない断定口調は常套手段であるが常に表裏と言う認識を忘れて はならない、「ほんの赤の他人」と冷たく突き放しているのは自分自身に対してなのだ から。このことは作品全体を独歩の心底に響き合うまで熟読しないと見えてこない。
そして赤の他人も親兄弟もみんな同じ無窮の天に帰る者ではないかと結論しているので ある。

我と他(ひと)と何の相違があるか、皆なこれこの生を天の一方地の一角に享けて悠々 たる行路を辿り、相携えて無窮の天に帰る者ではないか、(本文より)


<一人目>


@一人の人が目についた。たしかに男である、叉子供でもない。
A船が進むにつれて人影が黒い点のようになって了った。
B顔も知らないこの人。

<二人目>


@空車らしい荷車の音。
A二十四五かと思われる屈強な荘漢。
B逞しげな体躯の黒い輪郭。
C僕等の方を見向きもしない。

<三人目>


@歳の頃四十を五ツ六ツも越したらしく、幅の広い四角な顔の丈の低い肥満た漢子で  あった。
Aその顔の色、その眼の光はちょうど悲しげな琵琶の音に相応しく、あの咽ぶような糸  の音につれて謡う声が沈んで濁って淀んでいた。
B巷の人は一人もこの僧を顧みない。

<四人目>はすなわち「亀屋の主人」である。
@主人の言葉はあいそが有っても一体の風つきは極めて無愛嬌である。
A歳は六十ばかり、肥満った身体の上に綿の多い半纏を着ているので方から直ぐに太い  頭が出て、幅の広い福々しい顔の目眦が下がっている。
Bどこかに気難しいところが見えている。しかし正直なお爺さん。
C家族に指図しているが実際はお婆さん下婢(家族)に「自分が眠いのだよ」などとあ  しらわれている存在。

A.吉蔵(子供)
B.→黒い点(男、又子供でもない)
C.→黒い輪郭(二十四五かと思われる屈強な荘漢、逞しげな体躯)
D.→幅の広い四角な顔の丈の低い肥満た漢子(歳の頃四十を五ツ六ツも越えており、そ  の顔の色、その眼の光はちょうど悲しげな琵琶の音に相応しく、あの咽ぶような糸の  音につれて謡う声が沈んで濁って淀んでいた)
E.→歳は六十ばかり、肥満った身体の上に綿の多い半纏を着ているので方から直ぐに太  い、頭が出て、幅の広い福々しい顔の目眦が下がっている。どこかに気難しいところ  が見えている。しかし正直なお爺さん。家族に指図しているが実際はお婆さん下婢 (家族)に「自分が眠いのだよ」などとあしらわれている存在、極めて無愛嬌である)
F.丸く肥満て赤ら顔で、眼元に愛嬌がある(秋山)

A.B.C.D.E.F.つまり、人の描写がだんだんアップになっている。亀屋の主人に至っては 表情、性格まで描写されている。これはそれぞれ異なる人を書きながら実は一人の人間 を書いているのだ。どこにでもいる平凡な男の一生の断片を羅列し、個の分解を謀って いる、否、個の否定なのかもしれない。


<秋山>


二十五か六という年配で、丸く肥満て赤ら顔で、眼元に愛嬌があって、いつもにこにこ しているらしい。
幅の広い福々しい顔の目眦が下がっている<亀屋の主人>と<秋山>は同じ領域の人た ちと言えるのに
 最後に書き加えて在ったのは「亀屋の主人」であった。「秋山」で無かった。
                                 (本文より)
と逆転劇のような意外性で終わる。しかしよく読めば、なぜなら「大津」は秋山自身の 語り部であったから、という説明が省略されていることに気づくはずだと思う。大津の 様相は幽霊のようである。
<大津>痩形な、すらりとして色の白い処は相手の秋山とはまるで違っている。

 大津の語り、大津の「忘れえぬ人々」であることから当然この四人は大津の忘れえぬ 人々なのだと思うが、よく読むとそうではないということが判明する。
 この四人の領域に入るのはどう考えても「秋山」である、「大津」ではない。
大津は"out" 外部かもしれない。秋山は"akin man"同類の男。
大津弁二郎という名は語り部にふさわしいとも思える。


