10月1日〜10日までのひとりごと

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10月10日(木)
授業中に泣いてしまいました。
...とはいっても日本語じゃありませんよ、念のため。
プロ意識もってやってる以上、
さすがに学生の前では弱音をはいたり泣いたりはできません。
そうではなく、演劇史の授業中。

私の発言(というか質問)に対する先生の応答が
日本語訛りの英語をからかってる、ように、クラスメートには見えたらしい。
で、一人の子が教室内にちょっとおかしな沈黙が流れたのをそのままやり過ごせず、
しばらくしてから先生に
「そういう意図がなかったことを確認したい」と言ったわけです。
(先生には全く悪気がないし、訛りをからかうような人ではありません。
それは私も最初からわかってたし、発音矯正を指導してくれてるのも実はこの先生です)

私は、まぁ呑気といえば呑気なもんですが
その子がそういう発言をするまで
あの沈黙が自分の英語の所為だ、とは気づいてなかったので
(先生の応答自体がちょっと的外れだったからか、私の質問が的外れだったからだと思っていた)
その瞬間にはっとして、なんだかいたたまれなくなっちゃったのです。

表面的にはこの出来事だけが原因みたいで
先生やら発言した学生やらクラスメートやらをびっくりさせちゃったのですが。
誰の所為とかそういうことではなく、
強くあろうとすることに疲れちゃってたんだなぁ、と思います。

思えばこちらに来てから、ずっと言語面での壁に悩まされていたわけで。
日常生活にはほぼ支障ないとはいえ、
例えばこのHPに書いているようなことは、
英語ではどう頑張っても100%は伝えられないのです。
そういうことに対する、苛立ち。
思考レベルに言語が追いつかなくて、
上手く表現できないことのもどかしさ。

Lysistrata のリハーサルに対する苛立ちがつのってたのもあると思う。
まさに、それも言語の壁なわけで。
台本に『日本語訛りで』と書いてあろうがなかろうが
私の英語は訛ってるのです。役者として意図してやってるのではない。
そういうことへの、憤り。悔しさ。

そういうのが、なんだか一気に噴き出してきちゃったのです。

でもね。
『いい涙』と『悪い涙』ってあると思う。
今回のは、いい涙です。
心の中で我慢して我慢して冷たく固まってたものが溶け出して
ふーっと温かくなっていく感じ。浄化作用のような。
思い詰めて落ち込んでるわけではないので
妙な重苦しさがないのです。

強くあり続けるのは、疲れるのだと思う。
そりゃ、もとから『強い』人間だったら平気なのだろうけれど。
たぶん私はそうではない。
一応こちらでは先生としての顔も持ってるので
ちょっと強さを装っちゃってるようなところも、実際あるのかもしれない。
もともと毅然とした生き方に憧れているのかもしれない。
でも真に『強い』のとは違う。
何事にもへこたれないというよりは、
へこたれてもへこたれても、凛とした強さへの憧れを捨てられないで
その憧れをバネに生きてる気がする。

だから、たまには本来の『弱さ』に戻るのも必要なのだと思う。
幼稚園で班長さんとかやって、いい子で大人しくしてた子が
家に帰ってお母さんの膝枕で甘えてるような、
そんな安心感っていうのかな。
(別に普段から無理しているわけではないよ)

滅多に人前で泣いたりするタイプではないので
なんだかみんなすごく心配して気遣ってくれたりしたのですが。
泣いてる本人にしてみれば、実はそれほどオオゴトでもなく。
「あれれれれれ、なんで泣いてるんだろ、わたし」
みたいに、誰よりも自分が一番びっくりしてた気がする。
ま、一度溶け出しちゃったものは、
全部流れきるまで止まらないようです。
まさに『感情が理性に勝った瞬間』です。おめでとう。

なんだかバランスを取り戻してリフレッシュしたような
ちょっと心地よい気分です。
軽くなってゼロから再出発、という感じで
以前よりもずっと自然な感じで前向き、というか。
おかげで、かどうかはわかりませんが
今日の発音矯正には妙に熱が入りました。気持ちいい。

みんなには心配かけちゃったけどね。

それにしてもここの情報網はすごい。
午後には遠くに住む友人から気遣う電話がありました。
なんでもう知ってるのー!? とか思うとびっくり。

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10月9日(水)

あまりにも長くて入りきらなくなってしまったので
別のページになってます(↑)。
お暇ならどうぞ。(笑)
海外で不適切に使われる漢字と、それにまつわる話について、です。

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10月8日(火)
今日は Founder's Day Convocation というのがありました。
なんだろ...創立者記念日ってとこなのだろうか?

