記録者注
2003年12月12日は小津の生誕100周年記念である。そこで天界より小津安二郎を招いての記念講演が東京ドームで行われた。盛況のうちに終わった5万人の聴衆を集めての講演の記録をここに掲載する。
<はじめに>
ええ、みなさん、はじめまして。小津です。ああ、どうもどうも。ありがたうございます。本日はこんなに大勢の方にお集まりいただきまして、本当にありがたうございます。こちらには久々にやつてまいりまして少なからず緊張しております。
あの、今年は「生誕百年を記念して」といふやうなことで色々と私の関連商品が発売されてゐるやうで、死後40年を経過しておりますのに、誠にありがたいことであります。生前はいろいろと言はれました私の映画も最近では芸術といふことになつてきてゐるやうで何やらこそばゆいやうな、気恥ずかしいところもありますが、さういふ評価に頓着せずに映画を楽しんでいただければと思つてゐます。
さて本日お話いたしますのは、作者による自作品の解説といふことであります。人前で話すのは久しぶりでして、うまくいきますかだうか大変心許ないんですけれど、しばらくお付き合いください。私は学者先生ではありませんので、話があちらこちらに飛んでしまふやうなこともあるかもしれませんが、そこのところはご容赦くださいますやうお願いいたします。
さて、私の作品に関するいろいろな書籍に目を通しておりますと、だうも私の作品はローアングル、或ひは固定カメラ、といふやうな事柄ばかりが注目されてゐるやうですね。しかしですね、作者としては、さういふ観点で自分の作品を皆様にご覧頂くのは何やら寂しいものあるといふのが本当のところです。
作品そのものより「だう撮影したか」が注目されてゐるといふのはだう考へても健康な状態ではありません。音楽家の奏でる音よりも奏法に目が向けられてゐるのと同じことですから。出された料理の味よりも調理法に目が向いてゐる、さういふアベコベな状態です。
私がこちらに、といふことはつまりそちら側から云へば「あの世」ですけれども、とにかくこちらに参つて40年ほどが経過してしまつたわけですが、その間に「撮影方法」にしか関心が向けられなくなつてきたといふのは、実に、まあ作家としてはさみしいんですね。できればですね、私に関する書物だとか情報だとか、さういふものを経過せずに、真っ白な心持ちで映画を見てもらいたい。単純に見る、単に、そして自由に見る。それが皆さんへの私からのお願いです。
<ある通りに描く>
なんであれ作品といふものは完成してしまへば作者の手を離れてしまふのですし仕方がないのですが、世間の偉い先生方がですね、「小津は生涯を通じて家族といふもののゆるやかな崩壊を哀感をにじませつつ描いた」などと書いておられるのを見ますとね、やはり作者としましてはですね、ちよつとまつてくれよ、といふ。ね、さういふ部分があるわけです。
私の作品を楽しまれた方ならばある程度実感されておられるかもしれませんけれど、私が描く「家族」というものは別に大騒ぎするほど崩壊しておりません。ただあるがままを描いてゐるんです。それを偉い先生方が「崩壊」と書くのは、まあ自由ですけれども、はなから家族といふものにある先入観を持たれてゐるのかなあ、とさう思うんですね。そもそも「あるべき家族の姿」といふ観念が抽象ぢやないか、と、まあさう云ひたい訳なんです、私は。
いやまあ確かに自分で「これは家族の崩壊を描いた映画だ」と云つたことはありますよ、取材かなにかで。ええ。ま、それも若気の至りといいますか。まあ本当の所を云ひますとね、この世にはこちらの、つまり作り手の思惑を超へる作品といふものがあるんですね。
皆さんから過大な評価を頂いております「東京物語」でもあるいは「秋刀魚の味」でも、あれは決して「家族の崩壊」だけが主題ではないんですね。恐らく偉い先生方は「家族」といふものを「お互い理解しあつた、強い絆で結ばれた運命共同体」といふやうな、なんと申しますかある種ナイーヴな理解をされてゐるのではないでせうか。
