(女)「もう行っちゃうの?」

拓海がワイシャツのボタンをはめていると、女が後ろから抱き着いてきた。昨夜クラブで知り合い、意気投合した女に間違いないのだが名前が思い出せない。桃子だったか、百恵だったか・・・。

(拓海)「出勤しなきゃいけないんだよ。」

拓海はやんわりと言いながら、女の腕をはずした。ガウン姿の女は不満そうな顔をしている。クラブで会ったときは照明が暗かったからか気にならなかったが、朝の光の中で見るとかなり肌荒れが目立つ。職業は確かエスティシャンだと言っていた、どんな顔をして接客しているのかと、意地悪な考えが浮かぶ。
友達に付き合ってどんなに夜更かししても、クマや肌荒れ一つ無い白く透き通った肌をしていた女の顔が思い出される。

(女)「ねぇ、電話番号教えて。今夜電話するから。」

『また俺がお前に会うと思っているのか』と言ってやろうかとも思うが、出勤前に揉め事はごめんだ。ただでさえ、遅刻ギリギリなのに。

(拓海)「悪い、今夜宿直なんだ。俺から電話するから、番号教えてよ。」

自分の考えている事など絶対悟らせない笑顔を浮かべ、相手を見る。女は簡単に信じ、嬉しそうにメモに電話番号を書きキスマークまで入れて渡してくれた。

(拓海)「サンキュ」

拓海は肌荒れの目立つ頬にキスをして、女の家を出た。マンションを出て振り返ると、女が手を振っている。仕方なく笑顔を浮かべ、小さめに手を振って駅に急いだ。

 

(拓海)「ファァ」

つい欠伸が漏れた。

(拓海の心の中)『昨日もろくに寝ていないのだから、当然か』

今日は一月に一度の院長朝礼がある。何のことはない、父親である薬師寺弘樹が主任以上の医師、婦長達に向かって偉そうに訓示等をしゃべるだけなのだが、院長の息子なだけに出ていないと後でうるさい。
前に『まだ平だから』と逃げようとしたが、『やがてはお前達がこの病院を支えていくのだから』と一蹴されてしまった。

(拓海)「議論するのは、面倒だしな。」

拓海は一人つぶやきながら目覚まし用のガムをコンビニで買い、備え付けのゴミ箱に女から貰ったメモを捨てた。

 

(婦長)「拓海先生、遅いですよ!もうみなさんお揃いになっているのに。」

コンビニに寄ったために遅刻になってしまった拓海に、婦長の叱責が飛んだ。エレベーターの扉を押さえて待ってくれている。

(拓海)「悪い、悪い。」

拓海は慌てて医局の自分の机にカバンを置き、白衣を引っ掛けると廊下に出てエレベーターに飛び乗った。すると、兄の隆一もいる。

(拓海)「兄貴も遅刻か?」

(隆一)「患者が急変したって言うから、診に行っていた。幸いたいしたことなかったから、応急処置だけして他の先生に頼んだ。」

(拓海)「そうだよなぁ、俺と違って真面目なお兄様が遅刻するわけないか。」

(隆一)「親父に言われなかったか。せめてワイシャツとネクタイは毎日変えろ、患者は俺達医師の事を結構見ているんだ。」

隆一は苦々しい顔をして拓海の服を見ている。

(拓海)「変えている暇がなかったんだよ、後でちゃんとするさ。」

(婦長)「拓海先生、会議室に入る前にこの口臭スプレーでお酒のにおいを消してください。ただでさえ、今日は新しい弁護士さんとの挨拶が控えているっていうのに。」

(拓海)「新しい弁護士?なんだよ、村上先生なんかあったのか?」

薬師寺病院顧問弁護士の村上は、院長と同じ高校のOBだった事が縁で創設期からの付き合いだ。苦楽をともにしただけあって、ビジネスの付き合いを超えた友人でもある。

(隆一)「本当に話を聞いてない奴だな。『自分も年だし、田舎に引っ込んで妻と趣味の菜園でもしながら、のんびり暮らしたい。』って、辞任の意向を示した事をこの間の幹部会で親父が言ってただろ。後任者が決まったから、引継ぎをして来月には引越しされるんだ。」