こういう式典がある度に、
やっぱここって特殊な世界だなぁと思う。
ガウンを着た教授陣が厳かに教会に列をなして入場し、
それに続いて『ガウンズマン』と呼ばれる、成績優秀な学生たち。
(『生徒会』みたいなものなんだろうか...?)
式典のうち重要な箇所はラテン語だったりする。
なんかすごい。

良くも悪くも“snobbish”なのだ。
いや、悪気があるわけではなく。
純粋に、『昔の貴族の生活』的雰囲気が漂ってたりするときがある。
ちょっと世間知らずというか。(← 私が言うかって感じだけど)
暗黙の了解の上に、みんなで大真面目に『上流階級ゲーム』をしているみたいで
なんだか滑稽な気がしてしまう。

ゲームというか、フィクションというか。
この場所だけで、脈々と途切れることなく続いていくお話。
登場人物は入れ替わるけど、
でもここは物語の世界なのだ。そんな気がする。

なんだか映画館でスクリーンを眺めているような。
そんな気分になるときがある。

映画の世界と現実世界。
そこでは違ったルールで物事が進んでいくわけで。
そのどちらもが『リアル』だったりするのだけど。
もう一年以上も滞在しているのに
いまだに『非日常感』があるのは、その所為かもしれない。
私はまだ『登場人物』に成りきっていないのだ。

すごく具体的に例えるなら、『今を生きる』。
あの映画の世界の中に紛れ込んじゃったような雰囲気が近いかもしれない。
閉じられたコミュニティー。そこだけのルール。世界。
まるで映画のテーマパークのような空間。
私はその中で、ときには登場人物でもあり、そして今だに観客でもある。
『外の世界』からやってきただけに
「おい、そりゃ違うでしょ」とか内心突っ込み入れながら
それで「ふふふ」と可笑しく思いながら
敢えてここのルールに則って生活するのを楽しんじゃってるようなところがある。

(そういえば、この大学が『今を生きる』のモデルになったとか、
どこかの建物が撮影に使われたとか、そんな話もあります。
そういうのも、まぁ、あり得るだろうな、って感じの大学です。
あの物語の中に流れている空気が、たまに似ている)

そういうのを自覚してかどうか
ここには『セワニーバブル』という言葉がある。
要は俗世間とはかけ離れた世界だってことを
半ば自嘲的に、でもちょっとは誇りに思いながら表現した言葉なのだと思う。
バブルの外からやって来た私は、言い得て妙な表現だなぁ、と関心してしまう。

バブルの中は特有のルールで成り立っている。
すごく善意に満ちたルールなので平和ボケしてしまうということを除けば、
そこがこの大学のいいとこなのかもしれないけど。
ぬるま湯の中に浸かっているような、
刺激はないけど慣れてしまえば心地よいような、そんな空気。

ふと思った。
ここの学生たち。
ここを巣立って外の世界に出たとき、何を思うのだろう。
きっとそのとき初めて
『セワニーバブル』の真の意味を、実感するのだろう。
私もここを発つときに、
バブル内での生活にいつしか染まっていた自分に気づくのかもしれない。

大学時代って、そんなものなのかもしれない。
私にとっても自分が学生として過ごした時間やキャンパスは
すごく大切なものだ。いざというときの拠り所のような。
在学中はあまり意識しなかったけれど
あれほどまでに自由で可能性に満ちた時空間というのは
特殊だったのかもしれない。
それはそれで、すごくリアルですごく大切なものだ。
でも、いつかはそこを後にして
別のルールの中で真の可能性が試されるときが来る。
そして、それは容赦ない『現実』だったりするのかもしれない。

映画はいつかは終わるものだから。
ぬるま湯から上がっても、湯冷めしなければいいね。
ガウンを羽織った学生たちを見ながら、ラテン語を聞きながら、
そんなことを思った。

なんだか今日の日記は我ながら陳腐な気がする。
でも本当にそう思っちゃったんだからしょうがない。

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10月7日(月)
なんだか最近慢性的に疲れているなぁと感じる。
なんというか、集中力に欠けるんですよね。
たまに倒れそうになったりとか。

こんなときは無性にレバーのフライが食べたくなったりする。
アメリカの食生活って、鉄分が不足しがちだ。
身体ってすごい。
何が必要か、ちゃんとわかってるんだなぁと思うと感心する。

