3月1-10日のひとりごと

Diary Top


3月10日(月)
今日の日本語の授業には
奨学金によるセワニー進学を考えてる高校生が3人ほど見学に。
(いわゆる推薦入学候補の優秀なお子さま達です)
そういえば「すごく欲しい学生だからいいとこ見せてあげてね」って
学長からメールが来てたっけ。

とりあえず面白かったらしく
授業後に「来年も同じクラス教える?」と聞かれたり。
「ごめんねー、私は来年ここにいないんだ」と答えたものの
私のクラス取りたいと言ってもらえると嬉しいですね。

2年目の今、見に来てもらえてよかったな。
去年じゃここまでの余裕はなかったもんねぇ。
今日はどちらかというと『ぶっつけ本番、あとは即興』的なレッスンプランだったのですが
突然ゲストが来ても動じず臨機応変に対応できるようになったあたり
とりあえず成長してるのね、と思えて
なんだか気分のよい一日。

学生も先輩ぶって「いいとこ見せよう」と張り切ってたしねー。
「ここまでできるようになったんだ」っていうのが
自信と学習意欲の向上につながればいいけど。

...っていうか、いつもこれぐらい張り切りなさい。

*********************

3月9日(日)
The Laramie Project について話し合う、というので
どんなもんかなぁ、と思い
Gay-Strait Alliance というサークル(?)のミーティングに参加。

私は未だに
どうして殺された大学生が
ゲイということでそこまで憎まれてたのかが理解できなくて。
「アヤって妙に許容範囲広いよね」と
そういえばずっと前に言われたことあったっけなぁ、と思い出しつつも
「別にいいんじゃない?」とか思ってしまう。

上手く言えないけれど
「僕オハイオから来たんだ」ってのと
「僕ゲイなんだ」ってのは
私にとって同じぐらいのレベルの情報なんだよねぇ。
『一大決心して』カミングアウトしたのに
あまりにも反応薄くてたまにびっくりされるけど。

(余談ですが。
初めてできたゲイの友人は日本語を勉強してる子で
自分がゲイだということを日本語で伝えてきたのですが
思わず日本語講師の血が騒ぎ
内容そっちのけで文の間違いを訂正してしまい
告白した本人は拍子抜けしたらしい)

でもミーティングに参加してみて
自分の中にも偏見が潜んでること、実感しました。
「へぇ、この人ゲイだったんだ」とか
「この人はどっちなのかな(同性愛者じゃなくても参加できるから)」とか
そういう『探り』の目で見てしまうし
「自分も(参加してるってことで)ゲイだって思われたら嫌だなぁ」とか
そんなふうにも思ってしまう。
こういうのも結局は『差別』っていうんだろうね。
難しいもんだなぁ、と思います。

ミーティングの中で
「ゲイだ」って告白すると「自分に気があるのか?」と思われて
同性から怯えられたりするけど
「ゲイ=あなたのことが好き」って訳じゃない、っていう意見が
情けないけど目から鱗、って感じでした。

確かに「レズビアンなの」って言われて
真っ先に頭をよぎるのは「私のこと好きだったらどうしよう」とかで。
ゲイの男の子といるのって気兼ねなくて実は居心地よかったりもするのだけど
それがゲイの女の子だったらどこか『警戒』してしまうようなとこ、
やっぱりあるんだろうなぁ。
でも決してストレートの男の人に会ったって
すぐに「この人私のこと好きかも」という発想には至らないのと同じように
ゲイだから自分に気があるかも、と思うのは見当違いだよなぁ、と。

ほら、誰にだって『選ぶ権利』はあるでしょ? (笑)

無知であること、無理解であることって
一番問題なのではないかしら、と思うので
初めはドキドキしたけど参加してみてよかったなぁ、と思いました。
公演を通して問題提起するだけしといて
あとは知らん振り、ってのもどうかと思うしね。
もっときちんと自分の中の『偏見の種』と
上手く付き合えるようになりたいなぁ、と思いました。

