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基本的に「○○なのに××」とか「○○にもかかわらず××」という構造が好きなようである。
「安いカメラなのにいい写り」
「有名ではないのに物凄い実力者」
「貧乏なのに心が億万長者」
「市営住宅出身にもかかわらず心は貴族」(なんじゃそりゃ)
「安い楽器なのに素晴らしい演奏」
「中小企業なのにNASAが顧客」
「大学教授なのに常識人」
「ローテクなのにハイテク以上」
「日本人なのに世界市民」
と、まあ思いつくままに列挙したわけだけれど、とにかく「○○故に××」というよりは「○○なのに××」というほうが好きなのである。この「〜なのに」という所にドラマというか、逆転というか、予想外というか、少数派というか、そういう物語的なものを感じているのだと思うのだけれど、ではなぜそういう方向に惹かれるのかというと自分でもよく分からない。
しかしまあ、自分の性格というか傾向というものを鑑みれば、多少の説明はできるような気もする。
そもそも筆者は幼少より目立ちたがり屋であった。関西弁で言えば「イチビリ」である。
イチビリはとにかく目立ちたがる。「目立つ」ということのほうが論理性やら正当性より先に立つ。そんなイチビリな筆者を驚かせた一つの思い出がある。
あるとき小学校の先生が「山の上は寒いか暖かいか?」という質問をクラス全員に投げかけたことがある。筆者はエベレストが積雪している写真やら図鑑の知識をもとに「山の上は寒い」と考えた。他の生徒らも圧倒的に「山の上は寒い」に賛成した。そこでフジワラ君という生徒だけが「山の上は暖かい」というほうに手を挙げた。40人の生徒の中でたった一人毅然と挙手するフジワラ君はそのとき確実に目立っていた。「どうして暖かいのか説明せよ」という先生の指示にフジワラ君は淀みなくこう答えた。
「山の頂上は地上よりも太陽に近いからです」
まばゆかった。フジワラ君はバリバリに目立っていた。
筆者はこのとき一つの事実を発見したのだった。即ち、たとえ自分が多数派の意見に賛成であっても、そのままでは「その他大勢」になってしまうということである。早い話、目立つことができない。それがイチビリには耐えられない。「目立つためには少数派でなければならない」ということをフジワラ君は身をもって教えてくれたのだった。
さらに、フジワラ君の意見は明らかに「自分の頭で考えたもの」であることにも衝撃を受けた。それが証拠に、クラスの誰一人としてフジワラ君の意見に論理的に反論できなかった。「寒いに決まってるだろ」という以上の「○○だから」という根拠のある反論は誰からも出てこなかった。真偽は別として、「自分の頭で考える」ことは強いのだと思い知った。
話が逸れてしまったけれど、根っからのイチビリたる筆者はフジワラ君の一件以来「少数派」たることを心に決めたのだった。さて、そうやって「少数派」となって見事目立つことに成功したはいいけれど、なぜ少数派のほうにいるのかという論拠を周囲に問われるとイチビリは困るのである。さすがに友人、教師の手前「ただ目立ちたいから」とは言えない。それで色々と少数派の論拠というものを考える癖がついた。そうこうするうちに、自分の思考回路が本当に少数派に近づいていって、今度は多数派の意見が本当によくわからなくなってきた。イチビリに筋金が入ってきたわけである。
さて、筋金入りのイチビリがアマノジャクになるのは必然である。ここにドラマ性はない。「イチビリ故にアマノジャク」である。とにかく「みんなの意見には反対する」というのがその基本スタンスだ。論理性や妥当性などというものより先に「目立ちたい」のだから仕方がない。論拠などというものは後でどうにでもなる。
「ローリング・ストーンズってやっぱいいよな〜」などとみんなが言うなら、「ふん、ストーンズだけがロックじゃないぜ」と悪態をつき、「ストーンズはもう古い」という人がいれば、「何言ってるんだ、新しさや古さと無縁の次元にだけ<ROCK>の真髄は存在するんじゃなないか!」と反論する。常にその場の少数派になるのだ。
こんなふうに世界中の人がイチビリなアマノジャクになれば、全体主義などということも起こり得ず、従って軍隊などというものも機能せず、政治はオール野党となり、いつしか世界は平和になるのではないか。世界中のアマノジャク党員よ、今こそ目覚めよ!
あ、みんなアマノジャクだったら「党」結成は無理か・・・。
2003年2月28日
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