それにしても、日本にいたときは
ここまで身体が特定の栄養素を欲したことなどなかったので
やっぱり日本の食習慣ってバランスいいのかな、と思う。

こちらに来てから、
無性に「肉」が食べたくなったり
甘いものが食べたくなったりすることがある。
甘いものとかむしろ苦手だったので
知らず知らずのうちに奇妙な化学物質が食べ物に混ざっていて
味覚がやられてきたんじゃなかろうかとか思うとコワイ。
さすがにそんなことないだろうけど、食品会社の陰謀とか。

「肉」ってのも、なんだか「狩猟民族」に染まってきたようで
帰る頃には野性化した私に会えるかもしれませんよ。

...と、そんな妄想じみた冗談はさておき。

こんなときはぐっすり眠るに限る。
今、身体に必要なもの。
鉄分と、睡眠と、日本語。

ということで、日記を書いて一眠りするのです。
目覚めたら演劇史のミッドだ。
目覚めが悪そ。

ま。それが済めば、秋休み。
Wal-Mart でレバーのフライでも買ってこよ。
で、鉄分補給して、しっかり眠って、写真のプリントするのです。

秋休みまで、あと4日。

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10月6日(日)
Choir として初めて日曜礼拝に参加。
しかも今日は第一日曜なので、夕方にコンサートみたいな礼拝まであった。
入って一週間も経たないうちにそんなの出ちゃっていいのか?
という感じですが。
うちのクワイアーは、私がいようがいまいが関係なく上手なので
気が楽といえば楽。
そして私ってばわからないとこを誤魔化すのが巧い。
そんなわけでちゃっかり唄うことの気持ちよさだけ味わっちゃいました。
来月はもっと貢献できるように頑張ろう。

それにしても、どういうわけか
私がクワイアーに入ったことを喜んでくれる人が多い。
ほめられると俄然やる気が出る単純なタイプなので
なんだかいいね、クワイアー。
とか思ってしまう。

ま、実際のところ
リハーサルで声を出すのが結構いい気分転換になってる気がする。

そして先生おもしろすぎ。
キャラがいい。音楽愛してますって感じ。
聖歌隊の指導にかなり燃えてます。
出だしが揃わない、とか私語が聞こえた、とか
ことある毎に
「おいおい。今ので私の貴重なリハーサルが10秒も無駄になっちゃったよ。頼むぜおい」
とか言ったりするんよ。
(「頼むぜおい」とは言ってないけど、そんな感じなのですよ)

そういう口癖とか
(注:みんな普通に流してるので別にこわくはない)
指揮してるときの表情とか、
なんか『アツイ』感じがたまりません。ハマッた。

リハーサルで先生のこと観察してるだけで
もう楽しくてたまりません。

で、ときどきキャンパスで
これまた声楽の先生をなさっている奥様と
仲良く手をつないで歩いてたりする。
カワイイなぁ。

二人ともすごくいい家庭で音楽一筋に育ったような雰囲気なので
家ではどんな会話をするんだろ、とか想像するのもまた楽しい。

クワイアー入ってよかった。

あ、ちゃんと歌の練習もしてますよ。念のため。

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10月5日(土)
今日は一日中、演劇史の中間試験に向けて勉強です。しんどい。
思えば私は今まで生きてきて好きだった歴史の授業って
大学時代の英語史しかない。
それで思わず英語専攻に決めちゃったんだから極端といえば極端なんだけど。
ぶっちゃけた話、それ以外の授業で面白い先生に当たったことがない、たぶん。
歴史に呪われた宿命のもとに生まれてきたとしか思えませんね。

...なんて、他人やら運命やらの所為にせずしっかり勉強します。はい。

教える立場になってわかったけど
「あの先生つまんないよねー」とか学生に文句言われるほど
ツライことはありません。きっと。(幸いなことにまだ言われてはいない)。
それどころか学生の出来が思わしくないというだけでもかなり心が痛むものです。
そしてそういうこと言う学生ほど勉強してなかったりするんだよねー。
反省。

今日アメリカ人の友人と電話で話していて、ふとしたことから
「私はクリスチャンである前に日本人だと思うよ」という話になった。
私の発言が仏教的だった、みたいなことからだったと思う。
(「生まれ変わったら...」みたいな、いわゆる輪廻転生の概念ね)

友人の反応。
「それはかなり offensive だと受け止められるから、他のアメリカ人に言っちゃ駄目だ」

そうだろうか...?

