人物データ

アーセン・ベンゲル  1949/10/21
フランス・ストラスブール生まれ。
フランス1部ナンシー、モナコ監督を経て95-96年名古屋監督。低迷していたチームを天皇杯優勝に導いた。96年9月にイングランド・プレミアシップのアーセナル監督に就任。97-98年リーグ優勝、FA(イングランド協会)杯の2冠達成。2001-02年も2冠を獲得し、欧州最優秀監督に選ばれた。

赤松円心 1277-1350
現在上郡町といわれる地域は、古代山陽道が走り、東西南北に通じる交通の要衝であった。人々の交流、物資の輸送などが広がり、他国(特に瀬戸内沿岸地方)との重要な拠点であったといえる。もちろん土地自体も千種川のおかげで肥沃、山地からの所産物にも恵まれていた。伝承によると、ここ「赤松村」にひとりの地頭代官が送り込まれたといわれている。佐用荘の地頭職山田則景の四男、家範である。彼はこの地で名前を「赤松」と変える。地名から名前をとるというのは当時の有力な豪族の常識であったようだ。そしてこの家からひとりの英雄が登場する。それが赤松則村(円心)、赤松家の四代目である。
平家を滅ぼして鎌倉に幕府を開いた源氏も長く続かず、27年後(1219)には北条氏の執権政治になった。それから半世紀を過ぎた1274年と1281年に、中国から元軍が博多に二度侵攻してきた。武士の奮戦でこれを水際で防ぎ、国難を乗り越えた。しかし鎌倉幕府は御家人(将軍と主従関係の武士)に恩賞を与える財源がなかった。幕府は徳政令(借金の棒引き)で御家人を助けようとしたがかえって信用を失い、国内の治安が乱れた。後醍醐天皇は天皇の親政をめざして末期症状の鎌倉幕府の打倒を図った。
赤穂・佐用地方の豪族である赤松円心は、治世に心がけ住民の信頼を集めていた。また中央に打ってでる機会をうかがう情報の収集につとめ、三男の則祐を天皇の皇子・護良親王(もりながしんのう)に仕えさせていた。倒幕計画がもれて後醍醐天皇は幕府に追われ奈良の笠置山に逃れたが、捕えられて隠岐の島へ流された。
護良親王は「天皇を隠岐に流した北条氏を討つべきだ」と、全国に命令した。その追書に1333年2月に赤松城に集まれと、あった。
そこでまず円心は、播磨国・佐用庄(さようしょう:佐用郡と赤穂郡一帯)の苔縄山(こけなわやま)に城砦を構え、同志を募った。
その勢威は徐々に近隣に及び、播磨国中から武士達が集まってきて、間もなく1千余騎にまで膨張した。
やがて、杉坂と山の里の2か所に関所を置き、山陽・山陰の両道の通行を遮断したので、これ以降、中国地方の交通は滞ってしまい、六波羅庁からの催促に従う西方諸国の軍勢が上洛できなくなってしまった。
そうこうするうちに、千ハ破城に手をやいて幕府側の京都の守りがすっかり手薄になってしまっている、との情報を得て、赤松円心は播磨国(兵庫県西部)苔縄(こけなわ)の城からうって出て、山陽・山陰両道を塞ぎ、山里(やまのさと:兵庫県赤穂郡)と梨原(なしがはら:兵庫県赤穂郡)の中間地点に布陣した。
一方、備前(びぜん:岡山県東部)・備中(びっちゅう:岡山県西部)・備後(びんご:広島県東部)・安芸(あき:広島県西部)・周防(すおう:山口県南部)の5か国の軍勢が六波羅庁からの催促に従って京都へ向かった。軍勢は三石(みついし:岡山県和気郡)の宿に集合し、山里の赤松軍を追い払ってそこを通過しようとした。それを、赤松弥五郎(円心の次男)は舟坂山(兵庫県赤穂郡と岡山県和気郡の境界にある)で防ぎ止め、主立った者20余を生け捕りにした。弥五郎は彼らを殺さずに情け深く遇したので、伊東惟群はその恩に感じて、鎌倉方への忠誠を捨て、赤松軍への合力を決意、自らの館の上にある三石山に城を構え、やがて熊山(岡山県赤磐郡)まで移動して挙兵した。備前国守護・加治源二郎はこれに対抗するもただ一戦にて破られ、児島方面(岡山県玉野市)に逃走した。これよりは西方の道はいよいよ塞がれ、中国地方の動乱ただならぬ情勢となってきた。
西国から上洛してくる軍勢を伊東惟群に防ぎ止めさせて後顧の憂いが無くなった赤松円心は、やがて高田兵庫助の城を攻め落とし、片時も足を休める事なく山陽道を京都へ向かって攻め上っていく。その途上、軍勢は見る見る膨張し、まもなく7000余となった。兵庫港(神戸市)の北方、摩耶山(まやさん)にある寺を城郭としてそこにひとまず落ち着いた。かくして円心は京都からわずか20里の地点まで迫ったのであった。
摩耶山や山崎で苦戦したが、北から足利軍、南から千種軍とともに六波羅を攻め落とした。鎌倉も新田義貞の攻撃で幕府は滅んだ。
後醍醐天皇による建武の新政がはじまったが、恩賞は公家に多く不公平なもの。天皇の后が自分の生んだ皇子を皇太子にするために、護良親王も捕えられ鎌倉に幽閉された。
新政に不満をもつものが足利尊氏を中心に集まり、新田、楠木など天皇方の武士と戦いになった。足利方の戦局は悪くなり、円心は尊氏に次の提案をした。九州で兵を集めて戦力を増強する。前の天皇(光厳上皇)の命令により、新田軍を討つという二点だった。新田軍の足利追討を播磨で留めて、白旗城合戦を円心は50日間守り抜いた。足利軍はこの間に九州で兵を集めて京都をめざした。新田軍が白旗城の囲みを引き上げてから七日後に、足利十万と楠木軍との湊川合戦となった。京都に入った足利尊氏は新たに光明天皇(光厳上皇の弟)をたて、 1338年に室町幕府をひらいた。
円心はその活躍が讃えられて播磨守護職に任命され、まさしく「播磨の円心」となったのである。

