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20世紀最大の哲学者と言われるハイデッガーの思想は、その難解さにおいて哲学界屈指だと言われる。事実難解である。しかしながら彼の「世界性についての分析」などは強力におもしろい。せっかくなら、その面白さをみんなで楽しみたいのが人情である。
で、その難解さを回避する方法はないものか、と考えるのだがなかなか妙手が思いつかない。しかし、ハイデッガーに出会って十数年も経っているのにそれでは情けない。なんとか、噛み砕く方法はないものか。
まずハイデッガーを読む場合、「なぜこんな話してるのか?」という素朴な疑問は捨てなければならない。そんなことにこだわるととてもじゃないが先には進めない。「とりあえず付き合いましょう」という大人の態度が要求される。
彼の思想を読み解く場合、さしあたってネックになるのは「存在と存在者の差異」、いわゆる「存在論的差異(Ontologisch Differenz)」ということである。ここでしくじると永久に彼の思想に近づけない。逆に、ここをくぐりぬけることが出来れば、彼の思想をエンジョイすることも不可能ではない。
さて、のっけからややこしいのが彼の術語である「存在」と「存在者」である。某私立大学で辻村公一ゼミに出席していた小生としては「有ること」と「有るもの」と訳したいところである。これがよくわからない。
まず、「存在者」からいこう。存在者、というとなにか人間のことのようだが、これはドイツ語では「Seiende」すなわち「在るもの」である。従って存在者とは「在るもの一般」を意味する。木や山も「存在者」だし、車や建築物も存在者だ。たとえば宇宙人や幽霊も、少なくとも観念上存在しているので「存在者」と呼ぶことが出来る。無いものについて語ることなどできないからだ。というわけで、存在者は具体的には様々である。山であったり海であったりワタシであったりイヌであったり鉄腕アトムであったり。この様々な存在者に普遍的に共通する唯一の事柄は、それらの存在者が「有る」ということ、である。
この「有る」ということは先に列挙した「存在者=有るもの」ではない。ここがポイントである。
「有ること=存在」はなにか「有るもの=存在者」ではない。これが分かったようでわからない、困った部分である。
存在者が名詞だとすれば存在は動詞である、なんて言っても余計にややこしいし正確さにも欠ける。そもそも「存在は存在者ではない」としても、いったん思考の対象として「存在」と置くならば、それはやはり「存在者」の一種になってしまうではないか、という疑問も出てくる。つまり、最初に区別した「差異」はなっくなてしまうじゃないか、と。これは非常に当然の疑問である。で、ここが肝心なのであるが、この差異がなくなってしまうこと、それが「存在忘却」と呼ばれる我々人間の有り方なのだ。
なんのこっちゃ?ではなかろうか?ここは次回再度説明しなければならない。
2002年09月02日 13時56分49秒
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