|
(1) ケータイが巻き起こす様々な事件 町を歩いていると、ケータイで話をしながら歩いている人をよく見かける。最近では歩きながらメールを打っている人も多い。このような光景は最近特に珍しいものではなくなってきた。かく言う私もよくやっている。しかし、これは非常に危険な状態であることを私たちはあまり、認識していない。
日本経済新聞、2000年6月15日の記事である。 2000年6月、18歳の女性が山陽電鉄の踏切で列車にはねられて亡くなった。姫路行きの特急電車が踏切に差し掛かったとき、女性がケータイで通話をしながら遮断機をくぐり線路内に入ってきた。運転手がそれを発見し、直ちに警笛を鳴らし、急ブレーキをかけたが「女性はずっと携帯で話していて、特急が接近するのに気付く様子がなかった」(『週刊新潮』六月二十九日号)という。普段から、この踏切の往来に慣れていて、遮断機が降りてからもしばらく電車が来ないと言うことを知っていたためか、気楽に渡ろうとしたらしい。 しかし、なぜケータイで話をしていただけで、迫ってくる電車が分からなかったのだろうか。それは彼女の心がどこにあったかが問題になってくる。つまり彼女は、「踏切を渡る」「特急列車が来る」という現実の世界で行動しながら、心はケータイを介した「彼方」の世界に行ってしまっていたのだ。彼女は現実の世界と、目の前の現実とは違うはるか彼方のもう一つの世界、二つの世界で暮らすわれわれ現代人の心理構造の犠牲者である。 実はこのような事件はこれだけではない。この事件があった、2000年一年間に同様の事件があったかどうか調べてみたところ、同様の事件が6件ほど確認できた。検索をした新聞記事は朝日新聞と日本経済新聞だけだったので、もしかすると他にも事件があったかもしれない。
↓日本経済新聞 2000年 2月18日
(2)電車から追放されるケータイ 家にある固定電話の契約数を抜き去ったケータイ。その事からも分かるように、街にはケータイがあふれかえっている。ケータイはいつでも、どこでも「彼方」の世界に回線を開くことの出来るとても便利なものである。それだけに、近年その利用法についてうるさく言われ始めてきた。我々が一番よく耳にするのが、電車内でのアナウンス。「他のお客様の迷惑になりますので、携帯電話の電源はお切りください」。
さて、普段なにげなく聞いているこのアナウンス。よく考えてみるといろいろと疑問が出てくる。まず、なぜ他の客の迷惑になるのだろうか。確かに、電車内で着信音が鳴り響くと、それをうっとうしく感じる人は多いだろう。しかし、それはマナーモードにすれば防ぐことができる話である。何も、ケータイの電源を切らなくても良いのではないか。それでは、ケータイがケータイとしての機能を果たさなくなってしまう。アナウンスでは「会話やメール交換」まで禁じている。電話で会話する声がそんなに大きいだろうか。メールを打つときのプッシュ音がそんなにうるさいだろうか。それを言い出せば、電車内の人同士の会話も、本を読む人も規制しなければならないのではないだろうか。 電車のアナウンスでは、心臓ペースメーカーに影響を与える恐れがあるから、電源を切ってくださいと言う場合もある。この事に関しての新聞記事があったので見てもらいたい。
さて、この記事を解釈すればよいだろうか。実際に事故の例が報告されていない。問題のあるペースメーカーの機種も既に改良が施され、電磁波対策がされている。記事にも書いてある通り、そんなに神経質になる必要はないのではないか。ただ、不安も残る。それは現行の第二世代携帯電話では問題はないかもしれないが、次世代ケータイがペースメーカーに与える影響はまだ分からない。この問題はまだ、調査が必要だろう。 とはいえ、ペースメーカー問題は新聞でもそんなに気にすることないという結論だ。にも関わらず世間の風潮は電車からケータイを追い出そうとしている感じが否めない。なぜだろう。どうも、ケータイを電車から追放しようとする動きは、使う人のマナーの問題やペースメーカー問題のせいだけではないように思える。 確かに、電車内でケータイを使って話をしている人の会話は、人同士で会話している人に比べ気に掛かる。特に大きな声で話しているわけではないのに、気になる。それは車内の「不関与の規範」が乱されているからである。 見知らぬ人の集まりである電車内にも、実は決まり事がある。みんな知らん顔をしているが、そこにはお互いを見て見ぬ振りをする「不関与の規範」が成立している。新聞を読んでいても、車内の中吊りの広告を眺めていても、それは無関心を装っているだけに過ぎず、実は周りに注意深く気を配っている。しかし、ケータイでの会話はそんな規範を無視して、突然車外の誰かとコミュニケーションを成立させてしまう。しかも、その会話内容は車内にいる人に聞こえてしまう。別に盗み聞きをしているわけではないのだが、聞こえてしまうのだ。しかも、聞こえる会話の内容は半分だけ。ケータイの向こう側にいる人の声は聞こえない。これは周りの人間にしてみるととても気持ちが悪い。でも、「聞いていないフリ」を続けなければならない。ケータイで話している人も、規範にのっとれば「聞かれていないフリ」をしなければいけないのに、その人の心は車内にはない。ケータイの向こう側、どこか「彼方」に行ってしまっているのである。ここで、今まで守られてきた「不関与の規範」にひずみができてしまう。この規範が車内で守られている限り、それを乱すケータイはやはりうるさく、目障りな存在となってしまうのだ。従って、電車の中でのケータイの使用の禁止は、使う人のマナーどうこう、の問題ではなく、人が持つ根元的なものの考え方に根付いているといえるだろう。もはや、目の前にいる人が実は別の世界と交信していると言う現実を実感し、その不快さを受け入れながら生活しなければならない時代が到来しているのかもしれない。
