冬休みのひとりごと

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12月20-21日(金/土)
昨日の夜、E-mailでセワニーの友人が亡くなったと聞いた。
帰省途中の車の事故だったそうだ。

彼は演劇専攻だったので
同じクラスをたくさん取ったし、 同じ舞台にも出たし、
個人的な話はしなかったけどすごく親切でいい人だった。

彼の故郷はダラス(テキサス)で、
私は休み中ダラス近くに住む元ルームメートの所に来ているから
私は事故のあった道を、彼より一日早く通っていたことになる。

最初にこの訃報を聞いたときは
悲しみが襲ってくるなんてことはなかった。
涙も出てこなかった。
何の感情もなく、ただ空っぽだった。

だって、信じられなかったのだ。
事故の現場を見たわけではなく
死に立ち会ったわけでもなく
たった一通のメールだけで
誰かの死を現実として受け入れるなんてこと、できるだろうか。

私にとって死はいつもこんな風にやってくる。
私の知らないところで、私の知らないうちに
いつのまにかその人はいなくなっていて
誰かが私に告げるのだ。
「あの人は、もう死んだんだよ」と。

それは親戚だったり、先輩だったり、友人の親だったりした。
同級生が亡くなったこともあったように思う。
いつも誰かの一言で
私の頭の中でその人は『しばらく会っていない人』から『もう二度と会えない人』へと
“振り分け”られなければならないのだ。
そのプロセスはどこか無機的というか現実味がなくて
TVや映画で見るような、悲しみに取り乱したり泣き崩れたりする心境とは
あまりにもかけ離れているような気がしてしまう。

月曜日には同じ期末試験を受けたのにな、と思った。
来学期も同じクラスを取るって言ってたのにな、とも思った。
そういういろんな思い出が、私に彼の死を受け入れることを拒ませた。
だって、生きてたんだもの。

「生きること」と「死ぬこと」がわからなくなった。
彼は4年生で年明けには卒業試験を控えていたから
頑張り屋さんで真面目な彼は、きっと一生懸命勉強していただろう。
彼が死の直前まで費やしていた時間は、努力は、
一体何の為だったのだろう。
誰でも明日死ぬかもしれないんだ、って
当たり前なんだけど今更のように気がついた、気がした。

一夜明けて、いつもと同じようにベッドの中で目を覚まし、
そういえば彼は死んだのだった、と思い出した。
お葬式に着て行く黒い服を買わなくちゃ、とか
ご両親に何て言えばいいのだろう、とか
そんな現実的なことを考えていたら急に涙が出てきた。
昨日まで「彼は生きている」と主張していたいろんな場面が
段々と「故人の思い出」になりつつあるのを感じた。
知らぬ間に自分の中で起こっていた、その変化が悲しかった。

テキサスの夕日は綺麗だった。
西に向かって運転するから
黄金色の夕日と
橙色、桃色、水色とグラデーションのようになった広大な空と
その光を反射して浮かび上がる雲とが
まるで現実のものとは思えないくらい綺麗だったのだ。
神々しくて吸い込まれそうで、私は息を呑んだままドキドキして目が離せなかった。
「テキサスは美しい空で有名なんだよ」と
運転している友達が誇らしげに言っていた。

彼は最期に故郷のあの空を見ただろうか。
そんなことが、ふと気になった。