ハイデッガーは難しいのか?2

ハイデッガーの「存在論的差異」について再度説明する前に、ちょっと文脈を述べたい。
ハイデッガーは哲学者としてアリストテレスやら論理学やら、あるいは師匠たるエドムント・フッサールの現象学などを研究するうちに、西洋の思索に於ける最も根源的な問題、すなわち「存在論」が徹底的に思索されるべきだと考えた。それが具体的にどういう経緯によるものかはここでは意味がない(というかよく知らない)ので省略する。

とにかく彼にとって存在論こそが哲学の唯一にして至高の問題だったのである。彼によれば存在への問い抜きになされた思索は、たとえどれほどの有用性を持とうとも根無し草であると考えた。

「存在者と区別された存在それ自身」というのは本当に難問である。しかしながらハイデッガーの概念がほぼすべてこの差異(=区別)に立脚して作られている以上無視できないのである。

ここでちょっと目先を変えて、ライプニッツという哲学者兼科学者(有名ですね)の言葉を引用しよう。

「なぜ一体存在者があるのか?そして、むしろ無があるのではないのか?」

普通ならかなり引いてしまう言葉である。小生も引いてしまった。人によっては「あほちゃうけ?お前暇なんか?仕事せい!」な言葉である。そう、こういう問いは暇人からのみ発せられうる。
ところで、この問いはハイデッガーに言わせれば「明らかにすべての問いの中で最高の問いである」ということになる。ハイデッガーもライプニッツ並に暇だったのだろう。本人もそれには気づいていてこんなことを書いている。

「哲学することは異常なことを異常に問うことである」

まあ開き直りかもしれないが、自覚はあったのね。

暇人につきあって考えるならば、これは物事が「ある」ことに対する驚きから来る疑問である。この世にはいろいろなものが存在するわけであるが、一体全体なんだってそれらのものが「ある」のか?「ある」ってどういうこと?・・・と、まあそう問いかけているわけである。実はこの問いの中にも微かに「存在者」と「存在」の区別が漠然とではあるけれど、含まれていたりする。

「存在者」がなぜ「ある」のか?多様な「存在者」がすべて同様に「ある」のはなぜか?ということである。この「ある」って「存在者」とはやっぱ違うんじゃないの?ということである。しかし、前回述べたように「存在者を存在と区別しても、存在だって思考対象としてやっぱり存在者になってしまうのではないか?」という疑問が残る。実際そのとおりである。ハイデッガーは言う、

「我々は存在者の<存在>を存在者の表面においても内部においても、その他どこにおいても、直接それだけで捉えることはできないということを繰り返し経験することがとりわけ大切である」

なので、「存在論的差異」について、とりわけ「存在それ自体」について、「あ、わかった」という人がいるならば、それは十中八九間違いであると言わねばならない。「わからんな〜。」という人がいるなら、その人は正しいのである。小生の表現で言うならば、「存在は理解できない。しかし我々はそれとひとつである。存在とは理解する対象ではなくて、生きられる。」ということである。

存在という言葉の代わりに「愛」で考えればわかり易いかもしれない。
我々は「愛が何であるか」を定義づけることはできない。愛という言葉はあらゆる言葉の中で最も空虚な言葉の一つである。しかし心配するには及ばない。愛が何であるかを知らなくても、我々は愛することができるからだ。いや、実際日々「愛している」ではないか。愛するとは、お袋のためにタイヤキを買うことであったり、嫁はんの代わり皿洗いすることであったり、子供がおいしそうに食事しているのを見て嬉しく思ったりすることだ。

話がずれてきたか。とにかく、存在者と存在は区別されなければならないが、存在は決して他の存在者のように扱うわけにはいかないもの、(そう愛のように)である。それは絶えず思考の対象からは逃げ続ける。このことが人間の根本的有り方としての「存在忘却」である。人間の思考形式から言えば、存在は忘却(隠蔽)されざるを得ないのである。

2002年09月03日 01時39分16秒



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