ケータイは便利だ。そして楽しい。今やケータイはただ会話するだけの道具ではなくなった。メール機能、インターネット接続、ゲームのダウンロード、静止画の撮影、動画の配信。しかし、まったく非の打ち所がないとものとは言い切れない。ひとつ便利になれば、その反対に問題も出てくるのが世の常である。 ケータイについても例外ではない。 町中、電車の中、教室、どこにいってもケータイをいじっている人が目につく。タバコを吸っている人なら分かるだろうが、少し手持ちぶさたになると吸ってしまう。それと同じようにケータイも少しの暇があれば、ポケットから、カバンから取りだし、親指を一生懸命動かす。その画面を見つめる目はどこか虚ろで、心ここにあらずといった感じである。その姿はなにやら、自閉症的な印象である。現在中学生の50%、高校生の70%が携帯を所持していると言う。また、高校生でケータイを使いすぎて未払いに陥っている人が、8万人もいるそうだ。この傾向は若い世代に多く見られるのだが、われわれのまわりではケータイ無しでは生きられない「ケータイ依存症」が広がりつつあるように思える。このような症状が広がる背景には、私たちが育ってきた、時代、環境が関係しているのではないか。 受験勉強や塾通いばかりで現代の子供達は、昔の子供達のようにいたずらしたり、けんかしたり、原っぱで駆け回ったりする機会が乏しくなっている。そんな子供達に実生活では得難い興奮を提供してくれたのが「ファミコン」である。「ファミコン」には昔の子供達がよくやった「ごっこ遊び」の要素がある。ゲームのジャンルの一つに「RPG」と言うものがある。「ドラゴンクエスト」や「ファイナルファンタジー」のような、主人公になりきってゲームを進めていくジャンルだ。それを略さずに表記すると「ロール・プレイング・ゲーム」つまり「ごっこ遊び」なのだ。ゲームのジャンルは何にせよ、野球ゲームにしろ、アクションゲームにしろ、ゲームをやっている本人は、画面上の主人公に自分を重ねる事で、なんでも出来る自分、全能の自分、いろんな自分を体験する事ができる。それはとても楽しい事で、夢中になり、時間を忘れる。 しかし、遊びはあくまで「ごっこ」である。どんなに画面上ですばらしい体験をしてもそれは現実のものではなく、しょせん「ごっこ」である。正常な人であれば、その事をきちんとわきまえており、遊んでいても、それにはいつか終わりがあり、現実に戻らなければならないことを知っている。しかし、もし遊びの世界の方が優先し、現実の世界がおろそかになると、リアリティ(現実感)の逆転がおきる。この逆転が「狂う」である。ファミコン狂になる子供は、ファミコンをやめる事ができなくなり、中には「ゲーム依存症」へと発展してしまう者もいる。 このような心理は現代の若者の「ケータイ依存症」にもそのままあてはまる。ケータイにあまりに夢中になってしまうと、現実の世界がおろそかになり、ケータイをいじるのをやめられなくなってしまうのだ。アメリカのインターネット心理学の第一人者、キンバリー・ヤング氏が「あと一分シンドローム」と呼ぶ、衝動にとりつかれてしまう。あと、もう少し仮想現実のなかにいたい、あと一分、あと一分と思っているうちに、膨大な時間が流れてしまっている。そこには独特の時間の損失がある。これをキンバリー氏は「コンピューター・タイムワープ」と呼ぶ。現実の時間の流れから、仮想現実の時間の流れに入ってしまう。しかも、そこではまるで時間が止まっている。その時間を管理する者は誰もいないのだ。こうして、仮想現実にいる時間が長くなるほど、食糧を買いに行かない、夕食は食べない、洗濯をしない・・・現実の世界にひずみがおこる。それがひどくなり、「ケータイ狂」になった時、その人は仮想現実に引きこもってしまうだろう。 全世界でIT革命が叫ばれている今、全ての人がパソコンやケータイを使いこなす事が義務づけられる、そんな世界が到来しつつある。そのような革命によって、情報と能率という点では、急速な進歩が期待できる。しかし、それとともに、人々のコミュニケーションの形が全く新しいものに変わっていっていることも頭にいれておかねばならない。それだけに、この動向に伴う、仮想現実への引きこもりについてへの対応も、考えねばならない問題だろう。遊びは「快」であり、「不快」な事も「快」に変える力を持つ。ケータイを持つこと、それだけでささやかな、しかもすばらしい心の癒しがある。しかし、それで巧みに遊ぶには、じつはそれなりの心の強さ、柔軟さが必要だ。どこかでケータイを離し、現実世界へともどる。この心の強さが無ければ、これからの時代、ケータイをうまく使いこなす事は難しくなってくるのかもしれない。
|
| 目次へ | |
| 次ページへ | |
| 前ページへ |