私には、どうもこれが『問題発言』だという意識がない。
25年間、日本人として育ってきた。
その間に築かれてきたアイデンティティーもある。
日本という、しかも Non-Christian home という環境で育ってきた以上、
やっぱり日本に根差す儒教やら仏教やらの思想も
人格形成の上でかなり重要な位置にあったのでは、と思う。
特に意識していたわけではないけれど。

一方、キリスト教が生活の中に入ってきたのなんて、せいぜいここ2-3年だ。
ICUに籍をおくことにならなければ、タイワークキャンプに参加しなければ、
宗教なんてものに触れることなく一生を終えていたかもしれない。極論だけど。
それなのにクリスチャンであることが日本人であることに取って代わる、
なんてことが起きる方が不自然、な気がするのだけどなぁ。
別に愛国主義とか、そういうことではなく。

洗礼を受けるということは、日本人としての個を放棄するわけではない。
それまでに築いたアイデンティティーの『枠組み』に
信仰という新たな要素を加える、というのが、
たぶん私にとっては一番近い考え方だったのではないかと思う。
いろんな概念が溶け合って個を築いてるわけで、
その中のどれか一つが他に取って代わるとか、
そういう排他的なものって、あり得ないのでは、と思う。

こういう『融合』みたいな考え方自体、日本的なのかもしれないけど。

アジアの国では、信仰よりも国民性の方がより強く人々に意識される傾向がある、
というリサーチ結果を聞いたことがある。
だから、欧米では考えられないような宗教間の結婚とか、普通にあるらしい。
どこの国に関してのレポートだったかは忘れてしまったけれど。
それを一緒に聞いていた、アメリカ人の教授達の驚いた様子が、
逆に私の眼には意外だった。

宗教とか信仰とかって
本来、排他的なものであってはならないような気がする。
「あの宗教の信者は理解できない、受け入れられない」
というのは、何か違う。
少なくとも私は、そう思う。

だから「クリスチャンである前に日本人だと思う」というのが
『問題発言』になっちゃうような空気って、なんだか危険だと思う。
アメリカの、特にこの辺の地域の多くの人は
「アメリカ人であることはクリスチャンであること」
みたいな環境で育ったのかもしれないから
こういう考え方って異端児っぽくなっちゃうのかもしれないけれど。

でもね。
こういう思想の違いが『offensive』だとみなされる、というのが
もしも本当に事実なら。
テロに対する報復攻撃だとか、その他諸々の諸外国・他宗教との対立だとか、
そういうのの発端って、こんなところにもあるのかな、
なんて気が、ちょっとだけしてしまった。

どうなんだろう。
こういう考え方って、敬虔ではないのかもしれないけれど。
信仰が他の要素を“take over”してないぶん
洗礼を受けた今でさえ、
たまに懐疑的だったり critical だったりするのかもしれない。
そして、これまた『問題発言』かもしれないけど
「頭の先から足の先まで信仰に身を捧げてます」
みたいな雰囲気は、今だにどうも苦手だったりするのかもしれない。

でも私はアメリカ人のクリスチャンの方々を
喜ばすために受洗したわけではないから
『offensiveに受け止められる』のを避けるために
日本人としての要素をしまい込んで
「何者でもある以前にクリスチャンです」みたいな振りをするのって
それこそ不誠実で違う気がする。

どうなんだろう。
私は100%敬虔な信者ではないかもしれないけど、
やっぱりクリスチャンとしての『要素』の存在や影響は否めない。
と同時に、確かに日本人だ。

で、最終的に私はワタシだよなぁ。
そう、思う。

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10月4日(金)
今日は Advanced Acting(演技上級)のクラスに
NYから David Kaplan というゲストスピーカーがやってきて
Story telling のワークショップがありました。

すごい。すごいよ。

細かい内容はいちいち書きませんが、すごく面白かった。
「開眼」って感じ。

自分が今まで築いてきた「枠組み」が組み替えられる瞬間って
その出会いが人であれ、ものであれ、出来事であれ、
ものすごく心地よい興奮がある、と思う。
今日のワークショップはそんな感じでした。
すごく刺激的でドキドキした。

そして、心底「プロだなぁ」というのが伝わってきて、
なんだか感動した。
「本当のプロ」は確信をもってると思う。
独り善がりでない確信。
自分が築いてきた「枠組み」を組み替える変化には柔軟で、
でも中心にはしっかりと自己を支える芯をもってる。
そんな気がします。
そういう人は、すごくかっこいい。