<一人目>


@少し体躯の具合が悪い、健康が思わしくない→病気→ill →illusion (幻想)
A山の根がたの彼処此処に背の低い松が小杜を作っている。
→山はサンで太陽、小杜は英語で grove →globe (地球)をそれぞれ暗示しているの ではないか?つまり独歩言うところの山林、太陽と地球の幻想。
B何か頻りに拾っては篭か桶かに入れているらしい。
 篭→カゴ(cognition=認識)桶→オケ(occasion=理由)何かは存在ではないか?
 存在認識、存在理由。
C漁っている→あさって→ assert →主張する。

 何故、顔も知らない黒い点のような男をなんで何度も憶い起こすのか?
普通そんなことはありえない、顔も知らない人など手がかりが少なすぎて印象に残らな い、まして黒い点になって視界から消えた人など。
しかし敢えてその精神状況を整理してみると、
<条件1>冒頭、少し体躯の具合が悪い、健康が思わしくない。と言い、再度「ただそ の時は健康が思わしくないから余り浮き浮きしないで物思いに沈んでいたに違いない絶 えず甲板の上に出て将来の夢を描いてはこの世に於ける人の身の上のことなどを思い続 けていたことだけは記憶している。」
<条件2>その島の光景は太陽と地球を暗示している。
<条件3>人影が黒い点のようになって了って、そのうち磯も山も島全体が霞の彼方に 消えて了った。
この条件を考慮して思い当たるのは「死」ではないか。黒い点になって消えてしまう、 この人は死の象徴、死への誘いなのだと思う。
その後今日が日まで殆ど十年の間、何度も憶い起こしたのは「死」であり、「死への憧 憬と不安」としての消えた人影、消えた点としての生命(いのち)なのだと解釈する。

<二人目>


@噴火口→human cacophony →人間の不協和音、人の業の暗示。
 白煙→fact end →真実の極み。
 阿蘇神社→association →交際、連合、人の和の暗示。
 団飯(むすび)→産霊(むすび)→天地万物を生み出す霊妙な神。
 枯草を着けた馬→枯れる=死を着けた human →死すべき運命の人。

天地寥廓、しかも足もとでは凄じい響きをして白煙濛々と立騰り真直ぐに空を衝き折れ て高岳を掠め天の一方に消えて了う。壮といわんか美といわんか惨といわんか、僕等は 黙然たまま一言も出さないで暫時く石像のように立ていた。この時天地悠々の感、人間 存在の不思議の念などが心の底から湧て来るのは自然のことだろうと思う。
                                (本文より)

このシーンはどうしても広大な自然がもたらす死の儀式のように思えてならない。

Aところで尤も僕等の感を惹いたものは九重嶺と阿蘇山との間の一大窪地であった。
                                (本文より)
 九重は天子の居場所。つまり、天と人との境の象徴・暗示が一大窪地ということでは  ないか。窪→(古)女性の陰部。
<世界最大の噴火口の旧跡>ということは地球の陰部の暗示。

昼間は真白に立ちのぼる噴煙が月の光を受けて灰色に染って碧瑠璃の大空を衝ているさ まが、いかにも凄じく又た美しかった。(本文より)

「地球大地と大空天空との結びの場面」山林(太陽と地球)に生まれ、山林に自由あり と詠った独歩の幻想結実の愛と自由の源を見る思いがする。

つまり、一大窪地は女陰の暗示であり、噴煙は男根の象徴だと思う。

 人寰(じんかん=人の住む場所)→dinkum →真実。

新月がこの窪地一帯の村落を我物顔に澄んで蒼味がかった水のような光を放ている。
                                (本文より)
 新月が光を放つだろうか、朔日には黒い月が立つのではないか?
 
