侵蝕

鎌倉御所の紅梅の庭。
宗尊将軍の趣向で選ばれた者が、蹴鞠に興じている。
北条時輔は妙技を披露し、周囲から感嘆されていた。
だが、彼の表情は冴えない。
「何や、時輔。鞠は其方の得意やあらしゃいませんか。もっと晴れ晴れとおやりなされ」
「は。」
一礼し、再び人の輪に加わったものの、気乗りがしない。
時輔は鞠をやり過ごし乍ら、将軍取り巻き連中の話に耳を傾けた。

「ほう。高麗の薬師に陰明師とな」
「只の病では、あらしゃいませんな」
「最明寺殿が自ら隔離して、誰にも会わせぬようにされたとか」
「ほう。最明寺殿にも、恐ろしきものはあるようやな」
「先の上皇様の祟りやも知れませぬぞ」
「ふほほほ。北条さんに報いがあって当然やな」
「御所様、それはお言葉が過ぎまする…」

執権・長時が、苦い顔をした。
時輔は虚空に向かって、高く、鞠をつく。
新たな年になり、彼は歳を数えた。
齢十六。
最明寺時頼の子息とはいえ、将来彼が得宗家を継ぐことは、おそらくない。
嫡男である弟が、生きている限り。
時輔は天を仰ぐ。
空は薄い雲に覆われ、光は見えない。
彼は、弟を慮った。
年の暮れから、一度も姿を見ておらぬ。
新年の椀飯、御行始、的始、全てに欠席し、小侍所にも出仕せず。
嫌な、予感がする。
時輔の頬に、冷たい雫があたる。
瞬く間にそれは降り積もり、物音を沈めていった。

「時輔さま、お寒うはござりませぬか?」
戸を開け放した夫に向かって、祥子が声をかける。
応えは、ない。
祥子はそっと、彼の背に身を寄せた。
「祥子?」
少し慌てたように、時輔は妻を振り返る。
「時宗さまのことを、考えておられたのですか」
「…」
時輔の瞳が翳る。
彼は打ち消すように、妻の頬を寄せ、唇を重ねた。

白い世界。
雪は地上の全てを 覆い尽くす。
咲いたばかりの梅の花弁が、その重さに耐えかねて、落ちる。
時輔は最明寺の渡殿を歩いていた。
一体、何をしに参ったのか。
気付けば、病人が伏せる間の、近くに立っていた。
「あ…」
末弟の宗政が、彼の姿を見、言葉を飲み込む。
時輔が鋭い視線を向けると、宗政は怒ったように顔を背けた。
泣いている?
宗政の頬が濡れるのを、時輔は見逃さなかった。
いつもは敵意を隠さない末弟が、何も言わずに彼の横を通り過ぎる。
泣くほどの事か?
時宗に会えぬ事が。
宗政の姿が主殿に消えるのを見定めて、時輔は戸を引いた。
外界から遮断され、湿った間に、小さな風が立つ。
奥の間から漏れる、細い呻き声。
時輔は素早く戸を締め、足を踏み入れた。

薄暗い闇の中、褥が白く浮かんで見える。
屍のように。
僅かに軋む床の音。
「誰じゃ!」
凛とした、しかし掠れた声で、病人は侵入者を制した。
「入ってきては、ならぬ。…立ち去れ」
その声色に含まれた、他者を寄せ付けない気高さ。
時輔は結界に阻まれたように、立ち竦む。
抗うように弟を見遣ると、弟は袖で顔を覆い、俯いている。
「早う、立ち去れ」
褥に包まれた躯は、枝のように細く、痛々しい。
時輔は怯まず、弟に近づいた。
袖の端を掴んだ指が、微かに震えている。
跪いて、その袖に腕を伸ばす。
気配に気付いた弟が、逃げるように身を捩る。
知っておるのか。
其方の病が、死に至る病だということを。
時輔は袖の上から、弟の手首を掴んだ。
「…ッ」
痛みをこらえる、声が漏れる。
時輔は無理やり袖を外し、弟の顔を見つめた。
薄い肌を滴る、涙の痕。
頬は熱で紅く染まり、瞳は潤んでいる。
乱暴をしている者の正体に気付き、怯えたように見上げてくる。
兄、上?
時輔は、口の端に笑みを浮かべた。
苦しいか、時宗。
彼は乾いた声で呟くと、掴んでいた弟の手首を離す。
白い袖が軽い音を立て、落ちる。
やつれた己の顔を恥じるように、弟は両手で顔を覆った。
「哀れじゃな」
時輔は、おかしくて仕方がない、とでもいうように嘲う。
「その様子では、もう外に出ることもなかろう」
残酷に言ったつもりだが、弟は何の反応も示さない。
よく見れば、呼吸すら困難なようで、肩が不規則に揺れている。
顔を覆う指の間から、吐息が白く漏れる。
病人の部屋にしては、ここは冷えきっている。
火も入れられぬのか。
時輔は、苛立った。
痘瘡は人に感染し、その躯を蝕む。
然れど。
何もかも遠ざけられた、この場所は。
時輔は、唇を噛む。
光ある処、望むもの全てを与えられてきた弟には、不似合いな場所だ。
燭台一つ、無く。
夜の底に沈んだような、冷たさ。
幼さの残る弟の身には、耐え難いものだろう。
だが、己には。
時輔は、自分を省みた。
母の死以来、身に纏う喪服。
幼名を奪われ、付けられた名は、弟の影を意味している。
親の情も、長男としての誇りも、何もかも奪われてきた。
この場所は、この闇は、己にこそ相応しい。

時輔は静かに立ち上がり、庭に面した格子戸を開ける。
雪明かりとともに、外気がさす。
と同時に、時宗が激しく咳き込んだ。
時輔は思わず、その背に手を伸ばす。
夜着の小袖に透ける、白い肌。
優しく摩るうちに、昏い欲望が湧いてくる。
時輔はその細長い指を、弟の首筋に這わせた。
苦しく喘ぎながら、時宗は兄を見る。
いつもの、悲しげな瞳の中に見えるのは、殺意。
はっとして、兄の指を払う。
時輔は顔を歪めた。
拒むのか。
このわしを。
時宗は震え、否定する。
ならば、わしを止めるな。
時輔は骨張った両手を弟の喉にまわし、強く締め上げた。
「ッ…」
喉元に食い込む爪。
血の気を失い、弟の顔は、既に蒼白になっている。
楽にしてやろう。
時輔は呟いた。
これ以上苦しまぬように。苦しめぬように。
時輔は漸く、己の想いに気付いた。
弟が憎い。
傍にいて、守ってやりたいほど、憎い。
白い首筋に爪を立てながら、時輔は泣いた。
治る見込みのない病に苦しむくらいなら、己の手で最期を遂げてやろう。
遠く渡殿が軋む音がして、彼は我に返った。
父上か。
いや、構わぬ。
時輔は 覚めた頭で願った。
斬られる前に、二人、果てればよい。
時輔は再び両手に力を込め、弟の細い、息の根を止める。

淡い雪明かりが、兄の濡れた輪郭を、そっと照らし続けていた。

しぐれ/2002.05.26

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