波の花 2
|
『目を開けるでない、宗政』 低く、厳しい父の声。 思わず身体を震わせ、目を閉じる。 最明寺の伽藍。 父を前に、兄弟三人で座禅を組んでいる。 格子の間から 差し込む外の光。 『鎌倉は、良き処じゃ。こうしておれば、何処からでも潮騒が聞こえる』 父は穏やかに語った。 他のことに気を取られている所為か、宗政には 何も聞こえない。 兄上には 聞こえているのだろうか。 真横を見ようとして、慌てて背筋を伸ばす。 座禅一つ集中できないとは、なんと自分は幼いのだろう。 そこで宗政は、はたと気付いた。 自分は夢を見ている。 父は亡くなり、長兄はこの国にはいない。 真横にいた兄上は。 兄上は? 視界が霞み、彼は再び記憶の底に落ちた。 空から雪が舞降りる。 最明寺の庭は、白く凍りついている。 漆黒の柱。回廊。 宗政は駆け出したいのを、必死でこらえていた。 離れに 兄上がいらっしゃる。 しかし、会ってならぬと、母上は言う。 時宗は痘瘡を病んでいる。治癒するまで、誰にも会わすことはできぬ。 何ゆえ、と宗政は呟いた。 何ゆえ、兄上を一人きりにするのですか。 病をうつさぬためじゃ。 母は毅然として言い、父は薬師を呼ぶと、何事もなかったように政務に戻った。 正月は、儀式も多い。 長兄の時輔も、御所に参上していて不在だった。 宗政は周囲の大人がいなくなると、すぐに離れに向かった。 病など、うつっても構わない。 兄上を、一人きりにはしとうない。 宗政は、固く閉ざされた離れの戸を開ける。 薄暗く、湿った室内。 「兄上」 宗政は褥に跪いて、呼びかけた。 応えはない。 小さな兄の貌に、無数の紅い痕が見える。 熱で苦しげに揺れる肩。 痛みをこらえているのか、目の端から涙が流れている。 「兄上」 宗政は、怖くなった。 このまま、死んでしまうのだろうか。 「兄上…兄上!」 目が覚めた。 妻が額の汗を拭い、いたわるように、聞いてくる。 「宗政さま。お身体の具合は、如何ですか」 「…大丈夫じゃ。評定は」 「評定は日を改めることになりました。それより、よく休んでくださりませ。 また倒れてしまっては、時宗さまの足でまといになりまする」 「芳子」 宗政は、苦笑した。 気の強い妻は、心配を表に出さない。 「すまぬ。このまま眠る故、そなたも休め」 宗政はそう言うと、目蓋を深く閉じた。 不安を抱えていると、悪い夢ばかり見る。 兄上の病は回復し、痘痕も残さなかった。 自分の心配は、杞憂に終わったのだが。 真に杞憂だろうか。 兄上が痘瘡にかかったのは、自分が十一の時だった。 あれから十八年が経つ。 兄上は執権になり、内なる戦、蒙古との戦が続く中で、非情になった。 夜叉の仮面。 兄上が反抗し続けた、父・時頼の姿に似ている。 兄上も自覚しているに違いない。 父上は最期まで、鎌倉の頂に立っていた。 兄上もきっと、そうするだろう。 >>3 しぐれ/2002.04.27
|