ベルグソンなど

久々にベルグソンの「思想と動くもの」を読んだ。ベルグソンはフランス哲学史上最強の哲学者である。

ベルグソンは従来の哲学者たちが本来言葉にできないものを言葉にしようと執着したために、哲学が我々の生から遠ざかった無味乾燥なものになってしまったと考えた。やがて彼は直観を哲学の方法とするに至った。京都学派の始祖、西田幾多郎がこの彼の仕事に影響を受けて「純粋経験」の思索へと歩を進めたのは有名である。
ニーチェと並んでベルグソンが好きなのは、彼のこの「言語に対する違和感」に依るところが大きい。ニーチェにせよベルグソンにせよ、言語の限界をはっきりと知っていた。それは恐らく彼らが「真の著作家」、即ち言葉の中で生きる人間であったためである。曲がりなりにも「書くこと」を生業にするからには、言葉の限界を絶えず意識せざるをえない。

エレクトリック・ベースの革命者、ジャコ・パストリアスはあるインタビューの中で、なぜかくも革新的なベース奏法を切り拓くことができたのかを問われた際、「まず、ベースという楽器の限界を知り尽くすこと。限界を知ることで自ずと新たな未開の地平が開けてくる」という主旨の発言をしている。実際、ある楽器に熟練するとは、ある楽器の限界を知り尽くすことである。これは、ベルグソンやニーチェが言語に対してとる姿勢と似ているのではなかろうか。

ニーチェやベルグソンと比較した場合、ハイデッガーというのは今ひとつ煮え切らない。

現象学的存在論の巨頭マルティン・ハイデッガーの思惟の主題たる「有(存在)」はまさに言葉にできないものの筆頭であるが、彼はどこかで「言語化された一大哲学建築物を構築したい」という欲求と手を切れなかったのではないか、と思われるフシがある。後期に至ると彼は「存在」という語の上にバツ印をつけて表記したりもした。そこには当然言語への限界の自覚があるはずだが、それでも敢えてバツ印を付けてまで書いてしまう所に彼の思い切りの悪さ、言葉を換えるならば「言語への未練」のようなものを垣間見てしまうのである。

ニーチェやベルグソンなら絶対にそうしたことはしない。ハイデッガーは「洗練」とは無縁の哲学者であった。早い話がどんくさいのである。しかしながら、たとえそうであるにしても、ハイデッガーの仕事は恐るべきものではあったのであるが。 久々にハイデッガーの史上最強にドンくさい著作「有と時」でも読もうか。

2002年09月01日 01時11分21秒



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