携帯電話

米国から日本に帰国してすぐの99年に下記のような文章を書いた。にもかかわらず、今携帯電話のある暮らしに染まっているのはどういうことだ・・・・????

携帯電話

さう難しいことを云ふ気はないのだけれど、あの携帯電話といふものがイヤである。そもそも、猫も杓子も持ってゐるといふのが気に喰はない。多くの人がその便利さを謳歌してゐるらしいのだけれど、便利だから持つといふのはちょつとをかしいやうな気がするのは小生の偏屈のせいだらうか。
便利である、これはまあわかる。しかし、便利といふことと必要といふことが一致するとは限らぬ。便利なものを選ぶ権利がだれにでもあることは自由な社会でよいのだけれど、便利であるから持たねばならない、といふ具合に話が強制の色を帯びてしまふと何やら五月蝿くていけない。

そもそもこれまでの歴史を顧みれば、便利なものといふのは、必ずその背後に不便を抱へてゐるものだ。たとへば、往来で旧知の友と久しぶりに出会ふとする。久しぶりのことだから気分も昂揚し、近況を話しながら互いに盛り上がる。そんなときに携帯電話の耳障りな電子音が鳴る。ひょつとすると緊急かもしれない電話だから出る。さうすると、さつきまでの盛り上がりといふのはいはば生ものであるから、水を差されて台無しとなる。電話のかかってこない方は、相手をぢつと見つめてゐるわけにもいかないので、意味も無くあたりを見回したり、地面を蹴つてみたりなどして所在なく待つてゐる。さうして電話が終つてみれば、それが大抵の場合は急を要さぬ用件であることが殆どである。

今ほど携帯電話の普及する前に、割込み電話(キャッチホンといふあれ)といふものが登場したときも同じやうなことがあつたので閉口した。しかし、かうした文明の利器を悉く否定するのが本稿の主旨ではない。たとえば、留守番電話といふ機能は大歓迎である。「留守番」といふ響きがどことなく暢気で、それでゐて充分役に立つ機能である。留守番電話と携帯電話、或ひは割込み電話の違いといふのは、おそらくその存在が人と人との交流を邪魔するものであるか否かといふ点にある。携帯電話、或ひは割込み電話は、いつでもどこでも傍若無人に出しゃばつて人との交流をぶち壊す。これは、本末顛倒と云はねばならぬ。

携帯電話、或ひは割込み電話といふのは、いざといふとき確かに便利ではある。問題はこの「いざ」といふ時をどのやうに考へるかである。「いざといふ時」は一年に何度あるのだらうか。小生の場合、これまで三十年以上生きてきて「いざといふ時」と呼びうるのは父親が亡くなつたときと神戸の大震災のとき、たつた二回きりである。単純に考へるなら、十五年に一度といふことになる。これではどこかの彗星が来るのを待つのと大きな違いはない。さういふ「いざ」のために毎月高いお金を払つてゆくのは、だうも合理的とは云ひ難い。かういふ不合理があたかも便利、即ち合理といふ顔をして世間に通用するのが小生は甚だ気に喰はない。不合理なものは不合理らしく、ひつそりとしてゐてもらいたいものである。


2002年10月21日 13時53分28秒



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