睡花



漆黒の渡殿の上を、ぱたぱたと駆ける音。
衣を整えていた涼子の部屋に、飛び込んできたのは、元服したばかりの宗政だった。
「母上!兄上はたいした腕でござる!将軍様の目の前で、小笠懸を射とめられるとは!」
涼子は薄く微笑んだだけで、何も応えない。
宗政は、母の横顔を見つめて言う。
「褒めてさしあげないのですか?」
涼子はそれにも応えず、仕事を続けている。
いつもと様子がちがうことに漸く気付き、宗政は侍女の方を向く。
「何かあったのか、喜々?」
喜々はおっとりと顔を上げ、宗政に応える。
「まあ、何と申しましょうか…祝子殿がご実家に帰ってしまわれたのでござります」
その言葉を聞いたとたん、宗政は大声で言った。
「よいではありませぬか。得宗家の家督たる兄上のこと、嫁御の代わりなど、幾らでもおりましょう」
涼子はたしなめるように宗政の肩を掴み、自分の正面に座らせる。
「宗政、結婚は軽軽しいものではない。それに、時宗のことでそのように騒いではならぬ。
時宗の影で、時輔殿がどのような思いをしておられるか」
母の厳しい口調に、項垂れる宗政。
そこへ慌ただしく、讃岐局が現れた。
時輔の母・讃岐局は、鋭い視線で涼子を見下ろす。
喜々は即座に衣を片付け、宗政の手を引きながら席を外す。
部屋には、険悪な表情の讃岐局と、感情を隠したままの涼子だけが残った。


離れの縁に腰をかけ、両足を揺らしながら宗政は考えた。
何ゆえ母上は、兄上を褒めてさしあげないのだろう。
嫡男である兄上が、時輔兄上の上に立つのは、あたりまえではないか。
何ゆえ讃岐殿は、兄上を目の敵にするのだろう。
兄上は讃岐殿のことを、母上と同じように大切に思っておられるのに。
宗政は、不満だった。
母上も讃岐殿も、兄上のことを、何もわかっていない。
父上と母上が別れて暮らしていること、母上と讃岐殿がいさかうこと、寂しく思われているに違いないのに。
宗政にはわからなかった。
夫婦のこと、正室と側室の差、親の心。
わからないし、とても不満ではあったが、彼はそれを、周りの大人に尋ねたりはしなかった。
聞けば、喜々はやんわりとはぐらかすだろうし、母上も応えてくれないだろう。
  宗政は、悲しくなった。
兄上に会いに行きたい。

宗政とその兄時宗は、同じ涼子の息子でありながら、戯れる機会がほとんどない。
幼き頃より宗政は母と、時宗は最明寺で父と暮らし、兄弟の元服後は、互いの館を訪れることも少なくなった。
それでも、不思議なほど、宗政は時宗に懐いていた。


その日の夜。 甘縄の安達邸が、炎に包まれた。
身を寄せていた讃岐局が、館に火を放ったのである。
館の一室では、時宗の妻・祝子が眠っていた。
火の回りが速く、柱は次々と燃え上がり、出口を塞ぐ。
祝子は一人、逃げ遅れていた。
「助けて!」
煙に咳込みながら、必死に叫ぶ。
烈火に足がすくんで、思うように歩けない。
恐い。誰か…誰か
「助けて!」
讃岐は、はっと我にかえった。
時輔の声がする。時輔が、我が子が助けを求めている。
讃岐は身を起こし、迷わず、炎上する館に飛び込んでいった。
「讃岐殿!」
館の主・安達泰盛も、燃え上がる炎の中に入り、後を追う。
猛火は既に、祝子の眠っていた場所を焼き尽くていた。

「助けて…」
意識が少しずつ 遠のいていく。
もう、歩けない。
諦めかけた祝子の目の前に現れたのは、讃岐だった。
讃岐はすぐ様、祝子を背負う。
「時輔、助けてやりますよ。時輔…時輔…」
両手でしっかり祝子を守り、出口を探す。
そこに、泰盛が現れ、讃岐の背から祝子を預かる。
脆く、危険なその場所から、三人で離れようとした時だった。
柱が崩れ落ち、讃岐の身体はその下敷きになった。
讃岐の名を叫び、助けようと手をのばした泰盛を、彼女は拒絶した。
早く、逃げて。
炎は高まり、煙は呼吸を奪う。
讃岐は身を伏せたまま、
「後生じゃ」
と訴えた。
泰盛は涙を飲んで、その場を立ち去る。
安堵したように、目を閉じる讃岐。
火は風を呼び、大きな音をたてて一層燃えあがる。
館が崩壊したのは、祝子を抱えた泰盛が、外に出たのと同時だった。


翌朝。
讃岐の遺体は最明寺に運ばれ、安達の家の者は、別邸に移った。
祝子は時宗の館に戻り、夫に詫びた。
時宗は祝子の手をとり、そっと微笑む。
もしあのままそなたと会えなくなったら、わしは一生後悔したであろう。
時宗はそう言って、祝子の瞳を見つめる。
ままごとのような二人の関係が、少しずつ、大人の夫婦に近づいていく。

その晩。 涼子の館では、宗政がふてくされていた。
涼子は最明寺に出かけたまま、未だに帰らない。
宗政は渡殿に座り、呆っと夜空を見上げた。
下弦の月が、蒼白く光っている。
「退屈じゃ」
呟いてみても、何も変らない。
部屋に入ろうとして、ふと庭を見ると、そこに思わぬ人影があった。
「兄上!」
薄暗がりの中、楓の木の下に、時宗がたたずんでいた。

