波の花 3




舅の政村が、自分の顔を覗き込んでいる。
ああ…また夢を見ている。
意識の何処かで起きようとするが、身体が動かない。

「人の上に立つのは お嫌いか?」
「一生時宗殿の影でご満足か」
政村の言葉は、遠慮がない。
嫌味なことを、承知で聞いてくる。
「もし宗政殿にその気があらば 動いてもかまわぬぞ」
「連署のわしとて 婿が執権の方が何かと勤めやすい」
「何を!」
宗政は、つい、声を荒げた。
政村は、にやりと笑って言う。
「心配は要らぬ。何も時宗殿を引きずり下ろそうというのではない。
穏やかに代わって頂く策は幾らもある」
「お願い致します、父上」
宗政を横目で見て、芳子が口を挟む。
「父上は北条一門の最長老にござります。父上にお任せすればよいのでござります」
宗政は、自分に触れようとする芳子の手を払った。
「されど」
宗政の抗議の言葉を遮り、政村は続ける。
「こう見えて宗政殿はなかなかの鎌倉武士じゃ。こ度の戦でも見事な働きをされた。
わしに任されよ、婿殿。悪いようにはせぬ」

宗政は悩んだ。
されど。
兄上は、最も尊敬し信頼していた長兄を、自ら葬った。
弟としての心を捨て、執権として生きることを決めた。
自分には、そのようなことは できぬ。
時宗の前で、宗政は誓った。
「それがしは 裏切るつもりはござらぬ」
「また兄弟が政事を奪いあうことなど、絶対にできぬ」

これは、夢ではない。
浅い意識の下、宗政は思う。
これは、過去の記憶。
今も、その意志は変らない。
現実は醜く、苛酷な日々が続くけれど。
自分は、執権・北条時宗の弟として、一生幕府を支えていきたい。


「宗政さま!宗政さま、しっかりしてくださりませ!」
芳子が取り乱している。
「…如何した?」
宗政は目を開け、妻の顔を見た。
「宗政さま…」
芳子は泣いていた。
  滅多なことではない。
何があった、と言おうとして、妻を泣かせているのが自分だと気付いた。
そうか。
わしは、先が短いらしい。
「泣くな、芳子」
頬に手をのばして、涙を拭う。
涙はとめどなく溢れて、宗政の手を濡らす。
彼は微笑んで、芳子に言った。
「まだ大丈夫じゃ。…だが、わしの願いを聞いてくれるか?」
「はい。何なりと申してくださりませ」
芳子は息を詰め、夫を見つめた。
「師時を、兄上の養子にしてくれ」
芳子は一瞬驚き、そして微笑んだ。
「承知いたしました。時宗さまも、お喜びになるでしょう。
貞時さまに、弟ができるのですから」
素直な気持ちだった。
夫の望みは、妻の望み。
芳子はもう、泣いてはいなかった。
夫を喪っても、私には子どもがいる。
母として、しかと生きていこう。
「…すまぬ」
力なく呟く夫に、芳子は言った。
「まだ大丈夫と、ご自分で申したではござりませぬか。気をしっかりもってくださりませ」
宗政のやつれた顔にも、笑みがこぼれた。
「そうじゃな」


閏七月。大風雨により、江南軍と東路軍の大半は、鷹島海上で覆没する。
その後、鷹島一帯では、敵の残党を全て討ち滅ぼす作戦が行われた。
元軍の捕虜は博多に運ばれ、そこで斬り殺された。
同月末日。長門・周防の守護に、北条師時が就任する。

「父上」
宗政がまどろみから目覚めると、師時が枕元に座っていた。
「それがしは、戦場に立ちました。武士として、誇りをもって戦いまする」
無論、実戦ではない。
しかし、宗政は、息子が政事を戦と捉えたことが嬉しかった。
彼は肯き、師時に微笑み返す。
息子は一礼すると、父の部屋を出ていった。
入れ替わりに、時宗が現れる。
「兄上…」
宗政は悟った。
多忙を極める執権がここに参ったということは、自分の刻限が残り僅かということだろう。
時宗は褥の傍らに、静かに腰を下ろした。
宗政を見つめたまま、声を失っている。
「兄上」
宗政は、白い歯を見せて笑った。
凍りついたような時宗の貌も、つられて少しほころんだ。
所在なく置かれた兄の右手。
色素の薄い、細い指先に、朱がにじんでいる。
宗政は両手でそれを包むと、兄を見上げた。
…経を、血書していらしたのですか。
時宗はかすかに肯き、弟の名を呼んだ。
「宗政」
「はい」
「師時のこと、真によいのか?」
「はい。芳子も喜んでおりまする」
「芳子殿が?」
「兄上、芳子は兄上を憎んではおりませぬ。師時を貞時殿の弟として見守ると、わしに申しました」
「…」
時宗の瞳が濡れ、宗政は切なくなった。
芳子はかつて、自ら戦地に向かわぬ時宗を、糾弾したことがある。
夫を思うあまりの言動とはいえ、執権としての時宗の立場を、何も慮っていなかった。
芳子だけではない。
得宗家にゆかりのある女性は、時宗の政に対し、批判的な者が多い。
母・涼子は、実の兄を討ったことを責め、髪を下ろした。
義姉にあたる梨子は、こう問うたことがある。
時宗さまの政事は、一体何人の命をお望みなのです?
武士の存在意義は戦にある。
幕府の政事を否定すれば、その存在も揺らぐ。
梨子の言葉は、武家の者として、本来言ってはならぬもの。
だが、それらの批判を、この兄は真直に受けとめている。
愚かなほどに。
その純粋さを人は偽善と言い、兄を憎むのかも知れない。
されど。
「兄上」
宗政は両手に力をこめ、兄の手を握った。
「師時を、頼み申す」
時宗はその手を握り返し、しっかりと肯く。
兄が声を出さないのは、嘘を恐れているからだと、宗政は直感した。
…永くは、生きられない。
兄の瞳の中に、闇が見える。
宗政は、むしょうに哀しかった。
この人は、己が地獄に堕ちると信じている。
多くの者を戦に巻きこみ、殺め、苦しめてきたことによって。
だが、そうしなければ守れないものも、確かにあったのだ。
如何に無様な、非道なやり方であったとしても。
宗政は、兄の貌を見つめた。
自惚れかもしれないが、兄の考えは自分が最もよく知っている。
実の兄に続き、実の弟も死地に陥れた。
地獄に堕ちて、当然だ。
瞳の闇は、そう語っている。
…違う。
宗政は、訴えた。

兄上。人は 地獄になど、堕ちませぬ。
人は 生まれ出る処へ 還るのです。
何もない、世界へ。

彼は微笑んで、目を閉じた。
時宗の頬を涙が伝い、重ね合わされた手の上に落ちる。
昏睡する弟。
芳子を枕元に呼んで、時宗は部屋の外へ出た。
さほど寒くもないのに、肩の震えが止まらない。
何故震えるのか考え、時宗は漸く、自分が泣いていることに気付いた。
弟に握られた手は、まだ温かい。
時宗は家人に気付かれぬよう、無言のまま館を去った。

弘安四年八月九日。
日は高く昇り、空は澄みわたっている。
遠い博多から、鎌倉に勝報が伝えられ、鶴岡八幡宮遷宮の支度も整ったこの日。
北条宗政は 他界する。
法名、道明。
戦の勝報を聞くことは、遂に叶わなかったが。
幽冥の境で、彼は、確かに、潮騒の音を聞いた。



しぐれ/2002.04.27

>>注記

>>あとがき


 
目次 TOP 時系列