1998年、2001年改

ラジヲ


彼女は云った、「まず、ラジヲから始めましょう」
僕は埃っぽいスイッチを捻る。 君の声が聞こえる。
 アホみたいな最低の音楽に、知性のない最低のテレビ番組。 色だけで薬みたいな臭いのする最低の紅茶。 すぐ穴の開く最低のカーペット。 最低のスモッグに最低の騒音。 むせるだけの最低の煙草。 鼻にしみる最低の香水。 ぜんぜん枯れてばかりの最低の観葉植物。 背中を痛めるだけの最低のソファーベット。
 最低の太陽。最低の時間。そして最低のノックの音。

 そうノックの音がしている。

 「ちょっと開けなさいよお、ジリイ!あんたぁいるんでしょお!!」

 ジリイは大のお気に入りの真っ赤なソファーベットに縛り付けられたまま小春日和の午後13時。 誰かがドアを叩いている。誰なんだ。テットウテツビ動けないのに。と、云いたい。 しかし喋ることすらままならないのに。手も足も出ない。汗が幾つも額やら首筋を通り過ぎる。 汗が髪の毛の中に流れ込む。加湿器はつけっぱなし。
 水蒸気がユラユラと黄色い光線の中に立ち昇る。 チョコレートのようにとろける水蒸気はいらいらするノックをより際立たせる。
 スローで流れる意味シンな映像だよこれじゃ。ドラッグフリーなのに。 このまま天井が隅から崩れ落ちて巨大なカニが僕の上を通り過ぎて行きそう。
 テレビではもう本当に本当に、とてもとても、それはそれはケバケバしくて、 それら全てのものはN極もしくはS極。 端にいることは凄いのだけれど畳の端に立つんじゃなくて 崖の端に立ちなさーい。ちみたち。
 薄く見開いた視界の中に漂っていたのはジリイのやるせない怠惰。 カリンの拳はドアを叩くだけ。カリンの咽喉は叫ぶだけ。 ジョアンジルベルトが曜日のない昼間をつかさどっている。 テレビではあいも変わらず芸能ゴシップが垂れ流されて、 単純でバターみたいな昼時間を回転させている。
 くるくるくる。あ、止まった。

 「へんじくらいしたってーいいじゃなぁああーーい。 イルスするんなら音楽ぐらい止めたらどおなのよぉーおおおお」

 もっぱらのジリイは植民地化された彼の身体をどうすることもできない困惑。 自らがそのものとなりきってもはや口をきくという行為自体を忘れていた。
 遠い未来は見えない。去年の暮れにゴミ捨て場で拾った、 オフホワイトの加湿器の中からはみ出た電機の影みたいなもの。 近い未来はほんのすぐそこまで。この縛られた手の届く範囲。 身動きの取れない自分から身動きの取れる自分へどのように変わるのか想像できない。 AからBへ。
 カリンは表情のない切れ長の目で、 くるくる回る配電盤の赤い印が次に正面にくるタイミングを待っている。 首を斜め上に傾けて手を握り締めたまま。 あともう一回転したらまたノックしてみよう。本当にいないのかな?
 この間だってゴッドファーザーのプラモデル作っててアタシと映画見に行くの忘れたし。 絶対時間の感覚っていうものが私とは相容れないのかしら。 それとも彼独特の社会性の問題かしらん。
 手の甲まで引っ張り伸ばした白いセーターが、 ジリイんちのドアをノックすればするほどだんだんと汚れてゆく。ような、気がして仕方ない。 黒いすすがサッシのさんに溜まってる。 隣の町工場の旋盤についたピカピカの刃からやってくる小さな鉄粉。 もしくは裏の線路から飛来するディーゼルエンジン吐き出す不完全燃焼の煙。
 くもりガラスの向こうにプラスチックメロン色の漂白剤の容器がぼやぼやしている。や。 ややや。靴紐がほどけそうじゃない。
 靴紐が解ける。踏む。汚れる。汚れへの三段論法がカリンの頭の中で、 真っ黒い金属粉を飛び散らす旋盤のようにキリキリ回転する。 生得的プログラムに従って盲目的にカリンはしっかりと紐を結びなおす。
 突然階段がガラガラと音を立てて反響し始める。洗濯機も低く唸り始めた。 遠い彼方で隕石が降り注ぎ地球が火を噴いたのか?はっ、と驚きながらも、 一瞬の間のそんな想像をする。 もしそんな地鳴りだったらカリン。にっこり笑いながら鳩になるのに。
 いつものようにジリイのアパートの裏を電車が通り過ぎてゆく。 どうも急激な音、臭い、表情、空腹。そういうものにカリンは弱い。 レールの表皮からはがされた鉄粉がカリンの鼻腔を刺激した。ような気がする。 鉄の匂い。がしたような気がした。ほんの一瞬。しかし急激。 うげ。この匂いキラーイ。え?どの匂い?

 「あ、一回転過ぎちゃったじゃない」恨めしそうに通り過ぎてゆく電車と、 その乗客に向かってまっすぐ口をつぐんで見つめる。

 「いるのかなぁー?ジリイー、ジリイー、ジリイー!!!」

 部屋の中から大きな物音がした。くぐもった物音。どすん。ばたん。一度だけ。 そのあとかすかにジリイのうめく声。多分。 しかしそれもどこか遠いところで再生したようなくぐもった声。 プールのそこで蜜蜂が巣を作っているみたい。ジリイは蜂じゃないかぁ。あれ? 蜂は電気を食べる?

 「ジリイ。一体どおしたのぉー??人に見られたくないくらい恥ずかしいコトしてるのー? それともビョウキなのぉーー?どっちぃーー??」