1月11-20日のひとりごと
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1月20日(月)
The Laramie Project、初の台本通し読み(“read through”といいます)。
改めて思ったけど、本当にすごい作品です。
まだ単なる読み合わせの段階なのだけど、
既にその強烈なメッセージに胸が締め付けられるようでした。
Wyoming州、Laramie の大学生だった Matthew Sheperd に対する
hate crime を巡るドキュメンタリー仕立ての話なのだけど、
はっと考えさせられるような場面がたくさんあります。
ほんの数年前、実際に起きた事件だなんて信じられません。
というよりも、できることなら信じたくありません。
どうしたら人はここまで残酷になれるのでしょうか。
発見された時の彼の状態が語られるたびにやるせない気持ちになります。
彼はボコボコに殴られ、細いロープでフェンスにきつく縛り付けられ、
発見されるまでそのまま18時間も放置され、
頭部のほとんどは自分自身の乾いた血で覆われていたといいます。
唯一血で覆われていない部分といえば、涙の流れた跡だったとか。
プロジェクトの“リサーチボード”に貼られた Matthew の写真を見て、
「どうして...」という思いに胸が締め付けられます。
まだあどけなさの残る、どこにでもいそうな青年なのに...。
私は事件に関わった人達のことを何一つ知らないけれど、
例えどんな理由があったとしても、相手を『人間』だと思っていたら
ここまでむごいことはできないだろうと思う。
たぶん犬とか猫とか、中型以上の哺乳類でも無理だろうな。
人にもよるんだろうけど...
実験でミミズを殺したのがきっかけで理系を去った身としては
小動物でもちょっとこたえるだろうな。
ということは、事件当時、加害者側の青年達にとって
Matthew は少なくとも犬猫以下とみなされていたのか。
異質な存在に対する憎しみというのは
そこまで人を狂わせるものなのか、と思うと愕然とします。
彼は同性愛者で、HIV保持者でした。
もちろん一方的な差別や偏見や憎しみだけが原因だとは言い切れません。
事件の引き金となった『何か』が Matthew の側にあったのかもしれません。
それでも、例えその『何か』があったとしても、
犯行の酷さは正気の沙汰とは思えません。
この事件は、制度上は『平等』・『無差別』を掲げているとはいっても
その背後に根強く残る、差別や憎しみを抱える病んだ社会を
浮き彫りにしたように思います。
こんなことを書いている私自身の中にも、
同性愛やエイズに対してだけに限らず
どこか深くに特定の他者への無理解や偏見が根づいているのかもしれません。
もしくはそんな問題をどこか他人事として扱っているのかもしれません。
そもそもそんな無自覚な人間が多いことが怖いのかもしれません。
セワニーにいると世間と隔離してしまって
強烈な憎悪とか理不尽な差別とか、そういうものにはほとんど直面することがないけれど、
時に命を落とすようなリスクがあるにも関わらず同性愛者として生きていくのは
かなりの覚悟を要するのではないかと思います。
だからこそ、「なんとなく」とか「ちょっと興味本位で」とか、そんなのではなく
当事者にとってはきっとリスクにかえても譲れない、
護り通したい自己なのではないかとも思います。
こちらに来てから同性愛者の友人が幾人かできたので
どこか他人事とは思えず Matthew に彼らの姿を重ねてしまい、
ますますやるせない気分になったりもします。
ちょうど友人を亡くしたばかりなので、
どこか近くに転がっているかもしれない『死の可能性』を見せつけられているような、
そんな気分になってしまうのかもしれません。
そんなことをいっぱい考えさせられる作品です。
重いけれど、同時に演劇に関わっていてよかったとも思います。
役者の使命は『伝えること』だ、と
そう、思います。
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1月18日(土)
Memorial service でした。
今日はなんだか涙もろくて
クワイアーのリハーサルで発声練習をしているときから
涙で声が出なくなったりしました。
教会の、あの雰囲気がそうさせるのでしょうか。
本番になっても、ことあるごとに涙が溢れてきて
久し振りに、すごくいっぱい泣いてしまいました。
たぶん、彼の死を知ってから初めて“きちんと”泣いた気がします。
なんでだろう?
