ハイデッガーはややこしい

久々にハイデッガーについて書いてみよう。

「ハイデッガーは難しいのか?」シリーズが中途で挫折したのは、「やっぱ説明するの難しいわ」というヘナチョコな筆者のせいであるが、同時に「ハイデッガーって嫌い」だからでもある。色々と刺激的な論文もあるけれど、根本的に「嫌い」なんである。

ナチス台頭とともにフライブルク大学総長になって、主著「存在と時間」の冒頭にあったフッサール(ユダヤ人)への献辞を削除してしまい、ナチス御用学者みたいになっていたくせに、戦後そのあたりをきちんと説明しないところが高倉健的でない。男としてかっこ悪いのだ。雑誌「シュピーゲル」誌にさんざん突っ込まれても逃げの一手で、しかも「発表は死後にしてくれ」と頼むあたり、非常に往生際が悪いんである。ま、それ以前に顔が嫌いなんだけど。

彼の論文の欠点は、ユーモアが一切ないことと、自慢が多いことである。「存在を問う事こそが第一級の問題であり、この問いは存在論的差異を思惟する事ではじめて端緒につく」と、遠まわしに「わしが最高」というような意味の事を頻繁に書くのが不愉快である。いっそのことニーチェみたいに「わし、自分では世界一や思うてまんのや」と単刀直入に書いてくれたほうがいい。

それに妙にドイツ語中心主義なのも不愉快だ。ギリシアの思惟を学ぶには、そして哲学をするにはドイツ語しかないんだ、みたいなことを書いていて「ほな、わしら関西人どないなんねん?」という気になる。

さらに言えば文章がスマートでない。曲がりくねって冗長で高圧的で乾燥している。要するに蓮實重彦みたいである。本人にすれば「私の文章が難解なのは思惟の事柄そのものが難解だからです」みたいなことなんだろうけど、それは怠慢である。文学的感性に欠けていたというしかない。内田百鬼園先生の随筆でも読んで勉強してもらいたいところだ。

しかし常に冷静沈着にして人格高潔たる筆者(?)としては、これらの理由でもって彼の「世界の・内に・有ること」という人間の有り方についての分析や、「ニーチェ」論文に見られる「それめちゃくちゃ強引やのお。でも結構おもろいやん」な読解の価値が減るとは思えないのも事実である。で、再び性懲りもなく彼の面白い部分のみに注目してみたい。

「再度説明の試み」

有論的差異というのは、この世にある一切のもの、即ち「有るもの」に共通するのは、それらの一切が「あること=有」であり、この有ることは何か有るものではありえない、という洞察から来ている。で、この有るものと区別された「有ること」の意味を(時間を地平として)解明する事が著作「有と時」の主題だった。この考察を進めるに当たって、手がかりが必要になるわけで、その手がかりをハイデッガーは人間の有り方に求めた。なんといっても人間は「有ること」をたとえ漠然とではあっても理解しているからだ、というのがその根拠だ。

実はこの有論的差異に基づく「有それ自身」の解明などということが、そもそも言語によって、ましてや哲学的言語によって可能なのか?と考えるのが普通だが、ハイデッガーはそんなことは後回し、とでも言うように己が説を強引に推し進めていく。結果的に「そら、やっぱきついがな」ということになって、大々的に大風呂敷を広げた「有と時」は予定された全体の計画の前半部のみで途絶することになる。(つまり未完)

(注)この有(Sein)そのもの、ということを理解するヒントとして「繋辞・けいじ・copula」つまり主語と述語を繋ぐもの、英語でいえば This is a pen. という時の「is」つまりbe動詞を念頭においておくのもいいかもしれない。Be動詞に「存在する」の意味があることは周知の事実だ。日本語でいえば「○○は××である」という時の「である」のことだ。日常において不断に「is」を口にしているもの、それが人間である。だから「人間は<有るということ>をたとえ漠然とではあっても理解している」と言われるのだ。

ともあれ、ここから人間の有り方を現象学的に解析してゆくわけだけれど、その場合、まず人が日常的にどういうふな有り方をしているのかを事細かにブツクサ、ウネウネ、シコシコ書いているのが非常におもしろい。

人はまず「世界の内に有る/in-der-Welt-Sein」という有り方をしているという。この場合の「世界」というのは、物質的な環境、なにか人をその中に入れる容器のようなもの(例えば地球)、をいうのではなくて、「医者の世界は怖いねえ」とか「音楽の世界では5000円のことをゲーセンと言うんだよ」とか言うときの、その「世界」に近い。一種の意味連関/価値体系の網目といってもいい。

「人は常に世界の・内に・有る」ということは、換言すれば「人は常に何らかの意味連関/価値体系の内に生きている」ということであり、それは「人間は常にある先入観とともに有る」ということでもある。このあたり、ニーチェによる遠近法主義(「善悪の彼岸」参照)のパクリじゃないか、という気もするがまあそれはよしとする。いずれにせよ「世界の・内に・有ること」という有り方、このコンセプトがもたらす帰結は「客観的世界というものは二次的である」ということで、基本的に人はそれぞれ異なる「世界」で生きている、ということである。

人は常にある世界(意味連関/価値体系)に受動的に投げ込まれているのだけれど、単に受け身なだけではなくて同時にその世界を常に自ら変更、更新してもいて、ハイデッガーはそれを「被投的企投」と呼んでいる。つまり人は「世界の・内に・有る」という有り方をしており、その有り方とは被投的企投というわけだ。受動的能動といってもいい。

普通ひとは、まず客観的な「世界」というものが確固としてあって、その中に人間がいる、という具合に考えているのだけれど、「世界の・内に・あること」というコンセプトが言わんとしているのは、人は基本的に不可避的に或る意味連関の網目(=世界)を通して外界を見ている、ということである。だからこそ同一のものを見ても異なる反応が出てくることにもなる。最近のアメリカのやり方を見ていると、この「世界の・内に・有ること」ということが全く念頭になく、自分たちが見ている世界だけが唯一の世界、客観的な世界だと信じ込んでいるフシがある。いうまでもないがイスラム世界はキリスト世界とは異なる「世界」であるのに。

さて、この「世界の・内に・有る」という有り方をしている人間がさしあたって暮らしている日常において出会うものは道具である、とハイデッガーは言う。ここで「おや?」と思わないだろうか?ふつう「さしあたって出会っている」のは家族なり、他人なり、いずれにせよ人間だろ?と。いきなり「道具」が出てきて面食らうのだ。人間以外にも山や海や空など、道具といえないものとも出会っているじゃないか、と。なんで道具なんだ?と。

しかしそういう反論をハイデッガーはけろりと斥けて言う「山や海などの自然は道具ではない、というまさにそのことは、世界の内にあるものを道具的観点から見ていることの何よりの証拠である」と。「道具的ではない」ということは「道具的である」ことの反対であって、つまるところ「道具であるかないか」という枠内であることを示しているではないか、と。こういうレトリックは彼の独擅場である。

そして「道具」の性格を規定する。即ち「道具とは何々するための何か」という構造を持っている、と。このあたりから徐々におもしろくなってくるので、次回はそのあたりについてブツクサ書いてみたい。



2004年1月6日




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