1月21-31日のひとりごと
Diary Top
1月31日(金)
朗報!
『The Mountain Goat』という
大学が発行してる詩や文章や写真の冊子があるのだけど
それに採用されちゃいました。
しかもなんと一枚は表紙を飾ることに!!
うれしいねぇ。
HP以外の場所で
不特定多数の人に作品を見てもらうのは初めてなので
ちょっとこそばゆいような感じ。
こんな小さな冊子でもこんなに嬉しいのだから
プロで写真集とか出しちゃう人は
きっとものすごく感慨深いんだろうな。
特に最初の一冊。記念だもんね。
ちなみに採用されたのは
『A Dog Day Afternoon』と Children's Center の靴(こっちが表紙)の写真。
犬のは結構いろんなところで評判がよかったりします。
犬さん、あんなところであんな風に寝ていてくれてありがとう。
これ、永久保存版にしよっと。
ところで今日の天気はまたもやユニーク。
朝は露が木々に凍り付いてて
雪が降ったわけでもないのになんとなーく辺り一面が白っぽかったのね。
まぁそれだけでも幻想的なんだけど
お昼頃、その露が溶けたり風で煽られたりして
木の下だけ“雹”とか“雨”とかが降ってるの。
セワニーは不思議だ。
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1月30日(木)
髪型を変えました。
と言っても、前髪をちょっとだけ切り揃えて
一部をピンで留めただけだけど。
(『はいからさんが通る』の南野陽子風 ←例え古すぎ?)
それだけで気分一新って感じで
心まで軽やかになったようで、ちょっとウキウキします。
マンネリからの脱却って必要ですね。
夕方、アート系の特別講演で
「Art is to perceive the world better (more beautiful) than it is. 」
(芸術とは世界を実際よりもいい(美しい)ものとして認識することだ)
という言葉に出会いました。
一人のアーティストが
プレゼンの途中でさらっと口にした、何気ない一言だったのだけど
なんだかすごく心に響いたので書き留めてみました。
『実際の姿よりも美しい世界』かぁ。
うん、そうだよね。
だからきっと人を惹きつける何かがあるんだよね。
やっぱり芸術っていいなぁと思うのと同時に
こういう考え方って芸術家の創作過程のみに限らず
生きてくうえでも必要な姿勢なのではないかしら、
なんて気もしました。
日々の生活の中で、そんな風に物事をとらえられたら。
それは“単なる思い込み”かもしれないけれど、
それほど幸せな“誤解”ってないんじゃないかしら。
そういう目をもって生きていけたら
なんだか前向きで素敵だなぁ、と思いました。
こういう『出会い』があると
なんとなく心が温かくなります。
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1月26日(日)
日曜礼拝の後、演劇の先生とランチ。
たまたま一緒だった日本人留学生の子(彼女もChoirなのです)と先生の奥様も一緒。
先生は今学期リーブ(研究休暇)で、来週からNYに行ってしまうのです。
で、NYのこととか演劇のこととかいろいろ話してたのだけど、
その合間に留学生の友達、何て言ったと思う?
「アヤさんは行動的で、いつもエネルギーをもらっている」だって!!!
つい昨日あんな風に沈んでたとこだったから
こんなにタイミング良く、こんな言葉が聞けるなんて。
ここでも私のことそういう風に見ててくれてる人もいたんだぁ、って
もう大丈夫だぁ、って思ってなんだかすごくほっとした。
見えない『力』がしっかり働いてて
落ち込みかけた私にすっと手を差し伸べて励ましてくれたような、
そんな気がしてなんだか不思議。
うつむいて照れ笑いしてたけど
本当はすごくすごく嬉しかったのです。
ありがとう。
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1月25日(土)
……帰りたい。
こんな日は何の前触れも理由もなく、突然やってきます。
何か気の紛れるようなことをすればいいんだろうけれど
そういう気分にもなれず、
こんな時はただひたすら息をひそめて
時間が過ぎるのをそっと待つことにしています。
セワニーに来てからちょっと精神的に不安定になったのかな、と思います。
もともと何があっても動じないようなタイプではなかったけれど、
こんな風に理由もなく激しく気分が低迷することってなかったと思うから。
あったとしても、生活に支障をきたすほどではなかった。
身体の不調からくるのか、精神的なものなのか、その両方なのか。
よくわからないけれど、頭がボーッとして起きていられないのです。
例えて言うなら熟睡していた真夜中の2時、3時に無理矢理叩き起こされたような感じ。
集中力も続かないし、そもそもやる気も出ない。
このままベッドの中で溶けたように何もせず、まどろんでいたくなる。
私は日本の何がこんなに恋しいのだろう?
