♪ひだまりの詩♪ by かがみさん

 「ありがとう」

 彼は一日に何度も私に「ありがとう」を言います。
「教えてくれてありがとう。」「聞いてくれてありがとう。」「心配してくれてありがとう。」「一緒に寝てくれてありがとう。」・・・とこんな風に。
 いつからそうなのか、気が付けばいつの間にか、「ありがとう」「いいえ、どういたしまして」の会話が一日中繰り返されるようになっていました。もちろん、意識して教えたわけでもなければ、彼の姉二人はそんなことはありません。それは、母としてとてもうれしいことではありながらも、ずっと不思議でなりませんでした。

 最近、こんなことに出会いました。知り合いの子どもの父親が病気で亡くなったのです。その子は、奇しくも私の息子と同い年。わずか10歳にして迎えた父親との悲しい別れでした。そんな彼が告別式の後しばらくして、その思いをこんな風にしたためたそうです。
「お父さんの骨壺を抱いたとき、はじめてお父さんを抱いたような気がした。・・・」
私は言葉をなくしました。彼の小さな胸に抱いた父はどんなにか重かったことでしょう。そして同時に私の中で長い長い時間が一気に逆流しはじめました。

 私の両親も、もうずっと昔に癌という病で亡くなっています。父とは20歳、そして母とは21歳の時の別れでした。もう20年近くも昔のこと、あの頃は今のように告知ということは考えられない時代でした。父とも、母ともお互い病気のことには最後まで触れることなく、近い将来確実に訪れるであろう永遠の別れに、どうしようもない不安を抱えながら過ごした毎日でした。そのことがどんなに私を両親から遠ざけていったことか。

 父と話したかった将来の夢。母と交わしたかった愛する人のこと。そのどれひとつも語ることなく迎えた別れでした。「なぜ?」という思いだけが先走り素直になれず、父や母に話したいことは、言葉にできないまま、いつも飲み込んでしまっていました。そうじゃないと思いながらも最期の瞬間まで「がんばって」としか言えなかった私でした。ほんとうは、気が付いていました。一番言いたかったのは「がんばって」ではなくて、「ありがとう」だったということを。「私を生んでくれてありがとう」「今日まで育ててくれてありがとう」そんな言葉のかわりに涙だけが頬をつたいました。

 もしかしたら彼は、あの日私が言葉にできずに飲み込んでしまった「ありがとう」を、私のお腹の中で拾い集めて生まれてきたのかもしれません。そして、毎日毎日あの頃私が言いたくて言えなかった「ありがとう」を私に聞かせてくれているのかもしれません。彼の「ありがとう」を聞くたびに両親のことを思いだし、温かく優しい気持ちになれるのです。そしてそのたびに彼が私に教えてくれるのです。「ありがとう」は決して飲み込んじゃいけないんだよって。

              1999年11月20日 星の降る夜に



こんなピアノがあったらいいのにな

子どもの頃、いつも夢を見ていた。学校から帰るとピアノがある。両親が、私が学校へ行っている間に内緒でピアノを買ってくれたのだ。あんなにほしかった私のピアノ。今日こそは、今日こそはと毎日そんな夢を見ながら家に帰っては、がっかりしていたあの頃。あの頃から、いつか自分の部屋にピアノをおくことが私の最大の夢になっていた。 
あれから、25年。あこがれだったピアノとエレクトーンに囲まれ、その夢は現実のものとなった。

私はもしかしたら鍵盤中毒かもしれないと時々思うことがある。あのリズミカルに規則正しく並んだ白と黒の鍵盤が大好きだ。いつどんなところで目にしても、見過ごすことができない。ピアノが弾けるかどうかということは別にしても、あの鍵盤を見るとまるで片思いの恋人に出会ったときのように、ドキドキするのだ。テレビドラマを見ていても、部屋の片隅におかれたピアノについつい目がいってしまう。あの部屋で、誰がどんな風にしてこのピアノを弾くのだろう、そして、どんな音楽を奏で、どんな幸せな気持ちに浸るのだろうと想像しただけで、私の夢はどんどん広がっていく。ピアノが、そこにあるだけで、私は幸せになれる。

我が家のピアノは、ほとんどふたが閉じられることがない。汚れたり埃がしたりで、ピアノにはよくないかもしれないけれど、ふたを閉じる間もないくらい、誰かが、代わる代わるピアノの前にいる。それに、ふたを閉じてしまうと真っ黒でなんだか部屋が暗くなってしまい、まるで別の部屋になってしまったような気さえする。あの白鍵と黒鍵の見事なまでのコントラストは、もう我が家には無くてはならない風景であり、もうすっかり生活の中にとけ込んでしまっている景色なのだ。

ふたを閉じても鍵盤が見えるピアノがあればいいなと思う。ふたが透明になっていればいいかもしれない。それから、前面に鏡が張ってあるピアノもあればいい。鏡に映った自分の姿勢やピアノを弾く手の形をチェックできていいかもしれない。

「どんなピアノがあれば・・・」といろいろ考えてみたけれど、ピアノはやっぱり黒。もちろんいろんなピアノがあれば楽しいと思う。だけど私にとってのピアノは、あの幼い頃に夢見
た、ピカピカに輝く黒いピアノなのだ。
    月刊Piano主催 私の夢のピアノ大賞(1997.12)
        エッセイ部門 「月刊Piano賞」受賞