長さよりも幅の方が長い橋?そんな馬鹿々しい橋があるのだろうか、聞いたことがな い。(車社会の今日ならそれはある、あるどころか全部塞いで橋とは呼べない状況)  ここは現実の村を模した架空の村なのではないか。新月が光るような裏の世界(村)
『宮地やよいところじゃ阿蘇山ふもと』
"Media yield assonance humorist."
「霊媒は類音語のユーモア作家を生じる」

 宮地や→media →中間、霊媒。
 よいところじゃ→yield →生じる。
 阿蘇山→assonance →類音語。
 ふもと→humorist →ユーモア作家。

この壮漢は現世とあの世の中間に位置している、つまり死と生の狭間。

<三人目>


@朝日麗らかに輝き、光る物には反射を与え、色あるものには光を添えて、
A何れも忙しそうに面白そうに嬉しそうに、駈けたり追ったりしている。
 歓呼怒罵乱れて彼方に湧く。
B鯛や比良目や海鰻や章魚、この魚類は日常食というより祭(晴の日)の食材。
<以上は光、「陽」>

C其の顔の色、その眼の光はちょうど悲しげな琵琶の音に相応しく、あの咽ぶような糸  の音につれて謡う声が沈んで濁って淀んでいた、
<以上はは悲哀「陰」>

Dこの道幅の狭い軒端の揃わない、しかも忙しそうな巷の光景がこの琵琶僧とこの琵琶  の音とに調和しない様でしかも何処に深い約束があるように感じられた。
Eあの嗚咽する琵琶の音が巷の軒から軒へと漂うて勇ましげな売声や、かしましい鉄砧  の音と混ざって、別に一道の清泉が濁波の間を潜ぐって流れるようなのを聞いている  と、嬉しそうな、浮き浮きした、面白そうな、忙しそうな顔つきをしている巷の人々  の心の糸が自然の調べをかなでているように思われた、
F琵琶→bio →生命。
 琵琶僧→birth →誕生。

陰陽→森羅万象(宇宙万物)における二元的対立関係の象徴。
陰陽説→陰陽二気の消長により、天地間のあらゆる現象の生成変化を説くもので、易に     取り入れられてその根本原理となっている。

    陰陽の二気は「マイナスとプラスの関係であるが、たんに対立するものではな     く、応合し、循環するものである。そこでと説かれており、中国古代の易思想     の原理とされている。「一陰一陽これを道という」
                        ("JAPONICA"小学館・参照)

つまりこの三人目は「宇宙の大循環としての誕生」を示唆しているのではないか?
忘れえぬ人々の記述は「死からその中間を介しての誕生」という流れを書き、生々流転 の「深い約束たる生命誕生」を伏線としたのだと思う。


「忘れえぬ人々」の構図



1、この日は大空かき曇北風強く吹いて、さなきだに淋しいこの町が一段と物淋しい陰   鬱な寒むそうな光景を呈していた。昨日降った雪が未だ残っていて高低定まらぬ茅   屋根の南の軒先からは雨滴が風に吹かれて舞うて落ちている。草鞋の足痕に溜まっ   た泥水にすら寒そうな漣が立ている。日が暮れると間もなく大概の店は戸を閉めて   了った。暗い一筋町が寂然として了った。
2、<一人目の記述>春の日の閑な光が云々。
3、<二人目の記述>風のない好く晴れた日。
4、<三人目の記述>大空は名残なく晴れて朝日麗らかに輝き云々。
5、<二年後>雨の降る晩のこと。
 作品全体の構成も、陰(1)陽(2,3,4)陰(5)という設定になっている。

「忘れえぬ人々」に伏せられたメッセージ(句)

 「奇異は差異 吾もと違すが 過去の籤」

「忘れえぬ人々」を大津が説明するくだり、「僕が十九の云々から琵琶僧である」まで 不思議な書き方をしている事に気づく。(「)は閉じられるものであるのに(」)がな く延々、瀬戸内の一人目から琵琶僧の三人目まで(「)で話の内容が変化していくのに (」)がない。これは異なこと、(「)を数えると17である。17といえば俳句の字 数、ちょっと首を捻ったらこんな句になったが異論があれば速やかに撤回してもいい。

「見ること」には「見えるものと見えないもの」がある。

<大津を見る亀屋の主人>
@主人は客の風采を視ていて未だ何とも言わない、
A主人は不審そうに客の様子を今更のように睇めて、何か言いたげな口つきをした。
Bそれきりで客へは何の挨拶もしない、その後姿を見送りもしなかった。
じぅと眼をふさいでいる。
<一人目>とは距離があり、一方的に、この人をじっと眺めた。
<二人目>僕等の方を見向きもしないで通っていくのを僕はじっと睇視めていた。
<三人目>巷の人は一人もこの僧を顧みない、家々の者は誰もこの琵琶に耳を傾ける風      を見せない。(略)しかし僕はじっとこの琵琶僧を眺めて、