教会で、先生やら神父さんやらいろんな人が集って式を執り行ってるのを見て
やっと「あぁ、本当なんだ、ジョークじゃないんだ」ってわかったからかな。
おかしな話だけど
こういう“儀式”を経ないと、気持ちの切り替えができなかったみたいです。
悲しい事実を現実として受け入れる為には
それなりの時間と、それなりの決まりごとが必要だったみたいです。
で、泣きながらも心を込めて歌いました。
悲しいことや辛いことがあったとき
「きちんと」泣くことって、すごく必要なんだと思います。
現実と向き合って、それを受け入れて、消化して、
それから一歩進むためには
悲しい気持ちをずっと心の奥底にしまっておいてはいけない、
最近そう思うようになりました。
失恋したときも、誰かにキツくあたられたときも、
我慢している間は根本的には何も解決できなくて、
時期が来て「きちんと」泣けるようになることで
やっと本当の意味で悲しみから解放されて前向きになれる気がします。
周りの人の優しさにも、改めて気がつける気がします。
強いていうなら、辛い気持ちの“供養終了”っていう感じかなぁ。
去年の卒業パーティーでたまたま撮ったネガがあったので
昨日の午後急遽それを現像して、“wake”で彼の友達にサインしてもらって、
式の後の reception でご両親に贈りました。
すごく喜んでくれました。
こんなとき、写真が撮れるようになってよかったな、と思います。
クワイアーにしても、写真にしても、
「何かをしたい」という気持ちをすんなりと行動に移すことができたから。
例えそれが独り善がりだったとしても、
実際に自分のできることは皆無だったとしても、
私は何かがしたかった。
それは自分自身のためでもあったし、
残されたご両親や彼自身のためでもあったと思う。
せめてご両親には、彼がここでどんなにたくさんの人に愛されていたか知って欲しかった。
あんないい子を育ててくれてありがとう、って
そう思ってる人がたくさんいるんだよ、ってことを伝えたかった。
その想いを託す手段として歌や写真があったこと、
私はものすごく幸せだったと思います。
service の途中、
「クリスチャンだった彼は、生まれ変わって別の人生を歩み始めたりはしないのだろうか」
とふと思いました。
全然見当違いな願いかもしれないけれど、
どこかで生まれ変わって幸せに暮らしてくれていればいいのに、
なんてことを思ったりもしました。
輪廻転生はあり得ないのだろうか、とも思いました。
おかしな話かもしれないけれど、
教会の Memorial service 中にこんなこと考えるなんて場違いかもしれないけれど、
『死』に対する救いは、
私はキリスト教よりも仏教に見出せるような気がしてしまって
ちょっとだけ、クリスチャンでい続けることへの自信が
揺らいでしまったりも、しました。
洗礼を受けてから初めて、自分の中に『迷い』を自覚してしまったりも、しました。
あれ、輪廻転生って
『生きるという辛さは永遠に続く』ってことが前提なのだっけ?
でも私は何となく
『どんなにツライことがあったとしても生きているって素晴らしい』
ということをどこか能天気に信じている方なので
やっぱり、彼には生まれ変わってどこかで生きていて欲しいなぁ。
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1月17日(金)
明日は冬休み中に亡くなった友人の Memorial service です。
お葬式とかとはたぶん違うのだけど、
“故人を偲ぶ礼拝”みたいなのが大学教会で行われるのです。
日本語の授業前に学生がオフィスにやって来て、
「今晩“wake”をするから」と誘われました。
“wake”とは、memorial service や(たぶん)お葬式の前日に
生前交流のあった者が集い、故人に関する思い出を語り合う儀式、らしいです。
儀式とはいってもそんな堅苦しいものではなく、
(そこがセワニーの学生らしいのかもしれないけど)
エピソード合戦コーナーが加わったパーティー、という感じだったけど。
すごく面白い子だったので
これでもか、というくらいいろんなエピソードが飛び出して
みんないっぱい笑って、ちょっとしんみりして、たまに泣いたりしていました。
私は彼のことをほんの少ししか知らなかったことを実感して、
もっとたくさん話して仲良くなっておけばよかったな、と
今更ながらに思ったりしました。
授業の合間にふざけてちょっかいを出し合ったりとか
そういうことはたまにあっても、
個人的な話はほとんどしなかったし
授業外で一緒に何かをしたりとか、そんなことはなかったから
それがなんだか淋しく感じられたりしました。
と同時に、たった一人の人間が
ここまでたくさんの人に影響を与えて生きていたのか、と思うと
なんだか自分が生きていることの意味や価値を改めて教えられたようで
ちょっとだけ、勇気づけられたりもしました。
ダラスで行ったお葬式でも感じたけれど
ただただ悲しみに沈むのではなく
いろんな思い出話をシェアして、笑って送り出そうという姿勢は
強さと誠実さみたいなのが感じられて
なんだかいいなぁ、と思います。
私は未だに彼の死を心から信じることができなくて
一人、部屋で生前の彼を思い出したときとか、
写真を現像していて、生き生きとした彼の笑顔が紙に浮かび上がってきたときとか
そんなとき、たまに涙が頬を伝わることはあっても
こういうみんなのいる場で号泣したりとか、
そういうことはありませんでした。
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1月16日(木)
デジタルアートの授業が終わり、
さぁ15分で自転車こいで劇場へ、と思って外に出てみれば。
なんと一面雪景色。
「うそでしょ〜!」と、思わずつぶやいてしまいました。
週末にかけて雪が降るとは聞いてたけど
何もたった一時間でここまでガラっと景色を変えんでも...