実際のところ私がやりたかつたことはですね、家族とその日常をあるとおりに描く、といふことだつたんですね。仏教の言葉に如実知見といふのがあります。あるものをある通りに、まつすぐに見る、といふことです。別の言葉では正見とも申します。読んで字の如く、正しく見るといふことですね。この正見ということを、まあ映画として追求したかつたんですね。
それと同時にいい絵を撮りたい、とさういふ思ひも強かつたですね。映画監督ですから。自分が美しいと思ふ絵さへ撮れたら方法はだうでもよかつたのです。日常をある通りに撮りたいといふ思ひと日常を出来るだけ美しく撮りたいといふ思ひが非常に、かう、なんと云ひますか葛藤しておつたですね、内心は。ですので、結局のところ「あるがままに」といふ部分は役者の演技と脚本に支点をおきましてね、「美しく」といふ部分は映像すべてですね、それをまあ完璧にしたいと。さう思つたわけです。
ちよつと今絵の話が出ましたので、少し絵の話をしておきませう。
私の映画の画面がですね、美しいけれど人工的に過ぎるんぢやないか、といふお叱りもしばしば受けるのですが、創作といふものは、これ即ち人為ですからね。人工でいいんです。そもそも何もしなけりや映画なんて出来ないんですから。私の絵を見て「人工的だ」といふのはカレー味のうどんを食べて「カレーの味がするぢやないか」と難癖をつけるやうなもんです。
俗に「自然な演技」とか「リアルな画面」などといふことが云はれますが、さういふものを拝見しても私はそこに値打ちのあるものが見出せないことが多いのです。自然といふことは無作為と考へて差し支へないかもしれないですが、たとへば無作為を装うといふのも、十分に作為であつて人工的です。無作為の「ふり」をするよりは、意識して作為を徹底するといふのが私の気性に合つてゐる、さういふことです。作為とか無作為といふことに頓着してゐては本当のものは出来ない、といふことを申し上げたいのです。
私の映画に出る役者の演技が不自然だといふこともよく指摘されるんですが、それも考へ方の相違であります。笠くんや佐分利くんなんか特に演技が不自然だつて批判されることが多いのですが、それは他の監督の作品を基準にみるからさうなるんです。私の作品では、役者はああいふ具合に演ずるのが一番いいと思ふからああいう演出になるだけのことです。例えば「小早川家の秋」といふ写真では中村雁治郎さんが実にいい演技をしておりますけれど、恐らくみなさんは彼のやうな演技を自然だといふ具合に考へられるのでせう。笠くんや原節子くんの演技はどうも固い、と。
本当のことを云ひますとね、私は演技の巧拙なんてものは実は無いんぢやないかと、さう思つてゐるところがあるんです。うまい、ヘタといふのは技術ですけれどね、映画の画面といふのは正直ですから、さういふ技術でごまかせないんですね。人間の顔が写つてゐるわけですから。どんなに演技したつて演技は演技で、その人の人間性までは変へられません。そこが画面に出る。だから役者は演技よりも人間だ、と私は思ふんですね。だから私に云はせれば「演技がうまい」といふのは褒め言葉ぢやありません。うまいといふのは、それだけ技巧的、人工的になつてゐるわけですから。役者はうまくなくたつて全然構はない。それより人間そのものです。そつちの方が余つ程大切です。見る人が見ればわかりますからね。人格の貧しい役者がどれだけいい演技をしてもね、私はさういふものを撮りたくないんです。迫真の演技なんて要りません。その人の「自然」が撮れたらそれでいい。自然な演技を撮るのではなくて、役者の自然を撮る、さういふことですね。
演技といふのはですね、ことさらに顔をゆがめたり、目をぎよろつかせたりすることとは何にも関係がない。さういふのはコケ脅しでせう。私はいつも大げさな演技を避けるやうに、と注意してゐました。それで、ああいふ皆さんにすれば「不自然な」演技になるんです。ある程度のぎこちなさはあるかもしれませんが、変に自然体を装うよりは余つ程いいんです。仮に演技が真に迫つたものだとしても、映画は役者の演技だけで成り立つてゐるわけではありません。セツトだとか美術だとか照明だとか編集だとか、実にいろいろの要素で成り立つてゐますから、演技だけが仮に自然でも、それだけが浮いて見へる場合もあります。
