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EYS12
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Slavoj Zizek
Enjoy Your Symptom: Jacques Lacan in Hollywood and out
New York: Routeledge 1992/2001
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第1章 なぜ手紙はいつも宛先に届くのか
Why Does a Letter Always Arrive at Its Destination?
〔承前〕
1−2 イマジナリー・シンボリック・リアル
Imaginary, Symbolic, Real
ではなぜ、手紙はその宛先に届くのか。なぜ、手紙は――少なくとも、時々は――宛先に届きそこねるfailことがありえないのか。*16ラカンの「『盗まれた手紙』に関するセミネール」*17の有名な終わりの言葉に対するこのデリダのリアクションは、洗練された理論的感受性を証明するどころか、むしろ我々が常識の原初的なレスポンスを呼び起こすものを示すのである。もし手紙が宛先に届かないとすればどうなるか。手紙が道に迷うgo astray ことはつねにありうるのではないか。*18しかしながら、もしラカンの理論が、手紙はつねにその宛先に届くa letter does always arrive at its destinationということにカテゴリー的に〔断固として〕固執しているとすれば、それは目的論の揺さぶり不可能な信念のゆえ、つまり前もって定められた終点へ到達するメッセージの力を信じるゆえではない。手紙がその宛先に届く方法についてのラカンの解説expositionは、まさに目的論的錯覚のメカニズムを剥き出しのままにしておくのである。言い換えれば、「手紙は宛先を間違えることもある」という論難は、自分自身の宛先を間違えているのだ。それはラカンのテーゼを誤読し、それを伝統的な目的論的な循環運動へ還元する。すなわち、まさしくラカンが問題にし、転覆したものに、それを還元してしまうのだ。手紙はつねにその宛先に届く――とりわけ、受取人なき手紙、ドイツ語で《フラッシェンポスト》Flaschenpostと呼ばれるもの〔瓶詰めの手紙〕、難破して島から海に投入される瓶詰のメッセージのように極限的なケースである場合にこそ届く。このケースが、その最も純粋で明確な形態で示すのは、手紙がその本当の宛先に届くのは、それが海に投げ入れられる瞬間だということである――その真の受取人は、言わばそれを受け取ったり受け取らなかったりする経験的な他者empirical otherではなく、大文字の〈他者〉the big Other、シンボリックな秩序それ自体である。それは、手紙が循環過程に引き渡された瞬間、それを受け取るのである。つまり送り手が自分のメッセージを「外在化externalize」し、それを〈他者〉に引き渡した瞬間、〈他者〉がその手紙に気づき、送り手をその手紙に対する責任負担から免責disburdenする瞬間である。*19ではどのように、スペシフィックにspecifically、手紙はその宛先に届くのか。彼の「ロゴサントリズムlogocentrism」と言われているものの無上の証拠として通常機能する、ラカンのこのテーゼを、我々はどのように考えるべきか。命題「手紙はつねにその宛先に届く」は、単声的univocalであるどころか、それは自身を可能な一連の読みをもたらすが、*20その読みは、〈イマジナリーなもの〉、〈シンボリックなもの〉、〈リアルなもの〉というトリアーデtriad への参照によって秩序化されている。
イマジナリーな(誤)認識 Imaginary (mis)recognition
一見したところでは、「つねにその宛先に届く」手紙が示すのは、ルイ・アルチュセールとその追随者によって詳細に精錬された認知/誤認reconnaissance/ meconnaissance のロジックである(ミッシェル・ペショーMichel Pecheux)。*21そのロジックによって人は自分をイデオロギー的召喚ideological interpellationの受取人として(誤)認識(mis)recognizeする。イデオロギー的な秩序を構成するこの錯覚は、バーバラ・ジョンソンの定式*22をパラフレーズすれば、簡潔に描ける。「手紙がつねにその宛先に届くのは、それが届くところはどこでもその宛先であるからだ」。