羽根
| 砂が流れていく。 水底を滑るように。 時宗は身をかがめて、その様を見つめた。 小さな飛沫が、日に煌く。 急な流れは 移り行く空の色に似て。 遠き日の感傷が、彼の胸を突いた。 風の吹き荒ぶ 晩秋。 小さな褥の前に、正寿と福寿は並んで座っていた。 褥の中の妹は。 もう 二度と目覚めることはない、と 父が 二人に告げる。 低い声。 なにゆえ、と問うことを拒む、重い声。 福寿は不服そうな顔をして、褥に手をのばす。 小さな妹の瞼を、小さな指先で 開けようとする。 母がその手を掴んで諌める。 触れてはならぬ、と。 福寿は肩をすくめて 俯いた。 正寿は無言のまま、その仕草を見つめていた。 弟が何をしようとしたのか、彼にはわかる。 弟は きっと。 妹の瞼を開ければ、妹が生き返ると思ったのだろう。 褥に横たわった妹は、眠っているようにしか、見えない。 正寿は福寿の手をとって、部屋の外へ出た。 父も 母も 何もいわなかった。 何も いえなかった。 館の庭を覆う、淡い花。 夏の終わりに咲き出した萩が、細い枝を重ねている。 正寿は先に庭へ下り、福寿に草履を履かせると、 抱きかかえるようにして渡殿から下ろした。 その様子を数人の家人が見守っている。 六歳の正寿と、四歳の福寿。 まだ稚いこの兄弟が、人前で涙を見せないことに、家人たちは安堵した。 武家の子の振舞いは、こうでなくてはならぬ。 武士にとって死とは、常に身近にあるもの。 それに対する畏怖や嘆きは、他者の前で見せてはならぬものなのだ。 兄弟の小さな背が、馬小屋の影に隠れたのを見届けると、家人たちは 主殿に向かった。 しめやかに 葬送の支度をはじめる。 夕闇。 揺らめく炎の下。 読経の声だけが、館に響いた。 妹の魂は、どこへいってしまったのだろう。 馬屋の床に腰掛けて、正寿は ぼんやりと そんなことを考えていた。 傍らで 福寿が寝息をたてている。 正寿は 弟の寝顔を見つめ、瞬きもしなくなった妹のことを思う。 人は命尽きても、その魂が滅びることはない、とお祖父様はおっしゃった。 妹の魂も まだ この館のどこかにおるのだろう。 出ておいで。 正寿は 見えないものに向かって、そっと囁いた。 何も 応えない。 少し大きな声で繰り返すと、福寿が目を開けた。 「すまぬ。起こしてしまったな」 正寿が詫びると、福寿はきょとんとして兄の顔を見上げた。 それから ゆっくり頭を起こすと、甘えるような声で正寿を呼んだ。 あにうえ。 うん? あそこに 蝶が飛んでおりまする。 蝶? こんな風の強い晩に?と正寿は不思議に思いながら、弟の指先を追い、 馬小屋の外を見る。 そうしてすぐに 合点がいった。 ああ。そうじゃ。蝶が飛んでおる。 正寿は柔らかく微笑んで、弟の頭を撫でた。 福寿はくすぐったそうに笑いながら、兄の肩に身を寄せる。 互いの体温が心地よい。 正寿は 再び 外を眺めた。 萩の枝が、風にあおられて揺れている。 その枝についた無数の白い花片。 まるで羽根のようだと、正寿は思う。 もしかしたら あの中に 妹の魂がおるのかも知れない。 正寿は しばらく、萩の花を見つめた。 闇の下。 風が 音をたてて 吹いている。 水面が 煌いて。 時宗は過去から、現在にかえった。 弟と二人きりで過ごした、初めての記憶。 人の死を知ったのも、この時が初めてだった。 時宗は 足元に視線を落とす。 僅かな時を生きた妹。 先に逝った 弟。 その温もり。 己の命は、それらに生かされているのやも知れぬ。 時宗は視線を上げ、背筋を伸ばした。 川沿いを歩いて、館へ戻る。 幽かに響く せせらぎ。 日は徐々に傾き、彼の後を 細い影が追っていった。 しぐれ/2003.03.01 |
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