2001/5/28


個人の存在の時間軸における不連続性と社会的存在としての横軸の不連続性。
全ての人の知的営みは、これを乗り越えるためのものであるように思える。
人が平穏に日常を過ごせるのは、その人の内面において連続した世界観を信じているからだろうか。
しかし、論理的につきつめて考えると、やはり不連続性は乗り越えられてはいない。
全ての世界認識は主観的なものでしかありえず、それを客観的に証明しようにも、絶対的客観はありえない。
このことから世界に不信感をいだいてしまった、というのが最近の私のメランコリーの原因のようである。
この考察については、もういちど最初から順を追って、この場で思考を推し進めていきたいと思っているが、近代の合理的思考の限界点がおそらくここらあたりだろう。

2000/1/5


陽気なお葬式

大晦日の午前11時、母方の祖父が亡くなりました。享年84歳、畳の上での大往生でした。
私が到着したときには、幸せに眠っているかのような祖父が横たわっていました。
体は確かに眠っているだけのようなのですが、やはり寿命尽きた死体というのは、生命が抜けきった感じがして、空っぽな印象でした。
最期を見取った家族は、枕元で祖父が大好きだった「知床旅情」を歌ってあげたそうです。
そして「川の流れのように」も、カラオケつきで。
陽気なことが好きな祖父でしたが、一族も輪をかけて陽気ぞろい、すでにカラオケテープで歌ったあたりに、その後の展開の予兆はあったのですが。
1/4・お通夜。
お坊さんが叩くたびに木魚が跳ね上がるのを見て、いとこが吹き出す、まあ、あることです。
通夜のあとに、木魚を「おじいちゃんの頭のようだ」と言って叩きはじめる者があれば、「右手と左手のリズムがずれてる!」といってまるでドラムセッションのようにみんなでかわるがわる鐘と木魚を叩き出すのは序の口、その夜そして翌日本葬は不謹慎発言の暴発。

その1
司会「これが故人のお姿の見納めとなります。ご親族の皆様、お別れのご挨拶をお願いします」
A「安らかな死に顔だね。まるで寝ているみたい」
B「デスマスクでもとろうか」
C「それならば、いっそ全身の型取りを」
B「じゃ、それをゴムでつくって、親戚の集まりに誰かがかぶっるってのはどうだ?」

その2
「おじいちゃん、究極の寝正月だね」

その3
A「お棺、重いね、おじいちゃんにも手伝ってもらおうか」
B「うん、ちょっと惚けてたから『死んでいるのは確かに俺だが、担いでる俺は一体誰なんだ?』なんていいそうだね」(古典落語ネタ)

その4
火葬場にて
「焼き方はミディアム・レアで」
「石焼きの♪焼きたての♪おいし〜おいし〜おじ〜ちゃんだよ〜♪」
「あ、おじいちゃんといっしょに、サツマイモ入れ忘れた!」
「おじいちゃん、流行物好きだったから、郷ひろみになってるよ」(A-CHI-CHI A-CHIのことらしい)

その5
初七日法要にて
A「さて、忘れ物ない?あ、おじいちゃん忘れちゃ駄目だよ! お骨と写真とお位牌と・・・」
B「本日は、お骨に遺影、位牌がついて3点セットでなんと29,800円!」
C「月々2,980円の11回分割払いでも受け付けております」

その6
家に戻って
A「このお骨、49日に納骨するからね」
B「その前に、骨からダシをとっておじいちゃん骨ラーメンをみんなで食べるんだよ」

その7
「次回のいい練習になったし」
ひきつるおばあちゃん。

その8
「おじいちゃんはまだ生きている」といって頭頂をペシペシ叩いたとか叩かなかったとか。

こんなバチ当たりな孫達ばかりでごめんなさい、おじいちゃん。
こんな馬鹿な一族ですが、さすがに出棺の時には、
「おじいちゃん、いままでお世話になりました」
「いままで色々ありがとう」
と、みんなうるうるしていました。
「ありがとう」、いい言葉です。
自分の死ぬときには、何人の人に「ありがとう」と言ってもらえるでしょうか。
とにかく、今晩はは祖父の冥福を祈って、合掌。


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1999/7/1


自由

自由とはどういうことか。
自らの欲望に従い、人の迷惑をかえりみずに過ごすことを自由奔放と言ったりもする。
アメリカでは幼児愛好者の自由を、という運動もあるという。
性の自由、ヤりたい時にヤって何が悪い、という意見もある。
それは、欲望に負けているのであって、自然の因果律から自由ということではない。
自由とは、そういった因果律から超越して意志決定を行うことである。
自分の理念に従って、自然を超越して意志決定が出来る、
これが人間の自由であり、人間性の尊厳である。

