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大抵は当たり前すぎて忘れられていることであるが、写真を撮影するとは差し当たっては「覗くこと」である。
筆者にとって、写真撮影の楽しさは世界と自分との間にファインダーを置く事で、自己を世界との関係性から一時的に抜け出させるところにある。ファインダーを覗くとき、人は世界に対して自己をその世界の外部に位置付ける。撮影者は世界に対して第三者となる。撮影者は撮影する世界から隔離されている。
撮影という行為に必要不可欠なもの、それは「距離」である。撮影という行為は根本的に撮影者と被写体の間に距離を、即ち「隔離/遠ざかり」を要求するものである。被写体との距離がゼロであるとき、端的に撮影は不可能となる。
そもそも「覗く」という行為そのものは、覗く者と覗かれる者の間にある種の不均衡をもたらさずにはおかない。覗かれる者には覗く者の存在が隠蔽されているのであり、そこには「見詰め合う」という対等な関係性はない。対等な関係性がないからこそ、覗きという行為が場合によっては犯罪になりうるのである。覗く者は「隠蔽/匿名性」のうちで安らぎつつ一方的に世界を見ているのであり、見られている世界に関与することはない。覗きという行為になんらかの快楽があるとすれば、それは主体が「隠蔽/匿名性」によって自己の責任からいったんは開放されるからにほかならない。
「覗くこと」は「盗み見る」ことでもあるが、その際に「盗まれているもの」こそ相互通行の交流である。盗み見るとは「一方的に見ている」のであり、その「見ていること」が周囲から隠蔽されているということである。
いずれにせよ「覗くこと」は本質的に自己を世界から「除くこと」にほかならない。従って「覗くこと」は本質的に孤立することである。
その昔、人々が「写真に撮られると魂を取られてしまう」と恐れたというエピソードを迷信として無視することは出来ない。むしろ、「魂を取られる」という言葉には撮影という事態への本質的かつ正確な洞察があったと言わねばならない。「撮ること」は「相互コミュニケーション」を無視するものであって、その意味において魂を「取る」すなわち「盗る」ことであるのだから。
撮影行為はしばしば英語の「shoot」と結びつけられ、そのせいか射撃との類比で語られるが、撮影とはまず何よりも盗みとの類比で語られなければならない。たとえそれが被写体から了解をとったポートレートであっても、である。撮影者と被写体の間には大きく深い溝が横たわっており、両者の関係性はコミュニケーティヴなものではありえない。
撮影者は被写体を覗いているのであって、決して「見ている」のではない。覗くことは「日常的に見ること」の非常に特殊な派生態であって、両者に共通するのはそれが視覚、視点に関係しているということぐらいしかない。そもそも「見ること」は「世界の内で見ること」であるのに対して、「覗くこと」は「世界の外から/自己を世界にとって外部化させつつ」見ることであるのだ。
・・・・などとつらつら書いているが、実際の撮影ではこんなことは考えてない。いいものが撮れたらラッキー、ただそれだけである。
2002年09月04日 14時08分53秒
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