<運動>
映画が他の映像芸術、絵画や写真ですね、それらと異なるのは、絵が動くといふことです。運動です。さういふ部分に映画の根本がある。さうしますとね、やはりその運動といふことを表現したいわけです。何かが動く、といふ、それを表現するにはカメラを動かさないのが一番なのです、私の経験上では。カメラが固定されてゐればこそ、その画面の中で動いてゐるものの動きがはつきりと表現できる、といふのは私にとつては当たり前のことです。撮影部出身ですからね。カメラが動いて、同時に画面の中のものも動きますとね、動きが二つになつてしまつて、相互の動きを相殺してしまふ。あと、無闇にキヤメラを動かしますとね、絵が汚くなる瞬間があるんですね、構図が崩れてしまつて。それも非常に気になります、私の場合は。
我々の時代は映画のことを活動写真と云ひましてね、活動写真はなによりもまず、活動する写真、ですね。活動といふこと、動くといふことがきちんと出ないといけない。そのことを考慮しない監督が多いですね、最近は。これはCGはいけない、とか題材がSFだからだめだといふことではありません。絵が動くといふ、そのことへの注意、または驚き、さういふものが足りないのぢやないか、さう思ふわけです。
<映像>
映像といふことについては、やはり私は写真が好きだつたのでね、写真家の木村伊兵衛さんなんかと交流もありましたし、彼の写真なんて素直に「うめえなあ」なんて思ひましたからね。むこうは一瞬の勝負ですから。絵にピンと張りつめたやうな美しさがあります。その精神と云ひますかね、一瞬に込める緊張感、集中力と云ひますか、それを私は映画でもやつてみたい、と。さういふ気持はありました。極上のスナツプショツトに負けない、さういふ絵にしてやらうといふ意気込みは持つとりました。
あとローアングルといふことですけれども、私の作品はローアングルつてことばかりが注目されるんですがね、背景から畳を嫌いたいといふのもありますけれど、襖や柱の垂直をきれいに出したい、といふこともあります。そうしないと自分のコンポジシオンにならないんですね、絵が。映画には四角いフレームがありますから。そのフレームということを念頭において絵を作つてゐますね、基本的に。で、水平垂直がきつちりと出た画面が気持ちいいといふ、それはだうしてかと訊かれましたら、これはもう素直に「好きだからすきなんです」と。(笑)さう云ふしかありません。
それから日本の家屋をできるだけ美しく撮りたいといふ考へもありました。障子、襖、縁側、引き戸の玄関、中庭、さういつたものをだうフレームに収めるか、それには随分骨を折りました。その結果としてああいふ低いアングルといふものが出てきたんですね。絵の重心が低くなると、なんといふか安定が出る。それではじめて役者の動き、演技といふものが生きてくる、写真が活動しはじめる、さう思ひますね。
彼岸花でカラーを撮りはじめましたけれど、それで色使ひでいろいろと皆さんおっしゃいます。赤が好きだとか、黄色が好みだとか。ヤカンが赤いのはだうしてだ、とかですね。さあ、これは説明がうまくできますかだうか。日本の家屋といふのは基本的に紙と木でできてますでせう。会社や団地はコンクリートです。で、だうしても色彩がかう茶系かグレー系になるんですね。そりやあ非常に地味です。ですから、赤といふのはさういふ画面のアクセントになるんです。キリつとなる。おでんに唐辛子をつけると味がキリつとなる、さういふやうなことです。(笑)もちろん無条件に赤が好きといふこともあります。画面に赤が入っていると落ち着くんですね、私自身が。なぜなのかは訊かないでください(笑)。白黒で撮つてゐたころは、影や光でバランスを見ていましたけれどね。それに色彩という要素が加わりますと、そこにも自分らしさを出したくなる。