いつかはそういうの、なくなればいいけど。

*********************

3月8日(土)
公演最終日。
今夜も満員御礼で大盛況のうちに終了。
ここまで評判をよぶのは
役者の力というよりも、脚本というか扱ってる題材の力強さが
90%ぐらいは貢献してるのでは、と
個人的には思います。
でもそんな評判に応えるように
キャストの演技が磨かれてきたのは事実。
初日と比べるとずいぶんみんな(自分も含め)よくなったなぁ、と
改めて本番のプレッシャーで得られる成長、
みたいなのを感じます。

今までほぼ毎晩顔を合わせていたメンバーと
明日からはもう定期的に会うことはないのか、と思うと
なんだかちょっと淋しくて劇場を去るのが惜しいような気分。

その後“大人キャスト”(教職員や地域の人も参加してた)だけで
ホームパーティー式に小規模な打ち上げ。
こっちに誘われるようになったんだ、っていうのと
やっぱり“大人”と話してる方が落ち着くなぁ、っていうのとで
大学卒業後2年でずいぶん変わるもんだな、なんて
やや大人になった自分を発見。
セワニーの学生がどうも子どもっぽい所為もあるのかもしれないけど。

まぁその席で『大人』達が
『子どもキャスト』の演技や舞台作りへの態度について
歯に衣着せぬ意見をバシバシ言ってるのが
なかなか興味深かったり。
やっぱり学生はどこか考えが甘くて
大人はしっかりと常識的な判断してたんだなぁ、
というのが私の感想です。

*********************

3月7日(金)
今日の午後はボランティアで
小学校の Friday School にて折り紙教室。
平和教育も兼ねて
『Poor Elephants(“かわいそうな象”だっけ?)』という絵本を読み、
千羽鶴の風習も説明してから
みんなで鶴を折りました。

『Poor Elephant』はたまたま数日前に
日本の絵本の英訳をみつけたから、
と知り合いの先生にもらったのですが、
空襲で逃げ出して暴れると危険だから、という理由で
戦時中に餓死させられてしまった上野動物園の象の話。
小学校の国語で読んだよね?

私のへなちょこ英語で理解してもらえるかなぁ、とか
折り紙教室ってもっと“楽しいこと”期待されてるのかなぁ、とか
いろいろ不安はあったのですが
今の情勢がこんなだからこそ、
小学校で平和について考える機会って必要なのではないかしら、
と思ったのです。

「今イラクとアメリカで何が起こってるか知ってる?」
って聞いたら、「うん、知ってるよ」って言ってました。
押し付けは嫌だなぁ、と思ったので
「私はすごく悲しいことだと思うんだ。
暴力で平和や幸せが得られるとは思えないから」
と自分の意見だけ伝えて、折り紙開始。

馴れてないアメリカの子どもに鶴は難しかったかなぁ、とか
やけに静かだけどつまんないのかなぁ、とか
小心者としては実は終始ハラハラしてたのですが
手伝いに来てくれた他の日本人の方によれば
夢中(必死?)で折ってたために口が動いてなかっただけとのこと。
とりあえずは成功だったみたいで一安心です。

一人で千羽折らなくてもいいんだよ。
それより、お友達や家族の人と今日のお話をシェアして
鶴の作り方も教えてあげてね。
ということで一人3-5羽ぐらいずつで終了。

こんな片田舎の小学校で千羽鶴作ったところで
戦争がなくなるわけではないのだけど、
この国の子ども達にとって
戦争がいかに悲しいことなのかを知り、
平和について考えながら何かをしたということが
心の片隅に残っているのは
実はとっても必要なのではないかしら。

そんなふうに、思ったのです。

夜は The Laramie Project。
写真のドキュメンタリープロジェクトを持っていったら
みんな気に入ってくれて嬉しい限り。
やっぱり亡くなった友人が鏡の中で笑ってる打ち上げの写真は
一番訴えるものがあったみたい。
誰が見るかによっても、きっと写真って変わってくるんだろうねぇ。

