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ヴィム・ヴェンダースの代表作「ベルリン天使の詩」はいたって単純な物語で出来上がっている。すなわち、永久に傍観者である事を義務付けられた天使が人間の女性に恋をしてしまい、天使から人間になる、即ち傍観者から当事者になる、ただそれだけの話である。(因みに天使から人間への移行はモノクローム映像からカラー映像への移行で表現されている)
このシンプル極まりない物語はしかし、「映画そのものの欲望」を明快に浮かび上がらせている。「映画の欲望」、それは「映画への欲望」ではない。映画自身が映画に対して抱く「映画の欲望」について少し説明しよう。
フランスのリュミエール兄弟によって初めて民衆に映画が公開されたとき、人々は画面奥から近づいてくる汽車の映像に驚き、慌てて上映場所から逃げ出したという。観客はスクリーン上の映像を現実と混同したわけである。これこそが映画の誕生の瞬間であり、また同時にその後の映画の到達すべき理想郷である。つまり観客が映画を現実と混同すること、観客の属する世界とスクリーンに映し出された世界との境界線が消滅すること、観客がスクリーンに映し出された映像に対して「当事者」であること。それがリュミエール以降の映画の欲望であり、リュミエール兄弟以外には誰一人として為しえなかった奇跡である。
これはしかし、かなわぬ夢である。観客はスクリーンの中の出来事が現実ではないことを知ってしまったのであり、最早機関車が迫ってきても席を立つものはいない。観客は自分たちが画面内部の出来事に対して「傍観者」であることを自覚してしまっているのである。観客は自分達が傍観者であることに安らぎつつ、しかもなお傍観者であることにうんざりしてもいる。
永遠の傍観者であるという点で、ヴェンダースの天使は映画館の観客という存在に似ている。
登場人物(人間)たちの独白が天使/観客には聞こえる。様々な人間が様々に自己を見ており、そこから自己に対して「当事者でありながら傍観者でもある」という分裂した人間の有り方が浮かび上がる。
天使の恋する相手がサーカスの団員であることも興味深い。サーカスとは映画と同様観客を楽しませる非日常的エンターテイメントであるが、映画とは異なり、観客は団員たちと同一の時空を共有するのであり、傍観者たる観客は同時に当事者たらざるを得ないという側面がある。サーカス的曲芸は、そこに「失敗するかもしれない」という要素が必ず潜んでおり、それが観客をもその場の当事者たらしめる。ひょっとすると映画はサーカスに嫉妬するものなのかもしれない。フェリーニがよくサーカスや見世物を映画で再現したのはそのためだろうか。
映画の冒頭、ブルーノ・ガンツによる詩の朗読がある。その最初のフレーズは「子供が子供だったころ」で始まる。子供、それは大人のように主客がはっきりと分けられていない状態にある。そして何より重要なのは、子供は基本的に自分に対して「当事者」であって「傍観者」ではないということである。つまり子供は自己を客観視しないものである。自己を客観視できるようになったとき、子供は子供ではなくなってゆくのだ。子供はスクリーン上の映像と現実を大人のようにはっきりと区別できず、混同する。そのような子供のありようにヴェンダースが思いをはせているのは、彼が自己を純然たる「当事者」ではないと自覚しているからであろう。
この映画は明らかにリュミエール的映画への郷愁に満ちている。
映画の欲望、すなわち「観客を当事者へと引きずり込みたい」という欲望は、実は人間自身の欲望、すなわち「自己に対して純然なる当事者でありたい」という欲望と重なり合う。そしてそれはまた天使の抱く「当事者」への欲望とも重なっている。映画、人間、天使の欲望が目に見えない形で、重層的に重なり合うところにこの映画の醍醐味がある。
「ベルリン・天使の詩」が「映画による映画論」であるのは言うまでもないが、それが同時に「人間論」でもあり得ているがゆえに、ヴェンダースは現代最高の映画監督であるのだ。たとえ、どれだけ失敗作を作ろうとも。
2002年10月04日 09時44分00秒
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