年に一回か二回、嫁はんに「この気違いっ!」と罵られることがある。嫁はんのみならず、以前つきあったことがある女性たちからも「気違いっ!」とののしられた経験がある。つらつら考えてみるに自分としても確かにそういう部分があるなあと思わないでもないのだけれど、この「気違い」というのは世間的には差別用語であるらしい。ということは「気違い」という語を別の言葉に置き換える必要があるわけで「精神障害」とかなんとか言うのであろう。
ところで、筆者はこの「気違い」というのは実はなかなか含蓄があるというか、奥の深い日本語ではないかと思うのである。なんといっても「気が違っている」のである。「精神に障害がある」という言葉の直裁ぶりにくらべて「気が違う」という、この「違う」というのがえも言われずぼんやりとして曖昧ではないか。しかも「違う」ことの主体は精神ではなくて「気」である。「気」という語には精神という言葉よりも、より神秘的な、霊的なものが潜んでいる。霊的なレベルでの、「障害」ではなくて「違い」。なんとも深い表現である。これを英語に直訳すればSpiritual
Differenceとなって、なんだかポストモダンな概念のようにも思えるのである。障害と決めつけ区別し排除するのではなくて「違い」として許容する、そういう懐の深さすら感じさせるではないか。少なくとも「精神障害」という言葉に潜む排他的なひびきは感じられない。
だからこそ人はとっさの時には「この気違いが!」と叫ばずにはいられないのである(なかなか人に「気違い!」と叫ぶ人はいないだろうけれど)。つまり、「この精神障害が!」ではあまりに冷淡すぎ、あまりに排他的であることを、大抵の人は暗黙のうちに了解しているのである。
しかし、そんな味わい深い「気違い」という言葉であるが、その後に「病院」がつくと、とたんに不穏な空気が流れはじめるから言葉というのは不思議である。「気違い病院」と書くだけで、もうなんだか病院そのものが総合的に発狂しているような、入ったら最後、退院することなど到底できないような、鬱蒼とした森の奥にあるツタの絡まる洋館の病棟が思い浮かぶではないか。こうなるとやはり「気違い病院」という言葉はなんとなくよろしくない気がする。使うべき言葉ではない、そういう感じが確かにする。たとえばこれを「脳病院」としても、本当にもう完治の見込みがないほどに脳が損傷を受けた人ばかりが集う病院みたいでよろしくない。だから病院の場合は「精神病院」のほうが適切であると思う。
と、ここまで書いてきて「気違い」には「気狂い」という別の表記もあることを思い出してしまった。この「気狂い」にはさきの「気違い」のような滋味はない。なにせ「気が狂っている」のである。霊的な水準で「狂っている」のである。これは手の付けようがない、霊的領域で暴れ馬が白目をむいていなないている、そういう感じがする。だから、「気違い!」と罵られてもいいけれど、「気狂い!」と罵られるのはご免蒙りたい。しかし発音は同じであるから、話者がどちらの表記を念頭において発言したのかわからない。かといって「気違い!」と罵られているときに「そのキチガイは違うほうの気違いか、狂うほうの気狂いか、どちらなのか」と尋ねるのも具合が悪い。
一度嫁にどちらの意味で言っているのか訊いてみようと思うが、訊くのが恐いようでもある。
2005年1月12日