「写真これからも続けないの?(続けなよ)」
とか言ってくれる人もいて、嬉しかったです。

今日の公演後は
「ねぇ、テキサス訛りで喋ってた?」
などと言ってくれる人もいて、
ちゃんと訛って聞こえてるんだ、と思い
それもまた嬉しかったな。
やっぱり日本語訛りの方が強く出ちゃってるみたいだけど、
普段の私じゃない喋り方って認識してもらえて
とりあえずは今回の目標達成かな?
(「アヤって(普段も)こういう話し方するんだ」とか思われたら
哀しいなぁ、と思っていたのですよ)

今夜もスタンディングオベーション。
そして2階席まで臨時で設けるぐらいの大盛況。
明日はついに最終公演。
頑張るぞ。

*********************

3月6日(木)
掲示板にも書きましたが
せっかくのオーラルインタビューが
ビデオの電池切れで録画されておらず
パニック状態のまましばし呆然。

...ま、何とかなるでしょ。
...っていうか何とかする。きっと何とかなる。

日本語講師も2年目になって
なかなか私も“図太く”なったなぁと思っておりましたが
今日は久々に動揺した。

The Laramie Project 2週目初日。
演劇専攻の4年生の多くがオーディションでいないので
一部キャストとスタッフを入れ替えての初舞台です。
なんかタイミングとかどうもしっくりこなくて
お客さんも少なかったし、どうもみんな本調子じゃなかった感じ。

ところで、ちょっと不快なことが。

客席との間はカーテン一枚しかなくて
見えていないとはいえ、ひそひそお喋りをしてたら筒抜けなのですね。
それなのにお客さんの真後ろでずーーっと喋ってるキャストがいたので
(私はカーテンと客席の境目にいたので、
舞台裏のお喋りで気が散る感じがわかってどうしても気になった)
「ねぇ、お客さんに聞こえてるよ」
と言ったのですよ。

そしたら公演終了後、
「アヤが注意してくれたから私も言ってあげるけど、
第一幕のセリフ、もっと大きい声出さないと聞こえないよ。
あ、あとさぁ、他の子もみんな喋ってるよね?」

…………呆然。

舞台裏のお喋りを指摘された代わりに
演技の駄目出しを『してあげる』ってどういうこと...?
「他の子もみんな喋ってるよね?」って何!?
全然ポイントずれてないか???

まぁ確かに私の声が小さかったのかもしれないし
他人の批評を素直に受け入れられないのは
『自分の成長ここで終わり』って感じであまり好きではないのですが
それでも、なんかこればっかりは素直に聞けない。

こう言ってはナンだけど
リハーサルの取り組み方も、舞台に対する意識の持ち方も
遊び半分みたいな子ってたまにいて、
そういう態度が、真剣にやっている者には居心地悪いことって
結構あったりするのです。
ましてやそういう子に演技がどうのとか言われると
いかんとは思っても、さすがにちょっとムッとしてしまいます。
まぁ大学の演劇だから専攻の子ばっかりじゃないし、
仕方ないのかもしれないけど...。
だいたいお客さんに聞こえないほど小さい声だったら
演出家から何か言われるでしょ?
とか、どうしても思ってしまう。

単に私の心が狭いだけかもしれないけれど
批判って誰にどういうタイミングで言われるかってのも
結構重要なんだなぁ、と思ってしまいました。

*********************

3月5日(水)
Ash Wednesday。
ということで夕方に特別礼拝があり、
またまた Choir の出番なのですね。

水曜は一番授業がつまってる日なので
休む間もなくキャンパス中を行ったり来たりしてもう大変。
まぁとりあえず無事に済んでよかった。

礼拝はすごくよかったです。
まるで自画自賛ですが、Choir の声が教会に響き渡る瞬間って
たまにぞくぞくするぐらい感動します。
そんなときは曲が終わるごとに
先生がこっそり満面の笑みを見せてくれるので
やったぁ、って気分にもなるんだよね。

Ash Wednesday の礼拝に出たのは今年が初めてなのですが
何か灰みたいなので額に十字架を書いてもらいました。

夜、去年と今年の日本語の学生が二人で歩いているのに遭遇し
思わずそこで一時間ほど立ち話。
二人ともとてもよくできる学生で、
去年の子は一学期間日本に留学してたので
日本語やおかしな日本のポップカルチャーについて
いろいろ話して大笑い。