それにしても
本当に心底驚いたときは、やっぱり日本語ですね。
とりあえず驚いたって言っとこうかな、みたいなときは
「Oh, my God!」とか言ってみたりもしますが
今日の驚きは日本語レベル。びっくりしたー。
こちらの雪はさらさらしていて
結晶のまま降ってくるような感じなのでとても綺麗。
風が吹くと砂のように舞いあがったりもします。
そして、風に煽られた砂嵐の中を歩くと「痛い」ように
雪が顔に当たると「痛冷たい」のです。
東京ってさぁ、雪が顔や身体に触れてもすぐ溶けるでしょ?
今日の雪は「ぶつかる」って感じで、
ちょっとやそっとじゃ溶けないのですよ。
だから痛いのなんのって。
あの雪の中劇場までのキャンパス大移動はなかなか大変。
で、午後にはいろんなとこに雪だるまができてたり
ソリや雪合戦で遊ぶ学生が出没したりしていました。
そういえばこっちの雪だるまって、基本的に3段みたいね。
あれは「二段腹」なのか「脚が長い」のか、
なんて素朴な疑問を抱きつつ楽しんでます。
The Laramie Project。
直勘でやりたいと思っていた Moslim(イスラム教徒)の役ではなく
大学事務、40代のレズビアン役になりました。
今まで五歳の子どもとか、そんな役が多かったので
一気に40代というのもなかなかの飛躍。
たまには年頃の20代の役もやりたい気もするけど、
まずは台本を読んでこのキャラクターを好きになるところから、ね。
でも Moslim 役、やりたかったなぁ。
役の大きさとかは全然わからないけど(っていうか大して変わらないと思う)
オーディションで読んだセリフ、すごく共感できたんだよね。
住んでる地域に(アメリカにも?)不満たらたらなとことか...(ははは...苦笑)
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1月15日(水)
The Laramie Project、役がもらえました!
どんな役かはまだわからないけれど、
このプロジェクトに関われることがとても嬉しいです。
扱っているテーマに関して、思うところがいろいろあるから。
冬休み、旅行中に訪れたアクティングスタジオで
「このスタジオのいいところは、“社会は自分達(役者)を必要としている”と
ここにいるみんなが信じてることだ」
という言葉を聞いて、すごく共感をおぼえたのを思い出しました。
演劇に限らず、映画だったり音楽だったり写真だったり絵画だったり
芸術と呼ばれるものって、すごい力があると思う。
娯楽としての役割だけでなく、
それこそ老若男女問わず、幅広い人々に何かを伝える力というか、
ものすごくクサイ言い方をしちゃえば“心を揺さ振る”力というか、
そういう果てしない可能性を秘めていて、
問題提起をしたり、人の心を癒したり、
他の媒体では難しいようなこともできちゃったりして、
たまに軽視されがちだけど、生きていく上で絶対必要なものなんです。
...と、自分が本気で関わろうと思うようになってから
折にふれてそんなことを感じていたもので
商業主義に走らないスタジオの姿勢がとても心地よかったのです。
ま、とにかく。
このプロジェクトはいろんな意味で力強い作品で
私が演劇を通してやりたいと思っていることの一端を垣間見れそうな、
そんなプロジェクトなので楽しみです。
また夜がつぶれて忙しくなるだろうけど、頑張ります。
しかも今回、キャストに日本語の学生がなんと2人もいるので
もうリハーサル中に「明日のレッスンプラン、終わらないよー」とか
「あー、もうキャンセルしたい、明日」とか
そんなことは口が裂けても言えません。頑張れワタシ。
そんなこんなで明日は最初の顔合わせ。
楽しみだ。
ちなみに今日からバレー(ダンス)のレッスン開始。
優雅な動きが求められるだけにジャズより難しそうな予感。
音楽もアップテンポだったジャズからは一転して、優雅にクラシック。
かなりキャラじゃないでしょ、とか内心思ったりもしますが、
でもまぁやらないよりマシでしょ、みたいな感じで
またぎこちなくコメディー交じりのステップから。
頑張りますよー。
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1月14日(火)
授業初日。
今日は日本語がなかったので、ちょっとまだのんびり気味。
今学期は火・木がハードスケジュールで
キャンパスを15分のタイムリミットで行ったり来たりしなければなりません。
晴れてる日は自転車でなんとかなるけど、
雨とか雪が降ったらどうしよう...
