新しい『ライ麦畑』

先日書店でJ.D.サリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」の新訳版が出ているのを発見した。戦後アメリカ文学の傑作にして最高峰(小生にとって)であり、ながらく待ち焦がれた新訳がとうとう出たわけである。

予想通りというべきか、今回の翻訳は村上春樹だ。 村上春樹のこれまでの翻訳履歴を考えれば、サリンジャー翻訳というのは必然的であろうと思う。小生は村上春樹を作家としてではなく、翻訳家および読者として尊敬している。 さらっと立ち読みしただけでまだ購入していないが、旧訳(野崎孝)よりはずいぶんよさそうである。というより、野崎訳より悪い訳は今後も出ないはずだけれど。しかしこの新版が出るまでにずいぶん長い時間が過ぎてしまったものである。

さて、村上訳と野崎訳を比較してまず目に付くのがタイトルである。野崎訳はご存知「ライ麦畑でつかまえて」である。対する村上訳は原題そのままに「キャッチャー・イン・ザ・ライ/Catcher in the Rye」である。ここに両者の翻訳に対する違いが明確に出ている。以前から思っていたのだけれど、作品内容から鑑みて、野崎訳のタイトルは意訳としてもまるで意味不明である。「ライ麦畑でつかまえて」というと、なにか女の子が彼氏をアオカンに誘っているように響くのは小生だけだろうか??

原題の「Catcher in the Rye」のCatcherは文字通り「受けとめる者/つかまえる者」である。それは主人公が将来なりたいもの、つまり「ライ麦畑で遊びまわる子供たちが崖から落ちないように気をつける見張り役」であり、作品の核心をなすものであって、それを「ライ麦畑でつかまえて」と訳してしまうとなんのことだか分からなくなる。

ただ、弁護するわけではないけれど野崎氏が原題から大きく逸脱して「ライ麦畑でつかまえて」という訳をした理由もわからないではない。なぜなら「Catcher in the Rye」という英語を適切な日本語にするのは恐ろしく困難、いや実際には不可能だからである。仮に作品内容を汲み取ってみても「ライ麦畑の見張り役」とか「ライ麦畑の子守り役」などという、恐ろしく非文学的な訳しかできない。

恐らく英語圏の人間が見てもこの「Catcher in the Rye」というタイトルは「おや?どういう意味だろう?」という類のものだと推察する。そしてそれが作者サリンジャーの狙いでもあったはずだ。作品の半ばなり最後でようやくその意味がわかるタイトルという仕掛けは、作家ならよくやることである。そこで村上訳はあえて「キャッチャー・イン・ザ・ライ」としたのだろうと思われる。

小生が野崎訳にいらだつのは、彼がこの「作家の狙い」をわかっていながら、タイトルを「ライ麦畑でつかまえて」などというロマンチスト女子高生が書きそうな日本語に訳してしまったその姿勢である。小生はこのタイトルのせいで長い間この傑作を敬遠していただけに余計に腹が立つのである。まあ、個人的な恨みだけれど・・・。

また、野崎訳はタイトル以外にも「?」な部分が多い。原文が口語文であることをうけて、むこうの口語を日本語に置き換えようとしているわけだけれど、それが無理やりで却って不自然な日本語になってしまっている。名訳の誉れ高い野崎訳、小生は生理的に受けつけない。それでも野崎訳のサリンジャーをすべて読んでしまったのは、ひとえに原作のもつパワーのためである。特にこの「キャッチャー」は、米国文学史上もっとも美しいラストシーンをもっていて、おすすめの作品である。

さて、今回の村上訳はどうであろうか、読む前から興味深々である。



2003年4月14日




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