あ、あとアメリカとフランス文化についてもね。
(今年の学生はフランス語とスペイン語も話す)

そしてその学生の一人は
The Laramie Project のキャストの一人(セワニー外:山の下から来てる子)と
付き合い始めたらしい。
二人とも私の知ってる子で、
二人ともとてもいい子だから
なんだか自分のことのように嬉しくて
ついウキウキと幸せな気分になってしまいました。

*********************

3月2日(日)
第一日曜日。
ということで今日は午前の日曜礼拝に加え、
夕方にはクワイアーの Choral Evensong(讃美歌中心のコンサートみたいな礼拝)。
リハーサル・本番を合わせて
計4時間以上はクワイアーに捧げる日なのです。
ま、疲れると言えば疲れるけど、上手く歌えるとかなり気分いいから楽しい。
今週・来週はパフォーマンスウィークですね。

舞台を観に来てくれたクワイアーの子に
「テキサスアクセント、難しいのによくできたね」
と言われ、またまた嬉しくなる。
部屋ではしっかり発音とか訛りとか練習してたけど
舞台に立ってるときはその場でキャラクターが感じてることを優先して
あんまり発音とか気にしないことにしてたので
テキサス訛りに挑戦してるってことすら
お客さんに伝わってるかあやしいなぁ、と思ってたから
ちゃんと訛って聞こえてたんだ、ってね。

あと、日本人の子に
「存在感があってよかった」なんて
これまた嬉しい感想を頂きました。

『カッコーの巣の上で』という舞台を観たことが
演劇を本気で志すきっかけの一つになったのだけど、
そのときの役者さんで一番印象深かったのが
ほとんど舞台に立ってるだけだったんだけど
とても存在感のあった人。
(彼は寡黙なキャラでセリフが少な目だったけれど
役自体は主役級のとっても重要な役)
そのとき、『存在感』のある役者さんってすごいなぁ、と思って
彼のような存在感を身につけることが
舞台に立つときの最終目標の一つでもあったのです。

今回の私の役は、セリフも少な目で
物語の大筋に関わるような重要な役ではないのだけど
それでも「存在感があった」と言われるなんて
本当に嬉しいです。
まぁ、「小さい役でも自分で見所を作ってしまえ」ってことで
わざわざテキサス訛りに挑戦したってのも
ちょっとはあったのだけど。
だってさ、私が出てって普通に喋ってもつまらないでしょ?
意表をついて南部訛りとか話し始めたら
それだけで『特別な』役になるかなぁ、って企みも
実は少しはあったのです。

あ、やっぱり『日本人だ』ってこと利用してるのかね。こういうとこで。
ま、武器になるものは貪欲にとことん使ってやろう、って姿勢も
きっと時には大切。

クワイアーの合間に暗室に行って写真の仕上がりをチェック。
計10枚のプロジェクトだったんだけど
いつのまにか16枚もプリントしてたらしい。
絶対10枚以上はあるな、とは思ってたんだけど
そこまであるとは思わなかったよ。

今回のプロジェクトをまとめるテーマとして
冬休み中に亡くなった友人に触れることにしました。
彼は、本番中に舞台裏を撮影させてもらった二人芝居(『Village Wooing』)に
キャスティングされていて、
しかも舞台装置製作現場を撮影した 『The Laramie Project』 にも
絶対参加したであろう役者だったから。

彼が写ってる写真は、『Lysistrata』 の打ち上げの時ので
友達と話しながら笑ってる顔が鏡に写ってるもの。
もう “reflection” としてしか見ることができないんだなぁ、ってのが
なんだかすごく象徴的に思えたし、
そういう個人的な想い入れを抜きにしても芸術的に面白い写真だったので。
彼本人が写ってるのはその一枚だけで
他の写真はセットの製作風景や
本番前のメークアップ・セリフ合わせ・本番中の衣装替え・公演後の解散風景など。
でもそういう一つ一つの写真の中に
本来はその場にいたであろう彼の姿が浮かぶのです。
これも一つの『存在感』なのかしら。

