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Slavoj Zizek |
第1章 なぜ手紙はいつも宛先に届くのか
Why Does a Letter Always Arrive at Its Destination?
1・1 死と昇華――「街の灯」の最終場面
Death and Sublimination: The Final Scene of City Lights
声のトラウマ The Trauma of the voice
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チャプリンを「死と昇華」の徴しのもとに据えるのは、特殊で、馬鹿げたことにさえみえるかもしれない。チャプリン映画の宇宙は、崇高ではない生命力や卑俗をもって爆発する宇宙であり、死と昇華にとり憑かれたじめじめしたロマンティックなオブセッションとはまさに正反対のものではないのか。そうかもしれないが、ある特殊な地点では物事は複雑になる。すなわち、声の侵入*の地点では。サイレントの喜劇、この前エディプス的な、オーラル・アナル〔口唇的・肛門的〕なパラダイス*、そこでは、死と罪などお構いなしに拘束なき貪りと破壊がある。そういう世界のイノセンス〔無垢性〕を腐敗させるのが声である。「死も犯罪も、ドタバタ喜劇の多型的世界*には存在しない。そこではクリームケーキが飛び、全面的な哄笑の真中で建物が倒壊する。この純粋な身振り性*の世界は、漫画の世界(失われたスラップスティックの代理物)でもあるのだが、そこでは主役は一般に不死であり、……暴力は普遍的で帰結をもたず、罪は存在しない」。*1 |
*声の侵入 intrusion of the voice |
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卑小なユダヤ人の床屋と独裁者の間にある違いは、二人それぞれの髭の違いのように無視できるものである。だが、それが帰結する二つの状況は、無限にかけ離れ、犠牲者と迫害者の状況のようにまったく反対のものである。同様に「チャップリンの殺人狂時代」では、女殺しと麻痺した妻を愛する男という同じ男の二つの局面あるいは行状の違いは、彼の妻には何かしら彼が「変わった」という予感を必要とする直観しかないほど希薄である。……「ライムライト」の火急の問いとはこうだ。すなわち、あの「無」とは、あの年齢の徴しとは、あの陳腐さのささいな違いとは、何か。何のために滑稽な道化のナンバー〔曲〕はたいくつな光景に変わるのか。*3 |
*3 ジル・ドゥルーズ『映像=運動』Gilles Deleuze, L'Image-mouvement (Paris: Editions de Minuit, 1983), pp. 234, 236 |
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この示差的な特徴は、何らかのポジティヴな質に固定できないものだが、それはラカンが《単元性の特徴》*と呼ぶものである。つまり、主体のリアルなもの*が固着するシンボリックな同一化*の地点である。主体がこの特徴に愛着するかぎり、我々はカリスマティックで魅惑的な形象に直面させられる。この愛着が破れるやいなや、陰鬱な残片しか残らない。しかしながら、見誤ってはならない重要な点は、この分裂*が声の到来によって条件づけられていることだ。すなわち、浮浪者という登場人物が語ることを強いられるという事実によって条件づけられていることだ。「独裁者」では、ヒンケルは語る。しかるにユダヤ人の床屋は唖の浮浪者に近いところにとどまる。「ライムライト」では、ステージの上の道化は無言である。しかるにステージの背後いる退職した老人が語る……。 |
*《単元性の特徴》le trait unaire トポロジーでは「単側」 *主体のリアルなもの the real of the subject *シンボリックな同一化 symbolic identification *分裂 split シゾフレニーの「分裂」ではなく、引き裂かれているという状態。devided という語も同義 *人間動物 human animal こう訳してちょっとニーチェ的 |