 主人は不審そうに客の様子を今更のように睇めて、とあるがもしかしたら主人にはこ の大津が見えなかったのではないか?何か言おうとしたのは「あなたはユーレイだ」と か何とか。ユーレイに挨拶する人はあまりいない。見送るといっても実体がないと見送 れないという。
 忘れえぬ人々の登場人物たちもこちらを見ることはなく、こちらがじっと見るばかり である。巷の人もこの登場人物(琵琶僧)を見ない(見えないのではないか?)
これらの登場人物は異空間のあるいは幻想の象徴としての人物なのではないかと思う。

見る(能動)見られる(受動)という関係にあるのはこの大津と秋山の関係のみなので ある。

1、夢から寤めたような目つきをして大津は眼を秋山の方に転じた。
2、と秋山が大津の眼を見ると、
3、秋山は六番(look bound ==絆に注意)、大津は七番(see to bound=絆に注意)

秋山と大津(out=外、死)は同じ絆の人間ではないか?大津が読み上げた忘れえぬ人 々は即秋山の忘れえぬ人々なのだと思う。だから、
 その最後に書き加えてあったのは「亀屋の主人」であった。「秋山」ではなかった。 ということなのではないか。


この物語は自然や人の生命の循環(生々流転)を書き、移りゆく人生・季節の円環を示 唆している。大津が宿を訪れた三月、十九の春の半頃、五年前の正月元旦、そして夏の 初め、欠けている秋は「秋山」という人の名で補ったのかも知れない。自然も人も同じ 相、あなたとわたしの差異など黒い点になり消えていく命の普遍を思えばどこに変わり があるだろう、見えない絆、深い約束、因果を質せば無窮の天に帰る者、わたしもあな たも深い約束のもとに別れ分かれになった懐かしい人ではないか。

「僕はその時ほど心の平安を感ずることはない、その時ほど自由を感ずることはない、 その時ほど名利競争の俗念消えて総ての物に対する同情の念の深い時はない。

差異の解放。無名、肩書きがない、今で言うアウトサイダー的境遇の大津と秋山。
 現今の文学者や画家の大家を手ひどく批評して(本文より)
つまり、我々の方がという気持ちである、憤懣やるかたない悔しさ。しかし、死を見つ め、誕生の神秘、無窮の天に帰る生命の循環に気づくとき、名利競争の愚を知り、全て の世界に大いなる愛を感じずにはいられない、この気持こそ心の平安、自由の礎ではな いか?「忘れえぬ人々」というのは誕生、子供、子供ではない、十代、二十代、四十 代、六十ばかり、黒い点になって消えていく(死)という任意の時代を各描いて人の一 生につなげた。更に言えば多摩川(霊川)の二子(相似)の渡し(わたし=自分)をわ たった溝口(自ずの口)の話であればあの世の架空の話でもあり、現世の亀屋の話でも あり、どちらともとれるように設定されている。亀屋の主人だけは現実の、酢いも甘い も嘘も真実も知り尽くした存在(たとえ幽霊が客人であっても驚かないような)として 書いているような気がするがそれとて定かではない。
(亀屋というのも"Come in!"自分を招くところ、来世かもしれない。)

「忘れえぬ人々」とは"worthless"つまんない人々、平凡な人、それはわたしであり、 名利競争に勝ち抜いたところでやっぱり同じ無窮の天に帰っていく噴煙じゃないか、そ のつまんない人こそ誰あろう、わたくしに他ならないと言っているのだと思う。

国木田独歩の作品「忘れえぬ人々」というのは非常に幻想的であると同時に現代的な哲 学的思考に裏付けされている。生と死は普遍的なテーマであるが明治という時代のなか で先駆的な仕事を自認したからこそ独歩と称したのだと思う。

参考:築摩書房版、新潮社文庫版より

                           1999.1.15. 浜田 節子