やはり何かを作る、創造するといふ時には、作品のなかに自分らしさを十全に出したいものです。それには理屈で考へるだけでなくて、自分の内なる声にも耳を傾ける必要があります。さうした結果が赤の多用やローアングルや固定キャメラといふことになつた。真実の理由といふものは作つた本人にもわからないんです。だからいつまでも何度でも作りたいんですね。
<主題といふこと>
まあ私も物を創る人間でありますから、いろんな批判といふものを頂戴するわけですが、さういふ批判のなかでも「小津は家族ドラマばかり撮つて、時代の問題と向き合はうとしない」といふやうな論調がありますね。暢気なものばつかり作りやがつて、といふことでせうね(笑)。現実と対峙せず、家庭内の瑣末な問題に固執した、と。かういふご意見の場合、私はいつも思ふのですがね、家庭内の出来事も十分に現実でないか、と。なにも社会的出来事、公的出来事だけが現実じゃないですね。家庭といふのも立派に現実です。
それぞれの批判には批判される方々の立場といふものが関係しますから、それなりに根拠があらうかと思ひますけれども、当然こちらにはこちらの言ひ分があります。私の場合、家族のドラマばかり撮つてゐたのは事実ですけれども、家族ドラマといふのは一つの形式にすぎんわけです。家族ドラマといふレンズを通して、ある世界を造形してみやうと、さういふことですね。家族といふ、ある意味では社会の最小単位ですね、その中で起きることは社会なり世界、或ひは国家といふこと、つまり人間の最大の単位とだう関係するか、家族といふレンズでもつて世界、国家を間接的に浮かび上がらせる、さういふ方法があつてもよからう、と、私はさう考へるんです。最小のものと最大のものは互いに関係あるのか、ないのか。そりやあ、あるです。絶対にある。
例へば、戦争といふことを表現するのに、戦場での兵隊さんたちの行動で表現するのか、戦場に向かわせる親の暮しぶりで表現するのか、或ひは戦後の一見なんでもない平和な暮らしでもつて表現するのか、それは表現者、作家の個性です。そこに創作といふことの絶対不可侵の自由があります。画面に兵隊さんが出てこない、だからそれは戦争を描いてゐない、といふのは短絡に過ぎるですね。逆に申しますと、兵隊さんを画面に出したからといつて、それで戦争を表現したことにはならんです。最近のハリウツドの作る戦争映画は私に云はせれば戦争とは無関係な映画、火薬の爆発が主題の映画ですね。
ある一つの主張、まあそれは「戦争反対」でも「友情は尊い」でも、なんでも構ひませんけれど、さういふ一つの主張を説明するためだけに映画を作るといふのは、私は間違ひだと思ひます。映画はたつた一つの主張を説明するための道具ではありません。一度に幾つもの事柄を表現できるのが映画といふものの面白さなんです。ポリフォニツクといふことです。考へてみれば、優れた藝術作品といふのは幾通りもの解釈ができるものです。映画はスローガンではありません。
ですから私の作品は家族ドラマですけれども、いろんな方角から見ていただけるやうに作つたつもりです。例へば最近の女性などで私の映画をご覧になつて、憤慨される方もずいぶん多いんです。「夫が帰宅して服を畳に投げ捨てるのはいかん」と。男尊女卑といふことですけれど(笑)。或るひは「岡田茉莉子のセーターが可愛い」とか「司葉子のワンピースがいい」「食器が変わつてゐる」なんていふ所に注目される女性もゐます。さういふ「それぞれの見方」があつていいと思ひますね。だから、映画の主題といふものは作者がこれだと決めつけるものでなくて、見る側でいろいろと自由に設定できるものだと思ひますし、その設定できる自由さの広がりが作品の広がりといふことにならうかと思ひます。
