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ヴァルター・ベンヤミン(1882〜1940)の「複製技術時代の芸術」およびその中みられるアウラという概念について「う〜ん弱いな」と思うのは、彼の著述が常に伝統的な美学的装置ともいうべき「作者/作品/鑑賞者」という枠組みに依拠したままでなされているように思われるからだ。
彼が「複製技術時代の芸術作品」について考えるとき、旧来の「作品」という概念、つまり鑑賞者とは無関係に独立して存在する「作品」というものが前提にされているように見える。たとえばミロのヴィーナスは誰が鑑賞しようと、作品としては同一である、という観念は現在もなお根強い。しかし「誰にとっても同一な作品」というのは実は作品の構成要素のほんの一部にすぎないのである。しかし、ベンヤミンが「芸術作品」という語を用いるとき、その語が旧来の「誰にとっても同一な作品」と読まれても仕方のない不用意さを内包していることは否めない。
だからこそ、彼の「アウラ」なる用語に関する言説が「オリジナルとコピー」という旧態依然とした美学的範疇で矮小化して語られてしうまうことになるのである。
しかしながらベンヤミンが「複製技術時代の芸術」において語っていたのは、「オリジナルな作品にあったアウラが、複製された作品には存在しない」というような単純な事柄ではない。
考えられていたのは複製技術が始めて可能にした「芸術の大衆化」によって、芸術体験というものが従来のそれと比較してどのような変容を蒙るのかということであって、複製は低俗でオリジナルこそが重要だというような凡庸な主張ではない。また、複製技術自体を否定し、「古き良き時代よもう一度」と嘆いているのでもない。
複製技術によってのみ可能な芸術形式即ち映画や写真、レコード音楽などによって引き起こされたのは、コピーの氾濫という事態ではなくて、むしろ「オリジナル」という概念自体の変容であった。ここで列挙した芸術のメディアは、もはや「オリジナル対複製」という対立を無効にしており、複製されたすべてがある意味でオリジナルであり、またオリジナルはすべて複製でもあるようなメディアなのである。
そして、かつては一握りの特権階級だけが耳にする事ができたモーツァルトのオペラやその他もろもろの芸術作品が史上はじめて大衆に解き放たれることになったのである。
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「複製技術時代の芸術作品」においては「今、ここ」という言葉が頻繁に書かれている。この時間(=今)意識と空間(=ここ)意識の特徴は何であろうか?
ある種の「代替不可能性」ということが考えられているのは間違いない。「今、ここで」を強調するのはそこに「取り替え不可能な絶対的固有性」を見ているからであろう。複製された作品が無数に存在するということは、「今ここで」という絶対的な現在の希薄化として把握されうる。
今聞いているレコード音楽は明日も明後日も、ここでもあそこでも聴く事ができる。それならば「今ここで」真剣に耳を傾けずとも、気楽に聞き流しておけばよい、という仕方で「絶対の今」がその重みを喪失する。取り替え不可能な本来かけがえないはずの「今ここ」はいつでも置換可能な「いつか」を保証されるとともに希薄化することになる。
複製技術時代の問題は実はこの「現在に対する軽視」、つまり「今ここで」が「いつかどこかで」へ滑り落ちてゆくことにこそある。そしてこのことこそ技術発達とパラレルになった「芸術受容における巨大な変容」であり、アウラの喪失ということの原因である。
いつでもどこでもアクセス可能な作品群はそれがまさに「いつでも」再現可能であるがゆえに、「いつになっても」必然的な時空を獲得する事ができないのである。ある種の自由(無制約)が生み出す不自由である。
言語芸術において古来の詩篇などに見られた厳密な形式性というものは技術発達の時代とともに散文という新たな形式(なき形式)にその場を奪われることになった。散文には厳密な形式はない。それは「なんでも書ける」様式なき様式である。俳句や短歌に見られる形式的拘束性がそこにはない。しかし「何を書いてもよい」散文は「何を書いてはいけないか」についてなんら規制が無いがゆえに、実のところ非常に「困難な」形式(なき形式)なのである。
「古池や 蛙飛び込む 水の音」という句が引き起こすアウラを散文で構成する事はかなりの困難を伴うに違いない。俳句という形式の厳密な拘束性(不自由性)があってはじめてこの句は誕生するのである。
散文の無制約な自由さにとって俳句的文芸密度を発揮するのが困難なごとく、複製技術による芸術がアウラを引き起こすことは困難なのである。
従って、複製技術がアウラを消滅させるのではなくて、複製技術がアウラ発生の契機としての我々の態度を変質させてしまうこと、「今ここ」という時空がその「かけがえのなさ」を間断なく脱落させてゆくことこそが問題なのだ。
これはまさにナチスが時代を席巻する直前の1927年に出版されたハイデッガーの「存在と時間」の主要なモチーフである「死の先駆的覚悟性」という思索と響き合うものである。端折っていえば、ハイデッガーは「日常」というものを「確実な将来可能性としての死を忘却して」つまり「今ここ」のかけがえのなさを忘却して生きている「非本来的状態」として把握していた。それはつまり「有ること」そのものからの「頽落」であり、アウラという出来事からの墜落である。
ナチスに追われついには自殺への道を辿らざるをえなかったベンヤミンの思想が、「今ここのかけがえのなさ」という点において、ナチスにコミットしていたハイデッガー(筆者は大嫌いである)の思想「死への覚悟=今ここのかけがえのなさ」と交差してゆくところに、歴史の皮肉を感じざるをえない。
2003年2月3日
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