赤松満祐 あかまつ‐みつすけ 1373-1441一説に1381-1441
室町中期の武将。播磨・備前・美作の守護。足利義教を自邸に招いて殺し播磨に走ったが、山名持豊(宗全)らに攻められて自刃。嘉吉(かきつ)の乱。

足利尊氏 あしかが‐たかうじ 1305-1358
室町幕府初代将軍(在職1338〜1358)。初め高氏。後醍醐天皇の1字を賜って尊氏と称した。元弘の乱に六波羅を陥れて建武新政のきっかけをつくったが、のち叛いて光明天皇を擁立し、征夷大将軍となり、室町幕府を開いた。

榎本武揚 えのもと‐たけあき 1836-1908
政治家。通称、釜次郎。号、梁川。江戸生れの幕臣。長崎の海軍伝習所に学び、オランダに留学、帰国して海軍副総裁。戊辰戦争で、箱館五稜郭に拠って官軍に抗したが間もなく降伏。のち駐露公使としてロシアと樺太・千島交換条約を結ぶ。諸大臣を歴任。子爵。

大鳥圭介 おおとり‐けいすけ 1832-1911
幕末・明治期の政治家。播磨出身。蘭学・兵学を学び、幕府に用いられ、歩兵奉行。戊辰戦争では榎本武揚らと箱館五稜郭に拠ったが敗れて帰順。日清戦争勃発の際、清国兼朝鮮公使。男爵。

大村益次郎 おおむら‐ますじろう 1825-1869
陸軍の創立者。初め村田蔵六と称。周防出身。緒方洪庵に蘭学・医学を学ぶ。長州藩の軍事指導者として長州征討・戊辰戦争に活躍。1869年(明治2)兵部大輔。フランス式軍制を採用し、近代軍隊の創出を進めたが、守旧派により暗殺。

緒方洪庵 1810-1863
1810年7月14日生まれ
幕末期の蘭学者であり、備中の人。医者でもあった緒方洪庵は、江戸で坪井信道・宇田川榛斎に学んだ後、長崎に遊学。
その後、天保9年(1838年)大阪に医業を開き、蘭学塾「適塾」を開く。のち幕府に招かれ、法眼・奥医師兼西洋医学所頭取。
適塾からは、大村益次郎・橋本左内・大鳥圭介・福沢諭吉など、新時代の政治や経済、文化や教育などを担う多数の人材が輩出。
著訳書「病学通論」「扶氏経験遺訓」など。

後醍醐天皇 ごだいご‐てんのう (在位1318〜1339) 1288-1339
鎌倉末期・南北朝時代の天皇。後宇多天皇の第2皇子。名は尊治(たかはる)。親政を志し、北条氏を滅ぼして建武新政を成就。間もなく足利尊氏の離反により吉野入りし、南朝を樹立したが、失意の間に没す。

高橋尚子 たかはし・なおこ 1972/05/06
岐阜市生まれ。163センチ、45キロ。藍川東中から陸上を始め、県岐阜商高、大阪学院大時代はまったく無名だった。
同大4年の夏に、当時リクルートで指導していた小出監督のもとに押しかけ、同陸上部入部を直訴。95年4月にリクルート入社。97年4月に小出監督と積水化学移籍。
マラソン2度目の98年名古屋国際で当時日本最高の2時間25分48秒で優勝し、同年バンコク・アジア大会は2時間21分4秒の日本最高で制覇。2000年のシドニー五輪で日本陸上女子初の金メダルを獲得し、国民栄誉賞も受賞。
第28回ベルリン・マラソン(2001/09/30)で史上初めて2時間20分の壁を破る2時間19分46秒の世界最高記録で優勝。
 ニックネーム 新入部員歓迎会で「おばけのQ太郎」のふん装でテーマ曲を踊ったのが大受け。以来「Qちゃん」に。
 プロ転向 積水化学所属のまま、CM出演など商業活動ができる権利を取得。
 家族 父・良明さん(59)=岐阜県関市立金竜小学校校長=、母・滋子さん(59)、兄・哲朗さん(30)=会社員=。