なんか、あんなに疲れを感じず集中してプリントに没頭できたのって
これが “calling” というか “使命” だったからかも、
なんて気がちょっとだけしてしまいました。
このプロジェクトでいいものを作ることが
私自身にとってとても意味があるような気がするのです。
宗教的なこと言うようでちょっと気がひけるけれど、
『自分を越えたところで見えない力が働いて、導かれてた』感じ。
このプロジェクトは成功させるべき運命にあったのだなぁ、みたいな。
(まだきちんと発表してないから、必ずしも『成功』とは言い切れないのだけど)

最近気づいたことなのですが。
彼が亡くなって以来、友人に写真をプレゼントすることが増えたなぁ、と思う。
去年の春頃撮ったネガで、彼のすごくいい写真があって
何かあったらプリントしてあげよう、たぶん卒業式かな、とか思ってそのままにしていたら
結局その『何か』は彼のお葬式になってしまったのです。
あぁ、本人にも見てもらいたかったな、って後悔したことが
ずっと心にあるわけではないのだけど
気がついたら、思い立ったときにプリントして
特に理由がなくてもプレゼントしたっていいじゃない、
って考えるようになっていたみたい。

改めて一人の人間が生きていたこと、その人が亡くなったことが
周りの人間に与える影響って大きいなぁ、と
そんなことに想いを馳せてみました。

*********************

3月1日(土)
『The Laramie Project』、一週目終了。

今日の夜公演はすごかった。
カーテンコールの直前、舞台裏でキャストの一人が
「You did a very good job tonight. (今日、すごくよかったよ)」って
わざわざ言いに来てくれたんです。
終わったねーとか雑談してるときに “Good job”って
挨拶のように声を掛け合うことはよくあるけど
こんなふうに『わざわざ』言いに来てくれるだなんて、と
それだけでなんだかほわ〜んとあったかい気持ちになってしまいました。

と、カーテンコール前から既に気分はよかったのですが。
カーテンコールに出てみると、なんとスタンディングオベーション。
「ブラボー!」なんて声まで出てきたんです。
『ブラボー』だよ、『ブラボー』。

なんかすごく感動して、
それこそ “cheesy”(注:英語のページ参照)だけど胸がきゅ〜んとなって、
泣きそうなのに顔から笑いが消えないようなオカシナ感じ。
それは他のキャストも同じだったようで、
楽屋に戻るまで「ブラボー!」って言い合ったりしてハイテンションに。

さらに着替え終わってロビーに出て行くと
去年の日本語の学生が来ててくれて、
「前の公演を友達と観に来たのだけど、すごくよかったって言いたくて」だって。
しかも日本語で!!
(↑のセリフをそのまま言ったわけではないのだけど、
自分の教え子がほぼ完璧な日本語だけで
舞台の感想や自分の意見のような抽象的なことを伝えられるようになっただなんて、
それはそれで別の感動があるのです)

しかもメンフィスから来た、というお客さんには
プログラムにサインを頼まれたりして。
内輪(セワニー)以外の誰かがロビーで待ってて、
しかもサインを頼んでくれるだなんてプロの役者みたいじゃない??

ここまでの反響を目の当たりにして
有頂天にならずにはいられません。
誰かに仕組まれてるんじゃないかってぐらい
夢みたいな出来事が次々と立て続けに起こるんだもの。

そんなわけで、まだ気分が高揚してるのです。
セワニー最後の舞台で、他のキャストと全く区別されずに英語で演じ切って
そしてここまでのフィードバックが得られて。

やっててよかった。
...あ、部屋で一人になった今頃になって
なんか涙があふれてきたよ。

『うれしい』って言葉だけではくくれないような、
『感動』って言葉でもしっくりこないような、
いろんな想いがまじりあって、よくわからないけれど
すごく、すごく気持ちのよい夜です。

来週の公演もがんばろう。