蓮の糸・前篇
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霧の如く。 細かい雨が木立を揺らし、枝葉から滴り落ちる。 時宗は参道を上り、三ノ鳥居を降りかえった。 常ならば、その視線の先に、家並みと前浜、青々とした海原が広がっている。 だが。 今、そこにあるのは、一面の薄墨色の世界。 水平線が霞み、空と海との境が消えている。 まるで溶けあってしまったかのように。 この光景は、浄土だろうか。 時宗は目を伏せる。 それから不意に、踵を返した。 弘安六年。 元皇帝クビライは、廃止していた日本行中書省を復活させ、高麗国王を 左丞相、阿塔海を右丞相に任じ、二人の将軍を起用した。 三度目の日本遠征を行うためである。 高麗と元の領内各地で合計三千艘の船の建造を命じ、遠征時期は同年 八月と定められた。 しかし、この遠征は実現しなかった。 元支配下の幾つかの王朝が、反乱を企てていたからである。 同年五月。 クビライは、高麗に 征日本遠征休止を告げた。 雨は降り止まず。 昼間だというのに、外は宵闇のように薄暗い。 顕時は、小町の得宗家公文所で、書状を調べていた。 元軍の動向に関しては、高麗の沿岸で暗躍する海賊船や、商人たちから 確かな情報を得ている。 石塁の修築、長門や博多湾の警固番役。 防御も怠りなく続けている。 御家人を統括し、鎌倉幕府集権を確固たるものにすること。 重要なのは、統治であると、顕時は考えていた。 故に。 所領、特に西国における所領の裁判は、戦後恩賞地の分配と絡んで 慎重に行わなければならぬ。 御家人に対する訴状や、領地の把握。 法的問題は、尽きることがない。 ふと、燭台の灯りが揺らぎ、顕時は仕事の手を休めた。 格子戸ごしに、香が漂っている。 戸は中庭に面しており、得宗家主殿の向かいである。 数日前に、宗政の三年忌が行われたばかりだった。 それすら、遠く感じている己に、顕時は苦笑した。 疲れている。 心底 疲れている。 顕時は腕を伸ばし、大きく息を吸った。 更に深く 外気を吸おうとして 渡殿に出る。 すると、得宗家の家人と はちあわせた。 「慌てておるようじゃが?」 「いえ、あの…」 家人は額に汗をかきながら、顕時に尋ねる。 「時宗様は、こちらにおいでではは ありませぬか? 先刻から館の何処にも おられないのです」 「いや。こちらには、見えておらぬ。何かあったのか?」 顕時は 相手の顔を見据えて言った。 家人は憚りながら、応える。 「お身体の具合が 思わしくないのです。 外出は控えるよう、薬師にいわれておるのですが」 「館を出られたようじゃな」 「はい…馬は繋がれたままなので、近くにおられるはずなのですが 見つかりませぬ」 困り果てた表情。 顕時は、すぐに察した。 時宗が 家人に無断で行動することは、稀なことなのだろう。 とはいえ、騒ぎ立てる必要はない。 顕時は、毅然とした口調で 家人に命じる。 「それがしに、心当りの場所がある。夕刻までに、時宗殿を連れて参ろう。 表沙汰には せぬように配慮してくれ」 家人は はっと短く応じると、一礼してその場を去った。 雨音が、やけに大きく響く。 広げた書状を手早く片付け、顕時は 公文所の外へ出る。 灰色の空が、何処までも 彼の頭上を覆っていた。 しぐれ/2002.12.12
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