新田義貞 にった‐よしさだ 1301-1338
南北朝時代の武将。1333年(正慶2)鎌倉に入って北条氏を滅ぼし、左兵衛督に任ぜられる。36年足利尊氏を九州に走らせたが、東上した尊氏を兵庫に防いで敗れる。恒良(つねよし)親王・尊良親王を奉じて越前金崎城に拠るが、陥落。再挙をはかったが藤島に戦死。

橋本左内 はしもと‐さない 1834-1859
幕末の志士。福井藩士。号は景岳。緒方洪庵らに蘭学・医学を学び、藩の洋学を振興。藩主松平慶永に認められて藩政革新に当る。将軍継嗣問題で慶喜(よしのぶ)擁立に尽力、安政の獄に座し斬罪。著「啓発録」など。

福沢諭吉 ふくざわ‐ゆきち 1834-1901
思想家・教育家。豊前中津藩士の子。緒方洪庵に蘭学を学び、江戸に洋学塾を開く。幕府に用いられ、その使節に随行して3回欧米に渡る。維新後は、政府に仕えず民間で活動、1868年(慶応4)塾を慶応義塾と改名。明六社にも参加。82年(明治15)「時事新報」を創刊。独立自尊と実学を鼓吹。のち脱亜入欧・官民調和を唱える。著「西洋事情」「世界国尽」「学問のすゝめ」「文明論之概略」「脱亜論」「福翁自伝」など。

ポール・デスモンド 1924/11/25
サンフランシスコ生まれ。
1951年(27歳)から参加したデイブ・ブルーベック・カルテット(D.B.Q)での一員として有名。ブルーベックとはその後16年間一緒にプレイする。独特のクリアーで柔らかいトーンのアルトサックスとブルーベックの無骨なピアノが独特の味わいを出し、、ウェスト・コースト・ジャズを大いに盛り上げました。
D.B.Qで一番売れたのが『テイク・ファイブ』という4分の5拍子の曲で、この曲はジャズの世界で最も売れた曲ともいわれていますが、その作曲者がこのポール・デスモンド。
この曲のタイトルには、「ちょっと休憩を5分とろうぜ」と、「タイム(拍子)をアウトさせて5拍子の曲をやろうぜ」といった二重の意味が込められている。
D.B.Qを独立後は 71年にMJQとのコンサート、75年にジム・ホールとのカルテットなどで演奏をし、72、73、75年にはD.B.Qで日本に来てもいる。
1977年5月30日ガンのためNYで死去。

護良親王 もりなが-しんのう もりよし‐しんのう 1308-1335
後醍醐天皇の皇子。落飾して尊雲と称し大塔宮といい、天台座主。討幕を計り還俗、奈良・吉野・高野に潜行。諸国に令旨を発して建武新政を招来。征夷大将軍に任ぜられたが、のち足利尊氏のために鎌倉に幽閉、足利直義の臣、淵辺義博に殺された。

レイ・ブラウン
米ジャズ界の巨匠として有名なベース奏者のレイ・ブラウンさんが2002/7/2(日本時間3日)米インディアナ州インディアナポリスで死去。75歳。死因は明らかにされていない。
ペンシルベニア州ピッツバーグ出身。1940年代にディジー・ガレスピーやチャーリー・パーカーらとの共演で脚光を浴びた。歌手のエラ・フィッツジェラルドと結婚して話題となったが、その後離婚。50年代にはオスカー・ピーターソン・トリオの活動に参加、高度な技術に裏打ちされた表情豊かな演奏で名ベーシストとしての地位を確立した。日本にも度々訪れて、北村英治らと共演した。
 代表的なアルバムにレイ・ブラウン・トリオによる「レイ・ブラウン&ザ・サックス・プレイヤーズ」や「ドント・ゲット・サッシー」などがある。
 ジャズミュージシャン渡辺貞夫(69)語る。「阪神大震災の翌年の96年にメモリアルコンサートで共演したのが最後になった。ぼくがジャズ奏者になる道を選んだ時から今日まで、レイは偉大な先輩であり続けた。丁寧な演奏を心がけ、音楽を支える役目をいつもしっかり果たしていました。誠実な人柄で「健康」の代名詞のような人だったのに。残念です」。