「出会い」
チェンマイ郊外にある山岳民族の子ども達のための
Children's Center で出会った男の子の写真です。
『I Am Here ‐僕はここだよ』
どうやら突然の訪問者だった私は彼の興味を引いたようだった。
私も何故だか最初から彼のことが気になってたまらなかった。
初めて会った瞬間に「あ、この人と仲良くなりたい」と感じて
こちらから話しかけようか、
むこうから話しかけてはくれないだろうかと
タイミングを探りながらちらちらと好意的な視線を送り続ける、
あの感じだ。
その感じが私と彼の間にはあった。
(まるで恋の始まりのようですが、
恋人候補になり得る異性との出会いに限らず
そういうことってありません?)
もちろん、一ヶ月のタイ語学習歴と
「おぼうじゃ」以外のラフ語を知らない私には
話しかけるなんて選択肢は残念ながらなかったのだけれど。
とにかく彼は私の興味を引いた。
そして私も彼の興味を引いたようだった。
カメラを向けるといたずらっ子の微笑みで隠れてしまうのだが
数秒もするとまたひょこっと顔をのぞかせて
にこにこしながら再び私がカメラを向けるのを待っていた。
出会った瞬間から、彼の発する「何か」に私は惹かれていた。
それが何なのか、うすうす気づいてはいた。
独りだったのだ。
彼は、独りだった。
私の背後では他の子ども達が
みなでワールドカップの真似事をしながら
一心不乱にボールを追いかけていた。
でも彼の視線の先には
歓声をあげながら遊ぶ子ども達ではなく、私がいた。
遊びの輪に加わっていない孤独とか
そんなものでは決してなく、
でも現実として彼は独りの世界で生きている。
そんな気がした。
その頃にはもうすっかり彼から目が離せなくなっていた。
そしてなぜだか無性に抱き締めたい気分でいっぱいだった。
それと前後して彼には「親」がいないことを知った。
母親が亡くなり、父親は彼の面倒をみることができず
そしてここにいるのだと聞かされた。
Children's Center は孤児院ではない。
学校に通うために親元を離れている子ども達の共同生活施設、
というのが私の理解だ。
つまり村に帰れば家族がいる子ども達の寮みたいなものなのだろう。
でも、彼は、「独り」だった。
その事実を知り、何ともいえない複雑な気分になった。
こんな時、いつも私はどうしていいかわからなくなる。
私は彼の親ではなかったし、親になることもできなかったし、
ましてや「親の愛」を差し出すこともできなかった。
「同情」するのも違う気がした。
どんなを顔していればいいのか、
どんなことを感じていればいいのか、
それすらわからない気がして途方にくれた。
こんなとき言葉は無力だ。
タイ語もラフ語も知らなくてよかったと思う。
知っていたら彼にかける言葉を探してしまっただろう。
何の慰めにも解決にもならないとわかってはいたとしても。
さっきからずっとこうしたかったのだ、と気がついて
なんとなく彼の隣に座りそっと肩に手をまわしたけれど
でも「彼に触れている」とは思えなかった。
彼の世界に私は届かないのだ、と思った。
私はその瞬間、無力で気まぐれな一時の訪問者にすぎなかった。
途方にくれた訪問者の前で
彼は変わらず無垢で、魅力的で、強かった。
その小さな身体から発せられる凛とした空気が眩しかった。
自分がどこかちっぽけに思えて
彼や彼のような子ども達と関わっていくことができるような
しっかりした人間になりたいと思った。
彼の世界に追いつきたいと思った。
今頃何をしているんだろう。
(2002.12.15.)
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