EYS111

Slavoj Zizek
Enjoy Your Symptom: Jacques Lacan in Hollywood and out
New York: Routeledge 1992/2001



第1章 なぜ手紙はいつも宛先に届くのか
Why Does a Letter Always Arrive at Its Destination?

1・1 死と昇華――「街の灯」の最終場面
Death and Sublimination: The Final Scene of City Lights


 声のトラウマ The Trauma of the voice

 チャプリンを「死と昇華」の徴しのもとに据えるのは、特殊で、馬鹿げたことにさえみえるかもしれない。チャプリン映画の宇宙は、崇高ではない生命力や卑俗をもって爆発する宇宙であり、死と昇華にとり憑かれたじめじめしたロマンティックなオブセッションとはまさに正反対のものではないのか。そうかもしれないが、ある特殊な地点では物事は複雑になる。すなわち、の侵入*の地点では。サイレントの喜劇、この前エディプス的な、オーラル・アナル〔口唇的・肛門的〕なパラダイス*、そこでは、死と罪などお構いなしに拘束なき貪りと破壊がある。そういう世界のイノセンス〔無垢性〕を腐敗させるのが声である。「死も犯罪も、ドタバタ喜劇の多型的世界*には存在しない。そこではクリームケーキが飛び、全面的な哄笑の真中で建物が倒壊する。この純粋な身振り性*の世界は、漫画の世界(失われたスラップスティックの代理物)でもあるのだが、そこでは主役は一般に不死であり、……暴力は普遍的で帰結をもたず、罪は存在しない」。*1
 声は、不死の連続性をもつこの前エディプス的世界に亀裂を導入する。つまり、それは絵の無垢な表面を汚す異物*として機能し、はっきりした視覚対象へ決して固定できない亡霊のような出現〔幽霊〕として機能する。そして、これが欲望のエコノミー全体を変える。サイレント映画の無垢で粗野な生命力は失われる。我々は、ダブル・センス〔二重の意味〕の、隠された意味の、抑圧された欲望の、領土に入る。――まさに声の現前こそが、視覚的な表面を、妄想的なものへ、ルアー*へと変えるのである。「映画は楽しく、無垢で汚いものだった。それが〔将来〕オブセッシヴでフェティシスティック〔物神的〕で凍りついたものになるだろう」。*2 言い換えれば、こうだ。映画はチャプリン的なもの*だった。それがヒチコック的なものになるだろう、と。
 それゆえ、声の出現、トーキー映画の出現が、ある二重性*をチャプリンの宇宙に導入するのは、偶然ではない。すなわち、浮浪者*の形象の不気味な分裂である。チャプリンの偉大な三本のトーキー映画を思い出そう。「チャプリンの独裁者」*、「チャップリンの殺人狂時代」*、「ライムライト」*。それらは同じメランコリックで痛ましいユーモアによって際立っている。それらすべては同じ構造的問題をめぐるものだ。つまり、確定不可能な境界線の問題、ポジティヴな属性のレヴェルでは特定困難なある特徴の、その現前または不在が対象のシンボリックなステイタスを根源的に変えるという問題。

*の侵入 intrusion of the voice

*前エディプス的な、オーラル・アナル〔口唇的・肛門的〕なパラダイス pre-Oedipal, oral-anal paradise 前性器的 pre-genital とも言う

*ドタバタ喜劇の多型的世界 polymorphous world of the burlesque
*身振り性gesticularity

*1 Pascal Bonitzer, Le Champ aveugle, (Paris: Cahiers du Cinema/Gallimard, 1982), pp. 49-50.

*異物 strange body
*ルアー これは罠というより、鮎釣りなどで使う囮〔おとり〕のこと



*2 Ibid., p. 49.

*チャプリン的なもの Chaplinesque
*二重性 duality
*浮浪者 tramp

*「チャプリンの独裁者」The Great Dictator 1940年製作
*「チャップリンの殺人狂時代」Monsieur Verdoux 1947年製作
*「ライムライト」Limelight 1952年製作


卑小なユダヤ人の床屋と独裁者の間にある違いは、二人それぞれの髭の違いのように無視できるものである。だが、それが帰結する二つの状況は、無限にかけ離れ、犠牲者と迫害者の状況のようにまったく反対のものである。同様に「チャップリンの殺人狂時代」では、女殺しと麻痺した妻を愛する男という同じ男の二つの局面あるいは行状の違いは、彼の妻には何かしら彼が「変わった」という予感を必要とする直観しかないほど希薄である。……「ライムライト」の火急の問いとはこうだ。すなわち、あの「無」とは、あの年齢の徴しとは、あの陳腐さのささいな違いとは、何か。何のために滑稽な道化のナンバー〔曲〕はたいくつな光景に変わるのか。*3




*3 ジル・ドゥルーズ『映像=運動』Gilles Deleuze, L'Image-mouvement (Paris: Editions de Minuit, 1983), pp. 234, 236

 この示差的な特徴は、何らかのポジティヴな質に固定できないものだが、それはラカンが《単元性の特徴》*と呼ぶものである。つまり、主体のリアルなもの*が固着するシンボリックな同一化*の地点である。主体がこの特徴に愛着するかぎり、我々はカリスマティックで魅惑的な形象に直面させられる。この愛着が破れるやいなや、陰鬱な残片しか残らない。しかしながら、見誤ってはならない重要な点は、この分裂*が声の到来によって条件づけられていることだ。すなわち、浮浪者という登場人物が語ることを強いられるという事実によって条件づけられていることだ。「独裁者」では、ヒンケルは語る。しかるにユダヤ人の床屋は唖の浮浪者に近いところにとどまる。「ライムライト」では、ステージの上の道化は無言である。しかるにステージの背後いる退職した老人が語る……。
 かくして、チャプリンの周知の音への嫌悪は、サイレントのパラダイスへの単なるノスルジックな肩入れとして却下すべきではない。それが露呈するのは、声の破壊的な力に対する通常の知よりももっと深い知(あるいは少なくとも胸騒ぎ)であり、声が異物として、根源的な分裂を導入する一種の寄生体として機能しているという事実に対する知である。〈言葉〉の出現は、人間動物*を均衡の外へ放り出し、そして、彼〔人間動物〕から、身振り手まねで失われた均衡を必死に求める、滑稽で不能な形象を作りあげる。こうした声の破壊的な力が、「ライムライト」以上に明らかになっているところは他にない。それは、サウンドトラックをもつサイレント映画というこの逆説においてである。つまり、サウンドトラックには、言葉はなく、ただ音楽と少しばかりの類型化された対象のノイズしかない。死と崇高なものがいっせいに噴出するのは、まさしくここなのだ。

*《単元性の特徴》le trait unaire トポロジーでは「単側」
*主体のリアルなもの the real of the subject
*シンボリックな同一化 symbolic identification

*分裂 split シゾフレニーの「分裂」ではなく、引き裂かれているという状態。devided という語も同義



*人間動物 human animal こう訳してちょっとニーチェ的