しっかりとした意識をもって歳を重ね、キャリアを重ねると
人はこんなにもかっこよくなれるのか、と思う。
すごく魅力的で、エネルギーがあふれている。

そんな人に出会うと、本当に幸せな気分になります。
これはやり過ごしてはいけない、
とことん吸収しなければならないエネルギーだ、と思うから。
そういう出会いをもてることは、本当に幸運なことだ。感謝。

そして役者にとっては
そんな「プロ」の演出家との出会いってすごく大切。
演出家至上主義、ということでは決してないけれど、
でも今日みたいなワークショップに参加すると
演出家のほんの一言で、同じセリフが、場面が、キャラクターが
ガラッと違ったものになる。
それまで見えていなかったものが急に明らかになって目の前に現れる。
そういうのは、まるで「演出の魔法」のようだと思う。
そんな場面に遭遇すると、本当にドキドキする。

そして今日思ったこともう一つ。
役者のトレーニングって、
きっとそんな場面に柔軟に対応できるように
「引き出し」をたくさん作っておくことなんじゃないかな。
「魔法」をかけやすい役者、かけにくい役者というのはきっとあって、
ちょっとした一言ですぐに変身できるような
そんな neutral で柔軟なしなやかさを身につけたいと思う。
素敵な「出会い」を逃さず、成長するために。

いや〜、それにしても今日はいい日だった。

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10月3日(木)
今日は先生の都合で写真の授業がキャンセルだったので
その時間を利用して HOLGA(プラスチックカメラ)で撮ったネガをプリントしました。
例のキノコはイマイチっぽかったので却下されちゃいましたが
何気なく撮った空の写真がなかなかよい感じ。

一眼レフとはまた違う面白さがあるな、と思います。
なんというか、予想外のイメージが撮れてたりするから。
で、きちんと撮れてるやつは一眼レフのよりも綺麗だったりする。
ネガが大きめなのでプリントしやすい、ってのもあるかもしれないけど。
ホント、新しい「玩具」が増えた感じ。

ちなみに今日から発音矯正の「個人レッスン」開始です。
そんな大したことしてるわけでなく、
毎週専門の知識のある先生のオフィスに行って指導してもらうってだけなのだけど。
でも弱点を克服するために何かを「している」という事実が
自信につながってコンプレックスが少しでも減らせれば万々歳。
そのためには継続してそれなりの努力をしなきゃね。

終わりそうでなかなか終わらないスランプ。
でもこれを乗り切れば、今年はなんとなく
いろんな面で成長できそうな予感がするので。
根拠は全くないのですが。

がんばろ。

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10月2日(水)
リハーサルをお休みしてしまった。
他のミーティングと重なった、というのもあるのだけど
なんとなく「ブレイク」が必要かなぁ、というのもあった。
リハーサルを優先することもできたのだけど
先生に許可をもらって、一日だけ離れてみることにした。

どうにも行き詰まって周りが見えなくなりそうなとき、
一日だけ、という期間限定で立ち止まって一息入れるのは意外と有効だ。
ふっと肩の力が抜けていろんな束縛がふっきれたり
ちょっとだけ、バランス感覚が取り戻せたりすることがあるから。

反面、行くべきはずのリハーサルに行っていない夜というのは
どことなく落ち着かないのも否めない。
明日からこの落ち着かなさを取り戻すべく
全力で取り組めるようになりたいものだ。
っていうか、全力で取り組みます。

日本語に関することだったらこうはいかないな、と思う。
そこがプロかどうかの違いなんだろうけど。

こういう息抜きができるのは、実はまだ「学生」である特権だ。
プロになるというのは、そういう甘えが許されなくなることだと思う。

例えば、日本語の授業だったら
どんなに行き詰まったって「今日は休講」ってわけにはいかない。
手を抜いて適当な授業をするわけにもいかない。

学生だったらテストの結果とか、授業の欠席とか
そういうのはほぼ全てが自己責任の範疇なのではないかと思う。
どんなにひどく失敗したって
それが他の人の人生に影響を及ぼすようなことって、滅多にない。

けど、プロとして働いていると。
授業の不出来や穴は、即学生の能力に影響するわけです。極論すればね。
それに、一応これでもプロとしての意地と責任とプライドもあるので。
どんなに弱っててもやっぱり日本語だけは
手を抜いたり逃げ出したりするわけにはいかないわけです。

そうなると、プロとしてやっていくためには
立ち止まらずに息抜きできるバランス感覚と
それ相当のリスクを背負う覚悟と意地とが必要になってくるのかな、と。
そう思う。