友人と...日本語、かなぁ。
日本語で自分を表現しなくなって久しい。
もちろん、日記とかメールとか書き言葉でのコミュニケーションはあるけれど
友人と向かい合って時を忘れて語り合うのとは、根本的に何かが違う。
自分の想いをすぐに言葉にして表現できないもどかしさは
やっぱり、時に重くのしかかる。
『学習者の言語レベルと知的レベルを混同してはいけない』
というのは、語学教師としての鉄則。
幼児並みの発話しかできなくても、
頭の中ではもっとたくさんの複雑な考えが渦巻いている。
そのギャップは時に学習者を苛立たせることもある。
それは自分が海外で生活していると、すごくよく身にしみる。
英語社会においては、私はまだ“障害者”のようだ。
日常生活は普通に乗り切れるとしても
頭の中で働いている思考と口から出てくる言葉との間には
ずいぶん差があるように思う。
文化的背景に対する知識の欠如もあいまって
ふとした場面で無力で頼りない子どもみたいになってしまう自分が悔しい。
「どうせわからないだろうから、やっといてあげよう」
というのは、親切であると同時に、ときに屈辱だったりもする。
日本語だったら負けないのに、と悔しくなったりもする。
だから日本に帰りたくなるのかもしれない。
自分はしっかり生きていけるのだということを
確認したくなるのかもしれない。
常に陽気で明るく積極的、みたいなのが望ましいとされる
アメリカ(セワニーの学生?)の空気にもたまに疲れてしまったりする。
人間関係において manipulative な人と一緒にいると
相手のペースにどんどんどんどん巻き込まれて
帰って来てからため息をつくことになる。
自分の意見を言うのがどんどん苦手になっていくようで
ちょっと自己嫌悪になったりするときもある。
もうほっといてくれればいいのに、なんて思ってしまうときもある。
こちらでの親友に言われたこと。
insecure。vulnerable。anitisosial。passive。人間嫌い。
(別に悪意があって傷つけようとして言われたわけではないですよ)
そうだよなぁ、と客観的に思う。
ここでの私は自分で見てもそんな感じだ。
そう思われてても仕方ないと思う。
大切な友人なのに、自分のそんな“イケてない”面しか知られていないのは
なんだか哀しい。
だから日本に帰って確認したくなるのだと思う。
自分に別の一面があったこと、
そんな自分が大好きだったこと、
大好きな自分を知っててくれる友達もたくさんいたこと、
確かめたくなるのだと思う。
そういうこと忘れそうになると、ちょっと落ち込むのかもしれない。
そんなこんなで結局今日は一日中ベッドの上で過ごした。
週末だから気が緩んでこんな風になるのかしら?
休みの日だから、自分を甘やかすのもアリだよね。
教科書を3頁だけ読んだ。
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1月23日(木)
さーむーいー!
半端じゃなく冷え込んでます。
朝起きたら、またもや辺り一面銀世界。
午後3時過ぎの時点で、華氏‐7度だったらしいです。
...って、摂氏何度よ一体。
計算すると気が遠くなりそうなので敢えてしませんでしたが
(と言うより、換算法知らないんだけどね...)
今までの人生の中で一番寒いんじゃないかしら?
去年はなかなか過ごしやすかったのに〜!!
今年って全世界的に異常に冷え込んでるんですかねぇ?
一応日が差す午後にも関わらず、大きな氷柱をいくつもつけたまま走る車。
僅かな湿気すら中で凍ってるんじゃないかと思われるGパン。
マフラーで鼻まで覆ってても、目の周りとか寒くて『痛い』んですよー。
こんなの初めて。
ずーーーっと昔、TVである女優さんが
「年を取ったらお尻が冷えるようになった」
とか言っていて、
子ども心に「そーんなの、あるわけないじゃん。服着てるのに」
と丸っきり信じてませんでした。
が。
今日はホントにオシリが寒い。
女優さん、今まで疑っててごめんなさい。
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1月22日(水)
Jerry Uelsmann という写真家がいます。
代表作の一つに、海に浮かぶ一艘のボートと空に浮かぶ球体とで構成された
とても印象的なものがあります。
彼はよく幾つかのネガを組み合わせた合成写真を生み出す
独特の世界観を感じさせるアーティストです。
(ちなみに私は背中に翼の生えた人が海の中を歩いてて、
同じような翼をもつ鳥が3羽ぐらいその上で飛翔している写真が特に好きです)
彼の作品にはどこか惹かれるところがあって、
最初に見たときからちょっと気になっていました。
『美しい』というよりも『気になる』って感じ。
時に神聖さが感じられたり
時にちょっと怖い感じがしたり
そんな作風です。“シュール”なんですね。
でも、ずっと疑問に思っていたことがありました。
写真を合成する目的って何なのだろう?
砂浜に口が現われてたり、トンネルの向こうに目があったり、
はっきりいってちょっと『気味が悪い』かな、という線スレスレの作品もあります。
それでも嫌悪感を起こさせるのではなく、むしろ興味を引くような、そんな作品。
単に観る人を『驚かせる』だけの、インパクトの強さだけしか残らない作品と
そこから『何か』が伝わってくる作品との違いは、何なのだろう?
合成写真の難しさってひとえにそこだと思います。
技術面はマスターできたとしても、
そもそもわざわざ元のイメージに手を加える意義ってあるのだろうか?
何をもって『よい合成写真』と言えるのだろう?
物珍しいことをすれば、それでいいの?
そんな疑問を投げかけたら
先生が冒頭の作品についてこんな裏話を教えてくれました。
実は彼女、以前彼と仕事をしたことがあったそうなのです。
彼の友人に Minor White という写真家がいました。
White が息を引き取ったとる直前に残した言葉が
「今、小さなボートが近づいてきている」
だったそうです。
つまり冒頭の写真は亡くなった White に捧げたものだったのです。
そう言われてみると、
この写真は“別の世界”への幸せな旅立ちのように見えてきます。
すごく希望に満ちたもののような気がしてきます。
こういう話を聞くと、はっとしますよね。
途端に写真に込められたメッセージが鮮明になる瞬間。
あぁ、私の心を惹きつけていたのはこれだったのか、みたいな
直感が裏付けられる瞬間。
『伝えたいこと』があって
その想いに支えられて生まれた作品って、やっぱり雄弁です。
こういうのって、単純に感動してしまいます。
なんだかいい話聞いたなぁ、と嬉しくなったのでここでシェアしてみました。
私も雄弁な写真が生み出せるような、深みのある人間になりたいです。