三島由紀夫原作の小説「春の雪」を必殺「セカチュー」の監督で、竹内結子のような顔がかわいいだけで中身のない小娘を主人公に、しかも宇多田ヒカルの主題歌までつけて映画にしてしまう日本において、もはや映画など誰ひとりとして真剣に考えていないのだな!と、絶望してしまうのは筆者だけではあるまい・・・・とか言って、実は見てないんだけども。がはは。
しかしなあ。このスタッフじゃ見る気にならんよなあ。これに金を出す勇気はない。誰かタダ券くれませんか。そもそも筆者は三島由紀夫の文学が好きでない。ということは「好きでない作家の小説を原作に、好きでない監督が好きでない俳優を使って撮った映画」であるこの『春の雪』を見にいく必要はどこにもないことになる。しかしなんだか気になる。
・・・などと思っていたら、わがBBS常連隆庵氏の奥さまが見てこられたらしい。「あんなダメ映画生まれて初めて見たワ。金返せ!」と壁を蹴っておられたとのこと。あぁー、やっぱり。ご愁傷様であります。合掌。見るのはやめにしよ。
しかしまあ、奥様に謹んで申し上げたい。「セカチュー」は多分もっとすごいよ、と。「いま会い」はさらに上(ていうか下)いくよ、と。極限いくなら「デビルマン」よ、と。
結局のところ、こうした邦画における力の抜けっぷり(なのにそこそこ動員がある)が指し示しているのは、映画なんてただの暇つぶしでしかない、というわが国の社会的コンセンサスである。映画に気合いなどいれてはいけないのである。映画などただの子供だまし、あるいはストレスに疲れた労働者をほろりと泣かせてくれるストレス発散装置であるにすぎず、そんなものを真剣に考える必要などないのである、という社会的合意。とりあえず荒唐無稽な物語でも錯覚ででも泣かせて観客動員すればそれでよいのである、という映画業界の合意。日々おもしろくもない労働に従事し、生活に追われている者にとっては、日常にはありえない「純愛」や「悲恋」に心の慰めを見出すしかないのだという現実。たとえそれが一片のリアリティさえなくともかまわない。なぜならそれは「たかが映画」であり、真剣に検討すべきものではないからである、という暗黙の了解。
たしかに映画はその出自からして「たかが映画」である。リュミエール兄弟がはじめて上映した映画は見世物の一種であった。しかしながら、映画はまさに「たかが映画」であればこそ命をかけるに値するのであり、また命をかけねばらぬものである。もしも映画が「給与」や「ボーナス」や「ローン」や「子供の進学」や「両親の介護」のように重大なものだとしたらどうなるだろう。きっとだれも映画など見ないにちがいない。映画は「たかが映画」であればこそ映画である。およそいっさいのアートは「たかがアート」であるかぎりにおいて重要なのである。アーティストがしばしば狂的であるのは、アートが「たかがアート」であるにもかかわらず命をかけざるをえない、その矛盾を貫いて創作するからである。
「たかが映画」だから適当でよい、というのは大いなる錯誤なのだ。会社員の発想である。むしろ映画を「たかが映画」たらしめるべく、全力を傾けねばならないのである。
2005年11月22日