(拓海)「村上先生のところって、弁護士は一人で事務員がいただけだよな?」

(隆一)「後輩で大手事務所を経営している人に依頼したらしい。その事務所でエースと言われている、優秀な人が後任だそうだ。」

(拓海)「どうせ、中年のおっさんだろ。おっさんに会うのに、気をつかっても使いがいがないよな。」

拓海は使い終わった口臭スプレーを婦長に返した。

コンコン
ノックをして顔を覗かせると、院長が苦い顔をして言った。

(院長)「早く入りなさい、お前達が最後だ。」

拓海達は慌てて決められた場所に座った。

(院長)「では、始めよう。まず最初に、新任の顧問弁護士のお二人を紹介する。」

院長が目で合図すると、事務長がドアを開けた。そして、二人の男女が入ってきた。

(拓海)「あ・・・」

(院長)「先日知らせたように、村上先生は今月いっぱいでお辞めになる。来月から、廣瀬弁護士事務所の江木達也先生と雨宮こずえ先生が、当病院の顧問弁護士を勤めてくださることになった。お二人とも、所属事務所のエースと言われている、大変優秀な先生だ。では、江木先生からご挨拶をいただこう。」

(江木)「初めまして、江木です。控えているのが、私の部下の雨宮です。我々が若いので、ご不安に思っていらっしゃる方もいると思います。」

江木はそこで言葉を切り、全員を見渡した。

(江木)「三ヵ月後、みなさんは弁護士の実力というものは年齢だけで測れないことを実感なさっていると思います。三ヶ月経っても、どうしても不安がぬぐえない方は、この病院を訴えたい、という方をけしかけてみてください。裁判所で、我々の実力を見せて差し上げます。これからよろしくお願いします。」

言葉遣いだけは丁寧に、自信ありげな笑みを浮かべて二人が頭を下げた。
パチパチパチ
江木の言葉に戸惑った空気だったが、院長がまず最初に拍手を始め、室内から拍手が起こった。拓海は、こずえから目が離せずにいた。

 

(院長)「お二人とも、これからどうぞよろしくお願いします。」

(江木)「こちらこそ、よろしくお願いします。」

江木とこずえは薬師寺病院の正面玄関先で頭を下げた。見送りには、院長、副院長、事務長、婦長、そして隆一と拓海。幹部が勢ぞろいしている。

(こずえ)「あの・・・薬師寺先生・・・お兄様のほうの。」

それまでずっと黙っていたこずえが、突然隆一に話しかけたので、みんながこずえを見た。

(院長)「あぁ、言うのが遅くなりましたが、息子二人のことは名前で呼んでください。でないと、面倒でしょう。」

(隆一)「なにか?」

隆一が不思議そうな顔をしてこずえに近づくと、こずえは隆一を少し離れたところに連れて行き、なにか囁いている。隆一は驚いた顔をして一瞬拓海のことを見たが、すぐにこずえに何か言いながら頭を下げた。

(江木)「どうした?」

(雨宮)「たいしたことじゃありません。」

隣に戻ってきたこずえに江木が訊ねたが、こずえはあいまいな笑みを浮かべてごまかしてしまい、そのまま二人は帰ってしまった。

(拓海)「兄貴、さっき何言われていたんだよ?」

(隆一)「ん?あ、いや別に・・・」

二人が乗った車が見えなくなると拓海が尋ねたが、隆一はなぜか言葉を濁している。

(拓海)「なんだよ、言えないことかよ?」

(隆一)「言えないっていうか・・・。いいから、後で言うよ。」

(拓海)「気になるだろ、さっき俺のこと見ていたし。言ってくれよ。」

(隆一)「後でいいだろ。」

(拓海)「何でここじゃダメなんだよ?」

(隆一)「ダメじゃないんだけど・・・言っていいのか?」

隆一の言葉に、拓海は多少訝しげにしながらも頷いた。

(隆一)「髪に隠れているけど・・・お前のここに、キスマークがついているって雨宮先生が・・・」

ためらいながらも隆一は自分の項の辺りを指差した。いっせいに拓海の首にみんなの視線が集まる。確かに、髪に隠れて気づきにくいが、キスマークがバッチリついている。

(院長)「・・・・・バカモン!」

拓海に院長のカミナリが落ち、その後説教されたのはいうまでもない。

 

(江木)「知り合いか?」

(こずえ)「え?」

助手席で外の景色を見ていたこずえは、江木の突然の問いかけに意味がわからず聞き返した。

(江木)「院長の次男坊。かろうじてごまかしていたが、雨宮を見て動揺していた。送りに出てきたときも、雨宮ばっかり見ていたしな。クライアントが雨宮に見とれているのは珍しいことじゃないが、どうも彼は様子が違って見えた。」

(こずえ)「昔、合コンした相手よ。」

(江木)「それだけか?」

(こずえ)「何が言いたいわけ?」

こずえは少し不機嫌そうに聞いたが、江木のポーカーフェイスは崩れない。

(江木)「いいや。ただ、コレはビジネスだからな。私情が絡むような事情があるのなら、考えないといけないと思っただけだ。」

(こずえ)「杞憂よ。」

江木はこずえの言葉に少し探るような視線を送ったが、それ以上は何も言わずに運転に集中した。


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