「兄上、いつここへ参られたのですか?」
「今来たばかりじゃ。宗政は目ざといな」
時宗はそう言って、優しく微笑む。
まとわりついてきた宗政の手に自分の手を任せ、「母上はどちらに?」と訪ねると、宗政はとたんに不機嫌になった。
「朝から出かけておりまする」
「…。」
行き違いになったのだろうか。
時宗は表情を曇らせ、宗政に詫びる。
「すまぬ。また日を改めて参るので、母上が戻られたらそう伝えてくれ」
「嫌じゃ。」
宗政は頬をふくらませる。
時宗は苦笑すると、なだめるように言った。
「如何したのじゃ、宗政。元服したのだから、駄々をこねてはいかぬぞ?」
「嫌といったら嫌でござる。何ゆえ兄上は、母上とばかり会われるのですか。それがしでは話にならぬのですか」
泣きそうな顔で、宗政は時宗の顔を見つめる。
時宗は観念して、館に上がり、宗政の部屋へ入った。

近習が燭台に灯りをともす。
普段ならば眠る時刻だが、宗政は、兄上と話をするから邪魔をするなと言う。
わがままに慣れているのか、近習は何の感情も見せなかったが、時宗は気が咎めたらしく、宗政を目で諌めた。
宗政は不満気な顔をしながら、もう遅いから下がれ、と言い直す。
近習は一礼して、部屋を出ていった。
「兄上。母上と何の話をしに参ったのですか?」
「時輔兄上のことじゃ」
「時輔兄上?」
宗政は、とたんに不機嫌になる。
「そうじゃ。兄上を許して頂きたいと思うて」
時宗は神妙な顔で、自分の落ち度のように言う。
宗政は、更に機嫌が悪くなった。
「何ゆえ母上が、時輔兄上を許さねばならんのじゃ!
母上は讃岐殿を一度も卑しめたことはなかったのに。時輔兄上の方こそ、逆恨みではないか!」
時宗は、興奮してまくしたてる弟と、情報の速さに驚いた。
今朝最明寺で起きた事件が、もうこの館に伝わっている。
讃岐の遺体の前で、時輔は涼子の弔問を拒んだ。
そして、空気を切り裂くように、時輔は言った。
母を殺めたのは、あなたのその心だと。
母は、一度も相対しようとしなかった、あなたの心に殺められたのだと。
涼子は時輔を見つめたまま、何も言い返せなかった。
それを知った時宗は、夕刻、甘縄の焼跡で時輔に会い、その足で母に会いにきたのである。
「宗政。兄上は逆恨みなど、しておらぬ。讃岐殿を一人にしてしまったことを、悔いておられるだけじゃ。」
時宗は穏やかな口調で、いいきかせるように言う。
しかし、宗政はいきりたったまま、矢のように言葉を放つ。
「ならば何ゆえ、母上を追い出したのじゃ!母上を憎んでおるからではないのか。讃岐殿も、母上を憎んでおったから、
安達に火を放ったのじゃ。兄上の嫁御の実家が苦しめばよいと思って」
「宗政!」
思わず上がった大声に、宗政は驚いて縮こまった。
時宗は唇を噛んで、目を伏せる。
確かに、讃岐殿は母上を憎んでいただろう。
正室である母上と、嫡男であるそれがしを。
なれど。
なれど、誰かを憎まずには生きていけぬほど、心の内は脆く、寂しいひとだったのではないか。
時宗は、苦しかった。
もし父上が讃岐殿を大事にしていたら、母上が讃岐殿の生き方を受けいれていたら、讃岐殿は命を断たずにすんだだろう。
時輔兄上を、絶望するほど悲しませずにすんだだろう。
時宗は眼をあけ、宗政を見た。
しゅん、と項垂れたままの弟に、柔らかく声をかける。
「讃岐殿は、祝子を救ってくださった。…もう、悪くいうな」
「申し訳、ござりませぬ」
宗政は小さな声で、かしこまって応えた。
顔を上げると、兄がにっこりと微笑んでいる。
「兄上…」
「もうよい。今日のことは忘れて、早く眠るのじゃ」
時宗はそう言って、そっと宗政の肩に手を置く。
宗政は素直に「はいっ」と応えると、直垂を脱いで、褥の横に座る。
  「兄上、もう、帰ってしまわれるのですか?」
甘えるように聞いてくる弟に、くすりとしながら時宗は言った。
「いや。もう少しここで、母上を待たせてもらう」
宗政は顔をほころばせ、安心したように褥に身を沈める。
時宗はその傍らで、静かに時が過ぎるのを待った。

遠くで梟の声がする。闇に鳴く鳥。
時宗は灯りを消し、格子の間から、外を眺めた。
月の光が、庭の木々を照らしている。
白く淡く浮かびあがるのは、咲き遅れた海棠の花。
無数の小さな花が集まって、細い枝に揺れている。
振りかえり、薄暗い部屋の中を見る。
几帳の正面に、守り神のように飾られた萌黄匂威鎧。弓矢。
時宗は、思い巡らせる。
兄・時輔は、讃岐の喪があけたら果たしあいをしようと言ってきた。
兄上と争うことなど、できれば避けたい。
されど、果たしあいを受けなければ、母上と同じように、相手を受けいれないことになる。
兄上の生と相対しよう。
今の兄上をつき動かすのが、例え憎しみであっても。
そう感じて、果たしあいを承諾した。
されど、それでも、胸が苦しい。
真の兄上は、兄上の心は、泣いているのではないだろうか。
讃岐殿と 同じように。
時宗は、再び外界を見る。
風のない闇の中で、海棠の花片だけが、蒼白く揺れていた。

しぐれ/2002.04.27


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