でも履修予定の授業はどれもとても面白く、勉強になりそう。
とりあえず今日はデジタルアートとVoice and Interpretation(演劇)と写真。
学期の最後にはHP作成もするらしいので、
こことリンクさせてみたりしたいなぁ、と企んでます。
今日は Choir のリハーサル初日でもありました。
先生健在。嬉しい。
今週の土曜日に、休み中に亡くなった友人の Memorial Service があるので
そこで歌う曲も何曲か練習しました。
歌詞やメロディーが心に触れて
彼を想って泣きそうになってしまいました。
私はこんなに無力だけれども
彼を送る式で歌うことができて幸せだ、と思いました。
『何かをしている』ことが救いになるような気がして。
今でも彼が亡くなったことが信じられないときがあります。
先学期以来、まだ会っていない友人というのは結構たくさんいて、
「彼ともたまたま会っていないだけなのでは」と思ってしまったりします。
『まだ会っていない友人』と彼とを区別しているのは私の頭の中だけの問題で、
実は両者がそんなに決定的に違うってこと、誰にも証明はできなくて、
ある日突然彼が目の前に現われて
「実は間違いだったんだ、あのニュース」って、
いつものように冗談めかして軽〜く言ったとしても
きっと私は彼の死を受け入れたのと同じスピードで、
もしかしたらそれよりもずっと早く、
「な〜んだ、そうだったんだ」って
その言葉を受け入れてしまうことができるような
そんな気がするのです。
いろんな人の心の中で
きっと彼はこうやって、ずーっと生きていくのかなぁ、と
そんなことをふと思ってみたりもしました。
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1月13日(月)
キャンパスを歩いていたら去年までの日本語の学生に会いました。
彼は一学期間日本に留学していて
ちょうど帰ってきたところだったのです。
もともとよくできる学生だったのだけど
日本語がだいぶ上達していて、なんだか先生としては感無量。
嬉しくなっちゃいました。
だって、教室のように語彙や文型を制限しないで
他の日本人留学生(日本語教育の知識がない子、つまり“普通の”日本語を話す子)も交えて
30分以上、日本語のみで会話が成り立っちゃったんだよー。
内容もごくごく“普通”の、『お互いに知りたいことを聞く』みたいな
日本人同士でするような会話。
しかもアメリカ人らしくなく、礼儀をわきまえた、というかかなり感じのいい話し方。
「日本語上手だね」と言われて
「いえいえ、それほどでも」と答えたときには
思わず拍手しちゃいました。
私が貢献できたのはほんの僅かかもしれないけれど
こういう学生が育ったと思うと
ティーチングの苦労が報われたようで励まされます。
夜は THE LARAMIE PROJECT のオーディション。
先学期の殺人的な忙しさに懲りて、今学期は舞台はやめとこうと思ったのですが
内容を読んだ途端、「やりたい!」と思っちゃったんだよね...
98年に Wyoming で起きた、hate crime をめぐるドキュメンタリー仕立ての舞台です。
ゲイの大学生が二人組の男の人にボコボコに殴られて
フェンスに縛り付けられて放置され、殺された事件。
その事件に対する地元の人や関係者のインタビューで構成されています。
オーディションでいくつかセリフを読んだり聞いたりしたけれど、
どれもこれも強烈なメッセージを含んでいて
すごく、すごく考えさせられるものばかり。
『ゲイ vs ストレート』という問題だけを扱うのではなく
もっと広く「何故人は憎しみあうのか」みたいなのがテーマらしい。
18才から65才まで、学生だけでなく地域の人も対象にしたオーディションなので
学生だけの舞台と比べてスケジュールももうちょっと「役者に優しい」かなぁ、
という淡い期待も抱きつつ。
役、もらえるといいなぁ。
たぶんセワニー最後の舞台だし。