- 蒼來 -





虚空に向かって 放たれた一本の矢。
切れた弓の弦が、風を鳴らす。
あの、瞬間にも。
わたくしの頭上には、空があった。
運命のように。



渡殿を伝う 衣擦れの音。
戸を隔てていても、それが誰のものであるか、
涼泉尼には わかっていた。
娘の頃から 己の傍らにいる、唯一の侍女。
夫である執権が、
己が両親と一族を討ち果たしてからも
己が、
息子へ戒めのために髪を下ろしてからも
ただ 穏やかに、仕えてくれている。
そして 今。
己の身を気遣い、戸の前に そっと佇んでいる。
涼泉尼は 瞼を閉じた。
彼女は おそらく 息子の言葉を伝えに参ったのだ。
息子の最期を 見届けなかった 愚かな母のために。


「喜々」
と、涼泉尼は 彼女の名を呼んだ。
「はい、御方さま」
戸の向こうで、いつもの たおやかな声がする。
涼泉尼は、彼女に問う。
「時宗は 何と申したのじゃ」
と。
僅かに 空いた間。
喜々が 少しとまどう様を 知りながらも 
涼泉尼は その答えを待った。
やがて 喜々は 覚悟を決めたように、
しかし おっとりした口調で 言葉を紡ぐ。

「時宗様は、祝子様に

『許せ』

と 申されたそうに ござります」



涼泉尼は 思わず 目を見開いた。

『許せ』、と。

そう、あの子が申したのか。

抑えていた透明な感情が、母の頬を伝う。

『許せ』

涼泉尼は 撃たれたように その場に立ち尽くした。




あの日 放った矢は、的から 大きく外れた。
心の揺れを 見透かしたように。
同時に 迷いも消えた。
そのまま最明寺に向かい、御簾ごしに夫と相対する。
毒におかされた 夫の身体。
御簾を隔てていても、その衰弱が伝わってくる。
わたくしは あの人に告げた。

『わたくしは 殿を 父と母の敵と憎んで参りました』
『然れど。
 殿の死を願うたことだけは ありませぬ』

あの人は わかっておる、と答えた。
それから。
長年連れ添って 初めて、わたくしに本心を見せてくれたのだ。

『そなたに詫びることは 
あの戦が過ちだったと認めることじゃと思うておった』

『人の命を奪う限り
戦は過ちと決まっておるのに』

『すまなかった』

そうして 縋るように わたくしを抱き寄せ、嗚咽に漏れた 
あの人の言葉。

『涼子。許せ』

『許せ』


 

執権という業を背負って生まれ、生きてきた我が子

時宗。

北条の政に、蒙古との戦いに
命を尽くして  この世から去った。
わたくしは 母として あの子に 何を成したであろうか。
何も成し得なかった この母にも
あの子は やさしい言葉を遺して 逝ったのだ。

亡き夫と 同じように。

涼泉尼は、白い袖で 涙を拭う。

濡れた その瞳には

残酷なほど 蒼い空が 映っていた。

遠く

果てしなく。



2003.04.04/しぐれ

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