カントの哲学は、自然状態を克服しようという西洋的な発想が根本にあるが、
自己の内なる道徳律にたどりつくこの哲学は、私には非常に魅力的だ。


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1999/6/30


救済

馬を水飲み場まで連れて行くことは出来るが、水を飲ませることはできない。
同様に、人に忠告を与えることは出来るが、救うことはできない。
自らを救おうと思わない者に、周囲の救済の意志は無意味である。
救われたい人に対し、わたしたちが出来ることは、相手の立ち上がろうとする力を信じること、
その心の部分を刺激することだけである。


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1999/6/11


孤立

中学の頃だったか、こんなことを考えていた。

例えば、生まれつき赤が青に、青が赤に見える人がいたとする。
当然彼は、赤を青という名前で教わり、青を赤という言葉で教わることになる。
彼は生活に不自由することはない。
誰かが「真っ青な空だね」といえば、彼は赤い空を見あげて、そうだねとうなずくだろう。
彼にとっては、彼にしか見えている赤が青という言葉で表現される色であるから。
ポストを描く時も、彼は「赤」の絵の具を迷わず選び、赤く(他人はその色を青と呼ぶ色で)塗る。
問題はない。他人にとっても彼にとっても、その色は「赤」という言葉で表現されているのであるから。

私が見ている世界は、他人と同じなのだろうか?
言葉、映像を通じても、決して分からない。
そういう意味で、人は孤立している。

なんか青臭いね、やっぱり。


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1999/6/10


思わせぶりな言葉

眠れない時って、大抵変なことを考えている。
ある言葉を思いついて、その言葉について考えているうちに目が冴えてしまう。
子供の頃からそうだった。たとえば、「うなぎと豆腐の共通点について」という、わけのわからない命題に、何とか解答を考えだそうとしたり(なんじゃ、そりゃ)。孤独な言葉遊び。

で、昨日の夜、ふと思いついてしまった言葉は、2つある。

1・私は私という場である。

この「場」って言葉にひっかかった。
で、理由付け。
私は100年前には存在しなかった。そして100年後には存在しない。
肉体を構成する物質は、新陳代謝により、10年で完全に入れ換わるという。
私が存在する以前から、今の私を構成する物質そのもの、あるいは物質の存在を内に孕んだものは存在していたはずであり、それが縁に結ばれて「私」を構成している。
故に、時間的空間的な無限の広がりの中で、私は場として在る。

2・意識は「私は私である」という認識からはじまる。

こんなこと、どこかで誰かが言ってそうだなぁ。
意識の元となる、無偏在な原意識とでもいうようなものが世界には満ちており、その一部が、「私」という場が誕生した時に「私」というベクトルを与えられ、原意識の中から掬い上げられる。
そうして形成された意識は、原意識とつながりを持ちながらも、方向性を与えられたが故に自己しか認識できない。
言い換えれば、「私は私である」という認識そのものが、「私」個人の意識の始まりである。


当然、こういうことを半分ウトウトしながら思い浮かべているので、論理的整合性はかなりゆるい。
けれども、普段自覚していない自分の物に対する考え方のベースが出ているようで、面白い。


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1999/6/4


FF[を斬る!

といっても、もうあちこちで斬られまくっているという話もありますが。
FFは、映画的ゲームを目指して、ビジュアル進化を重ねてきたゲームですが、今回も最高に美しいムービーを届けてくれました。現行PSの性能を最大限引き出したと言ってもいいでしょう。

しかし、今回はゲームとして見た場合に、いまひとつの感をぬぐえません。
これまでのシリーズも一本道のシナリオ、勝手に進むイベントが批判の対象になっていました。
たしかに、このことはRPGの本来の意味、役割をプレイする、という点からすると、感情移入を妨げています。今回、更に8頭身キャラになったことにより、その容姿からも想像力を働かせる余地を奪い取られ、戦闘のご褒美にムービーのドラマを見ているような気分になりました。それなりに感動するシーンもあるけれど、やはりそれも観客として、なんだなぁ。
(ちなみに、ドラクエシリーズは、主人公の台詞を極力なくすことによって、プレイヤーに想像の余地を残す方法をとっています)

