ハリー・ポッターと秘密の部屋
昨年の大ヒット作『ハリー・ポッターと賢者の石』の続編。主人公ハリーはホグワーツ魔法魔術学校の2年生に進級するが、そこでは前作以上の危険と冒険が待ちかまえていた……。新しいキャラクターが登場したりしているが、スタッフとキャストはほぼ原作通りの布陣。前作同様、映画1本でホグワーツの1年間を描いていく構成なのだが、これで2時間41分は少々中途半端な上映時間だと思う。ある程度まとまりのあるエピソードを時系列につなげていくのだが、それがスムーズなひとつの物語として流れていかないのだ。
本当なら原作を思い切って大きく刈り込み、ひとつのモチーフで一本筋を通しておいてから他のエピソードで全体を肉付けしていけばいいのだが、何しろ原作通りの構成で前作が大ヒットしてしまっため、今回も基本的には同じ路線を踏襲したらしい。ストーリーの流れに無関係なエピソードは割愛してしまえばいいのにそれもできず、強引に話をコンパクトにまとめようとして、かえって各エピソードが中途半端な描写に終ってしまったように思う。この構成で映画を作るなら、上映時間が3時間は必要です。
例えば今回の映画の新キャラクターであるジニー・ウィーズリー。彼女は物語の中で重要な鍵となる人物なのだが、映画前半でまるきり存在感がアピールされていないため、終盤で再登場した時はやけに唐突な印象を受ける。「ホグワーツに来てはなりません」とハリーに警告を与える屋敷しもべ妖精のドビーにしても、なぜホグワーツ行きを禁じたがるのかや、彼がどんな主人に仕えているのかというミステリーが、まったく物語の推進役にはなっていない。1作目で個性を存分に発揮したハリーの親友ロンとハーマイオニーも今回は影が薄いし、憎まれ役のドラコ・マルフォイも、三人組の後見人とも言えるハグリッドもとりあえず出てくるだけの存在。そのキャスティングが大いに話題となったケネス・ブラナー扮するギルデロイ・ロックハート先生も、本当ならもっと盛大に笑いを取れそうなのに、まったく面白くもおかしくもない。とにかくすべての人物が「原作にも出てきたので、とりあえず出てます」という感じ。
原作の読者なら誰でも知っていることだが、ローリングの書く原作小説は1作ごとにその厚みを増している。日本版の最新作「ハリーポッターと炎のゴブレット」に至っては2巻組になってしまった。この調子で原作通りの映画化を続ければ、おそらく次回作あたりで映画作品としては破綻してしまうことが目に見えている。監督のクリス・コロンバスが第3作目の監督を投げ出したのも、1作目以来の方法論では次が作れないと考えサジを投げたのではなかろうか。
今回は映画に力がないせいか、これが遺作となったリチャード・ハリスの衰えばかりが目についてしまった。そう意識してるからかもしれないけどね。
ギャング・オブ・ニューヨーク
本来は今年のお正月映画として昨年暮れに公開されるはずが、例の9・11テロの影響で公開タイミングを逃し、まる1年たってようやく日の目を見たマーティン・スコセッシ監督の大作映画。『ギャング・オブ・ニューヨーク』というタイトルから、『グッドフェローズ』や『カジノ』に通じるマフィア映画を連想したら、これはそれより100年前のニューヨークを舞台にした、愛と葛藤の大メロドラマになっていた。スコセッシの映画の中では『エイジ・オブ・イノセンス/汚れなき情事』が19世紀末のニューヨーク上流社会を舞台にしていたはずだけれど、今回の映画は時代を少しさかのぼり、ニューヨーク下層階級のスラムを舞台にしたエネルギッシュなドラマを作ろうとしている。
上映時間2時間40分という大作だが、映画としてはポイントが絞り切れていないと思う。どうひいき目に観ても、これは傑作と呼ぶには程遠い内容だ。ドラマの筋立てはシンプルなのに、なぜこうも歯切れが悪いのか。なんだかこの映画は「時代考証」に懲りすぎて、ドラマよりもセットや衣装や風俗描写の方が優先されているように思う。この映画を観ると「なるほど19世紀のNYはこうであったのか!」と目からうろこが落ちるようなシーンも多いのだが、その一方でドラマが何を言わんとしているのかさっぱり不明瞭なのもまた事実。復讐のドラマ? 疑似父子の葛藤? ラブストーリー? あるいはNYの歴史? 南北戦争裏話? アイルランド移民の悲劇? スコセッシは2時間40分という時間の中にこうした諸々の要素を一気にぶち込んでしまうのだが、その中のどれがメインなのか、僕にはよくわからなくない。
ただしこの映画が凡作や駄作かというと、そういうわけでもない。この映画の圧倒的なボリューム感は、やはりそれだけで特筆すべきこの映画の長所だと思う。上映時間が長いだけでは、このボリュームは味わえない。丁寧に作り込まれたセットや衣装と、正確な時代考証に基づいた世界観があればこそ、この映画には映像としての厚みが出ているのだ。この分厚い映像スペクタクルを観るだけでも、この映画にお金を払う価値はあるかもしれない。特に終盤のスペクタクルは、映画館の大画面で観てこそ価値のあるものだと思う。
結局この映画の最大の欠点は、こうしたボリューム満点の映像絵巻に匹敵するだけの分厚いドラマが、映画の中で展開できなかったことにある。なぜこうしたことになってしまったのか? この映画はアメリカ人の中にある民族感情や出身国への帰属意識をひとつのテーマにしており、主人公のひとりはアイルランド系、もう一方は“ネイティブス”と自称する建国移民の末裔だ。イタリア系のスコセッシは同じカトリックのアイルランド系に大きく心理的な肩入れをしながらも、どこかで完全にはそれと同化できない距離感を感じていたのではないだろうか……。