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+++ 山鳥の羽音が、夜明けを告げる。 義宗は、傍らの妻を気遣いながら、褥から身を起こした。 身体が重い。 首筋にかいた汗を、手で拭う。 己の手の冷たさに、息を飲む。 病が、ここまで進んでいるとは、気付かなかった。 義宗は、そっと、妻の寝顔に視線を落とす。 あどけなさの残る、頬。 妻も、息子も、まだ幼い。 己は。 まだ、命絶つことはできぬ。 義宗は 静かに衣を整え、寝所を出る。 微かな衣擦れの音が、妻の耳には、羽音のように聞こえた。 その日の寄合は滞りなく進んだ。 夕刻。 公文所を訪れた義宗は、そこで顕時と言葉を交わした。 顕時は 書状から手を外し、義宗の顔を見つめる。 「何か、虫でもついておるのか?」 笑いながら義宗が尋ねると、顕時は言った。 「病んだ目を、している」 「…」 義宗の笑みは、一瞬で消えた。 もはや隠しようがないのかも、知れぬ。 だが。 政の場でも、家族にも、打ち明けたくは、ない。 この痛みは、己が招いたものなのだ。 「顕時殿。皆には黙っていてくだされ」 義宗は固い口調で続けた。 「それがしは、執権殿に詫びに参る」 「詫び?」 顕時は怪訝な顔で、義宗に問う。 「何を詫びるというのじゃ。時輔殿のことならば、既にわしが手を 打った。 義宗殿が責めを負うことなど、ない」 「否。それがしは、責めを負わねばならぬ。執権殿の命に背いた ことは、得宗に対する反意と見なされても 仕方のないことじゃ。 それがしは、己を偽っておった。 執権殿の前では、もう、嘘はつきとうないのじゃ」 もう、という嘆きに、顕時は胸をつかれた。 幾年もの間、己の偽りに心を苛まれていた、証である。 顕時が声を失ったのを見て、義宗は苦笑した。 正直に生きることは、穏やかなことではない。 「顕時殿、すまぬ。」 義宗はそう呟いて、公文所を去った。 顕時は唇を噛んだまま、その場に立ち尽くた。 強く噛み過ぎて、蒼くなっていることにも気付かずに。 山内亭の庭は、香が漂っている。 誰が焚いたのであろうか。 義宗は歩みを止め、記憶を辿る。 ああ。 義宗の顔に、似つかわしくない笑みが浮かぶ。 これは、それがしの父の為の香だ。 執権殿が 自ら焚いたのであろう。 父の命日は、葉月二十一日。 まだ十日ほど早いが、他には、思いつかぬ。 義宗は乾いた声で、家人に告げる。 「執権殿に会いに参った。取り次いでくれ」 家人は一礼すると、義宗を主殿に案内した。 主殿の灯りが、薄暗い渡殿を照らしている。 戸の前で、義宗は姿勢を正す。 開いた戸の奥に、筆を手にした時宗の姿が見えた。 「何を 書いておられたのござる?」 杯を手に、義宗は尋ねた。 時宗は、涼しげに微笑んで応える。 「祖元殿の遺偈じゃ」 「遺偈…」 義宗が視線を落としたのに気付き、時宗は補足する。 「御堂で兵士に囲まれた時に詠んだ句だという。 祖元殿の身がこの異国の地にあるのは、その時兵士どもに斬られなかったからであろう。 それがしは、その者どもに 礼をいわねばならぬのかも知れぬ」 時宗の口調は穏やかで、何の含みもなかった。 しかし、この時の義宗には、苦いものに感じられた。 「執権殿」 義宗は、時宗の顔を見上げた。 悲鳴のようなその声に驚き、時宗は義宗の肩に手を添える。 「如何したのじゃ、義宗殿?」 「それがしは、執権殿に偽りを申した」 「偽りなど…。兄上の討伐のことなら、義宗殿の判断に感謝しておると申した。 わしを諌めてくれる者は、義宗殿の他におらぬ。 政の為の偽りならば、憚らずともよい。気になさるな」 「政の為では ござらぬ。 それがしの弱い心が、偽りを申した。 時輔殿は、武士として全うされたのでは、ござらぬ。 時輔殿は、炎の中で、こう申された。 『そなた…何もわかっておらぬ』と。 この言葉、執権殿に申されたのであろう。じゃが、それがしは それを伝えなかった。 伝えられなかった。許してくだされ」 顔を伏せて、義宗は泣いた。 無様だと、思う。 泣きたいのはそれがしではなく、執権殿の方だ。 この傷み。 執権殿は、時輔殿の絶望を、今受け止めたのだと思う。 両肩に温もりを感じ、義宗は顔を上げた。 時宗は、泣いていなかった。 まっすぐに義宗の顔を見つめ、微笑んでいる。 よう、話してくれた。 そう、瞳が語っている。 義宗は 涙を拭った。 正直に、愚直に打ち明けたことを、悔いてはいない。 義宗は、時宗の瞳を見つめ返した。 執権殿は、心の 強い 御方じゃ。 従者の腕に支えられて、義宗は館の外へ出た。 木槿の枝が、夜風に揺れている。 香は 消えたようだ。 胸の傷みも、苦さも、全てなくなった訳ではない。 だが。 義宗は、己の身に誓った。 遺された日々を。 幕府・評定衆の務めを。 命を、全うしよう。 月のない夜空の下、赤橋の館に向かって義宗は歩いた。 頬をかすめる風を、彼は 心地よく感じた。
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