余談ですが、RPGの初期、すなわち、この遊びがテーブルトークで行われていた時代は、キャラクターの精神的成長を共に体験し、自らも成長するということがあったわけです。これはコンピューターゲームへの導入の際に、レベルアップの概念、すなわち、数値によってあらわされる能力値の上昇により代替えされました。
もちろん、ストーリーの中で主人公の成長は描かれますが、それはあらかじめ定められたシナリオであって、プレイヤーの意志がストーリーに介入することはできない。

中でも一人よがりな感が強いのが、FF[のシナリオ。
突然「俺は過去形になりたくはない!」とさわぎ、てDISK3では、なんの前触れもなく愛に目覚めてリノアを背負い世界をさまよいだしてしまうスコールに、どう感情移入せいっちゅーんじゃ?
それに、各キャラクターは精神的に成長したといえるのかい?
魔女は魔力を継承しないと死ねないというならば、アデルの魔力は誰が継承した?結局、アルティミシア以降の未来世界で魔女がいなくなり、それまでの世界では魔女は常に二人居続ける状況になるんじゃないのか?
結局、感動を狙ったシーンは、感情を盛り上げるパターンに沿って演出した、というだけで、全体を通して終わって感動! というわけではない。

そして、今回のFFは、レベルアップをも否定している点で、RPGから大きく逸脱している。エンカウントなしのアビリティはあるし、ちょっとした工夫で誰でも初期レベルクリアが可能なのです。
能力値を魔法のジャンクションでカスタマイズできるシステムも、キャラクターの個性を埋没させる結果になっているような気がします。差違は必殺技でしかない。
目からレーザーを出し、臭い息をはき、どこからともなくミサイルを発射するキスティスの扱いも許せん(笑)

残るのは、アイテムやカードのコレクターとなるか、いかにシステムにどっぷりつかるか、あるいはその裏をかくか、といった楽しみのみ。

結局、私にとってのFF[は、生々しい人形芝居、それもNHK三国志以下の、でありました。


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1999/1/20


前回紹介しましたぬいぐるみのキャットテールです。
デジカメを年末に買いまして、色々撮っていますが、CASIOのQV7000SX、操作性が簡単で使いやすくていいです。
ただ、先日スライドボーイズ(バナナマン)のCD発売イベントを撮影して思ったのですが、薄暗いところで動きのあるものを撮ろうとすると、フラッシュ焚いてもブレますね。
あ、バナナマンは、今有望株(妹談)のお笑いさんです。まだまだテレビには露出が低いのですが、CD発売で果たしてブレイクするか?
妹は妙にお笑いに嗅覚がはたらいて、ウンナンもネプチューンも、まだテレビにそれほど出ていない頃から追っかけていました。雑誌の企画で応募して、ネプチューンの3人とデートなんてしたこともあります。
今ではお笑い系のHPまで開いて、人脈を増やしているようです。ちなみに、山田邦子とアンラッキー後藤を足して2で割った感じですが(爆)、だれか欲しい人いませんか?(笑)


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1998/12/20

最近凝っているプレイステーションのゲームに「AFRAID GIA」ってのがあります。
ロボットのパーツを組み合わせて、トーナメントを勝ち抜くというものなんですけれども、プレイヤーが関われるのは基本的に設計段階だけで、戦闘中は大まかな指示しか出せない。
要は、トーナメントに出すまでのパーツ選択とジェネレーターの組み立てが中心なんですが、これが燃える。
パーツの種類の多さもさることながら、これにメーカー相性、パーツごとの相性(メインジェネレーターの横にサブジェネレーターやブースターを置いては性能が下がてしまう)等、頭を使う要素が山盛りなのです。
1万本が採算ラインというPSソフトにおいて、まだ5000本程度しか売れていないそうですが、これはこのまま埋もれさせてしまうには惜しい!
PS持っている人は是非買ってね。
で、これを遊んでいて思い出したのが、「ROBOT BATTLE V」というゲーム。
これもパーツ組み立てて対戦させるゲームでした。雑誌アスキーの付録かなにかだったかなぁ。
友人の家で麻雀の合間、抜け番の時にPC−9801(VMだのFXだの、何にも後ろにくっつかない98ですよ!古い!)で自機を作成して、遊んでいました。
重装備タンク最強説を打ち破った、四つ足歩行豆鉄砲のみ搭載の軽装ロボット「DANA」は、本当に強かったなぁ。
ちなみにDANAという名前は、ラリィ・ニーブンの小説に出てくるキャットテイルにちなんだ名前です。
キャットテイルは、頭が猫で、手足が無く蛇のような体の可愛い生き物で、そのぬいぐるみをマフラーがわりにしてたりもしました。
今は姪のお気に入りのひとつです。


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