さきほど戦争といふことを例に挙げましたが、私の戦後の作品で戦争といふことが影を落としてゐない作品は実は一つもありません。「長屋紳士録」「風の中の牝鶏」は云ふに及ばずですが、「東京物語」の原節子の夫は戦死してゐたことになつてゐる。「麥秋」では東山千栄子の息子が戦死してゐる。東山千栄子はその息子がいつか帰つてくるんぢやないかと淡い期待を抱いてゐる。「秋刀魚の味」では笠智衆がバーで戦争中の部下に遭遇します。「東京暮色」の状況設定にしても、戦争といふことが大きく関わつてゐます。
私にとって戦争を表現するには、かういふ方法、戦争とその影響を間接的に表現するといふ方法が最善であつたわけです。作り物の戦場で作り物の兵隊さんを戦わせてそれを撮る、といふやうなことは私には絶対にできません。戦争は、さういふやり方を私に許さなかつたといふ云ひ方もできます。それが私が私であるといふことであります。私が所謂「戦争映画」といふものを撮つたなら、それは私が私でなくなつてしまふといふことなんです。
<映画について>
私の映画はどれも物語が似たり寄つたりで大きな事件もなくて退屈だと仰るかたもおられます。確かにさういふ側面がないとは申しません。ただ作つてゐる側としちやあ、それぞれずいぶん違ふんですけれど。ただ、私としては昨今の映画、特にハリウツドで作られてゐる大作のほうが余程退屈です。いろいろと新しい技術は用いられてゐますが、役者の演技は通りいつぺんだし、映像への配慮もずいぶんと足りない。役者を人間として見ないでステレオタイプな「役」としてのみ演出する、さういふ監督さんばかりです。アクションにしても善玉と悪玉が判然しすぎてゐて稚拙ですね。皆さんご承知のやうに、世間には100パーセント善玉な人間も100パーセント悪玉な人間もゐませんでせう。話も突飛なものばかりです。その突飛な物語に頼りすぎてゐて、映像をそれだけで鑑賞に耐へるものにしやうとする意気が感じられない。映像が物語を補ひ、物語が映像を助ける、さういふ映画ならではの協力関係といふものがまるでみられない。これには私、おおいに不満足です。
これは実のところ作る側が見る側をですね、つまり皆さん方をばかにしてゐるんぢやないか、とさう思ふんです。私の映画は人によつては単調かもしれない。退屈かもしれない。しかしですね、私はただの一度も見る側の人を自分より下に見て映画を作つたことはない。それはもう絶對にない。「ここでかういふ演出をすれば観客は涙を流してくれるんぢやないか」とか「びつくりさせてやらう」といふやうな頭で映画を作つたことは一度もありません。そしてそれは作家といふものの最低限の礼儀、最低限の道徳といふものではないか、とさう信じてゐます。
然るに昨今の映画の作りの安直さを見るにつけですね、もうこれは観客をばかにしてゐるとしか考へられない。「かうやつて観客を驚かせてやらう」といふコケ脅しや「こうすれば感情表現が伝わるだらう」といふ安直さとか、さういふ下品な発想ばかりが横行しております。まつたく以つて不愉快きわまりない話であります。私はさういふ風に映画を汚してもらいたくないんです。安直な考で作られたものは、安直な、その場しのぎの感動しか生みません。それは本当の感動とは云はないですね。ただの衝撃、ショツクにすぎない。さうして映画がただの消耗品になつてしまふ。失敗があつてもいいんですが、妥協はいけません。映画製作は団体の作業になりますから、ある程度の協調といふことは必要です。けれども、それが妥協の言ひ訳にならないやうに努めるのが作家といふものです。
私は映画といふものにはまだまだいろんな可能性があるんぢやないかと思つてゐるんです。で、その可能性といふことを考へる場合に、やはり基本に帰つてみるのが大事だと、さう思ひます。つまり、映画は活動写真だと。モーシヨン・ピクチュアだ、と。写真が動いてゐると。さういふ根本に立ち戻つて映画を考へる、それが大切ではないでせうか。
話がずいぶんあちらこちらしましたけれど、本日はこのへんでお終いにさせていただきます。本日はわざわざ東京ドームまでお越しになつて本当にありがたうございました。また、映画館でお会いしませう。
2003年12月12日 小津安二郎誕生日