☆近代探検のはじまり☆  
 
19世紀の末から、イギリスとロシアの対立により残された秘境としてのタリム盆地が注目されるようになった。
ロシアのプルジェワルスキーは1871年から85年にかけて4回に渡りモンゴルやチベットを探検。特に第2回探検(1877)ではロプ・ノール湖が中国の古地図より400km近く南方にある事を発見した。しかし、これに対してドイツの地理学者リヒトホーフェンは真っ向から反対し、ロプ湖論争を展開。この論争は2人の弟子コズロフとヘディンによって引き継がれていく。後にヘディンは1600年周期で「さまよえる湖」であるとの説を発表。4回にわたった探検でロプ・ノープル湖がタリム川によって位置を変えることを確認した。
1899年ローマで開催された国際東洋学会でシルクロードで発見された古文書の研究を発表すると反響がおこり、組織的な中央アジア探検の国際連盟組織が結成されるに至った。 
1902年、ハンブルグで開催された国際東洋学会ではロシア委員の提案により<<中央アジアおよび極東の歴史学的、考古学的、言語学的、土俗学的研究の国際学会>>が成立。この学会は、中央アジアの探検や調査などを一つの国際的な共同事業として行おうとするもので、ペテルブルグに本部を置いて活動した。
ところが、当時の中央アジアをめぐる国際情勢はきわめて複雑であったのでやがてこの国際学会の存在は有名無実となる。列強はそれぞれ独自に中央アジアに探検隊を送りこむようになった。その一例がイギリスのスタイン、ドイツのル・コック、フランスのぺリオである。