学生として大学において演技を学ぶというのは
ある意味、自分に適した選択だったのではないかと思う。
私は「安心できる環境」にないと、なかなか本来の能力を発揮できない。
「安心」というか、「自分はできる」という自信ですね。

日本で大学を卒業した時点の私には、
いきなりプロ意識をもって演技を続けられるほどの確信は、
残念ながらなかったような気がする。

今だからわかるんだけど。
漠然とした夢はあるけど、具体的なプランはない、というか。
夢をかなえる為に「何をすべき」ということがあまり見えてなくて
訳もなく焦りとか不安だとかを抱えてたりする。

そういう時は、私の場合は時機尚早であるケースがほとんどなのです。
一歩下がって、目の前にあるできることから一つずつ片付けていった方が
最終的にはずっと近道だったりするものだ、とわかってきた。
そうやって現実的にできることから手をつけて具体的に行動していくと
不思議といろんな出会いがあって、やるべきことが見えてきたりする。
そういうもんだ、と最近思います。

この2年間は、修行です。
大学という護られた組織の中で、
自分にはプロとしてのリスクを負うだけの力と覚悟があるのか、
それを見極める期間なのだと思う。
そしてそのための自信を養うために
できる限りのことをして自分の中に蓄えておく準備期間なのだとも。
そういう意味で、与えられた期間を精一杯有効に使わねば。

早くプロとして働きたい。
夏に一時帰国して、しっかり働いてる友人を見て、
強くそう思いました。

そして。

この歳になってまでこんな「準備期間」をサポートしてくれる親は
たぶん滅多にいません。
そういう意味でも、自分は本当に恵まれてると思う。
感謝せねば。

...なんて、ちょっと言ってみたくなっちゃった。
妙に長い独り言でしたね。

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10月1日(火)
Choir(聖歌隊)に入りました。
本当は学期の最初からじゃないと駄目らしいんだけど
交渉してみたら意外とすんなりと特例を認めてくれました。

うちの大学のクワイアーは結構本格的で
練習もほぼ毎日では、というくらいあるんだけど
何か始めたかったのです。

役者として、「歌え」と言われた時に
怖じ気づかないぞ、ぐらいにはなっていたいかな、というのと
いいボイストレーニングになるかな、というのと
あとはやっぱり、きちんと歌えると気持ちよさそうだな、というのと。

練習初日。
まだオタオタしてるけど、楽しかった。

夜は Lysistrata のリハーサル。
今日のシーンにも「日本語で即興」。
いわゆる、悪態をつくシーンです。

...できなかった。

演技の稽古とかの場面で「できない」と言い切ってしまうのは、
成長できるチャンスを放棄してるようでものすごく嫌なのだけど
でも、どうしてもどうしてもできなかった。

まず、悪態のつき方を知らない。
いい子ぶってるわけでなく、カマトトぶってるわけでもなく、
本当になんて言ったらいいのかわからない。
どんな言葉を遣えばいいのかすらわからない。
もともとのセリフがあってそれを訳せとか、
インチキでもいいから与えられたギリシャ語で悪態をつけ、だとか
そういうのならできるかもしれないけど、
日本語でゼロから言葉を紡ぎ出すのは絶望的に不可能だった。
どうせ誰にもわからないとはいえ
どう頑張っても子どものハッタリ程度にしか聞こえないのが情けなかった。

それに、私の中の何かが、悪態をつくという行為を徹底的に拒否していた。
芝居の中のことだから、「キャラクター」がすることだから、といくら説得しても
頑なに拒否している何かがあった。

なんだか哀しくて惨めな気分になった。
どうしても破れない殻がある、というのは
役者としては演技の幅を狭めることだから。

できるけどしないのと、できないからしないのとの間には
たぶん、天と地ほどの差がある。
悪態をつくという行為ですら、「しない」ということが、
他の選択肢も吟味し自分で納得して選んだ結果なのではなく
「できない」という限界から導かれたやむを得ない結果だった、
というのはやっぱり悔しい。

こういうのは、これから克服しなければならない課題だなぁと思う。
いざという場面で「破れない殻」をなくすこと。減らすこと。
少なくとも、納得いくまで挑戦できるようになること。

本気で演劇を続けたかったらリスクを負う勇気は、必要だ。
「好き」だけじゃやっていけないことって、
たぶん本気になればなるほど増えてくる。

自分にはまだその勇気が足りない。
今夜はそれが証明されてしまったようで
リハーサル後はなんだか泣きたい気分になった。
最近リハーサル後はいつもへこんでる。
こんなんじゃいかん。