そこに伏在するメカニズムは、典型的なジョークに関してペショーが精錬している。「父さんはマンチェスターで生まれた。母さんはブリストルで、ぼくはロンドンで生まれた。ぼくら三人が出会ってしまうなんて不思議だね!」。*23要するに、我々がプロセスをその(偶然の)帰結から振り返って見れば、「出来事はまさしくこのようになった〔転回した〕events took precisely this turn」という事実は、不気味で何か宿命的な意味を隠しているようにみえる以外にない――まるで何かミステリアスな手が、「手紙はその宛先に届く」ということ、つまりぼくの父と母が出会い……ということを、手当てしてくれているかのようなのだ。ここにあるのは、しかしながら、浅薄なジョーク以上のものである。現代物理学が証明するように、そこで我々が遭遇するのは、まさしく「人間中心主義的原理」の名の下にある同じメカニズムである。生命は地球上に発生したが、それは適切な諸条件を創造した無数の偶然によってである(たとえば、もし地球の原始期において土と大気の構成が僅かのパーセンテージでも違っていたら、いかなる生命も可能ではなかっただろう)。そうして、地球上に知的生物が出現するにいたるプロセスを物理学者らが懸命に再構築しようするとき、宇宙は知的存在の形成を可能にするために創造されたということ(「強いstrong」、公然たる目的論的・人間中心主義的原理)を前提にするか、あるいは、生命の出現のための諸条件に向かうさらなる発展を演繹することができるような、宇宙の原始状態に関する仮説を、つねに措定することを要求する「循環的」な方法論的規則を受け入れるか(その「弱いweak」ヴァージョン)のどちらかである。
同じ論理は、「アラビアン・ナイト」に出てくる周知の偶然にも働いている。主人公は砂漠で迷って、まったく偶然にある洞窟の中に入る。そこで彼は三人の老賢者をみつける。彼が入ってきたのに気づいて、彼らは彼に言う、「とうとう、君はやってきたね。我々はずっと君を待っていたんだ、この三百年の間」。それはまるで、彼の生の偶然の背後で、宿命の隠れた手が砂漠の中のこの洞窟に彼を差し向けたかのようである。この錯覚を生産するのは、シンボリックなネットワークの中の場所 placeと、そこを占める偶然的な要素elementとの、一種の「短絡」である。この場所にやってきた者はだれでもその受取人なのだ。というのも、受取人は自分のポジティヴな質によってではなく、この場所にやってきたというまさに偶然的な事実によって定義されるからだ。宿命predestinationという宗教的観念は、まさに妄想的な「短絡」の事例のようにみえるけれど、それは同時に、根源的な偶然性の前兆〔予感〕と親近している。もし神が、誰を救済し誰を地獄堕ちにするか、前もって決めてしまっているならば、そうすると私の救済salvation または堕地獄perdition は私の規定的な質や行為によることなく、神の計画のネットワークの中での私がいる場所――私の質には無関係で、言うならば、私に関するぎりではまったくの偶然であるような場所次第なのである。この偶然性が明白になるのは、ある逆説的な逆立inversion においてである。すなわち、私が地獄に堕ちるのは、神の〈戒律〉を侵して私が罪深い行為をするから、ではない。私が地獄に堕ちるから、私は罪深い行為をするのだ……。すると、容易にイメージできるのは、重大な罪人が犯罪を犯すと、神は安心するということである。「とうとう、お前はやったね! お前の惨めな生涯の間ずっと私はそれを待っていたんだ」と。そしてこの問題構成がいかに精神分析に関わっているかということを確信するには、我々の心的なバランスのトラウマティックな崩壊traumatic crackup の引き金を引くさいの、偶然的遭遇contingent encounterの重要な役割を想起するだけでよい。友人が行きがかりの評言をするのを聴いてしまったとか、些細な不快なシーンを見てしまったとか、等々のことが、長い間忘れていた記憶を目覚めさせ、我々の日常生活を粉砕することもありうる――ラカンが言ったように、ある些細な偶然的なリアリティの小片こそが無意識的トラウマを反復させるのである。精神分析における「宿命」は、つねにこういう偶然の遭遇を通じて自己貫徹し、「私があの評言を聞きのがしていたら、どうなったか。もし私が別のルートをとってあのシーンに出会わなかったら、どうなっていたか」という問いを提起する。むろんこんな問いは欺瞞的である。というのも「手紙はつねにその宛先に届く」からである。手紙はその瞬間をじっと我慢して待っている――もしこうでなければ、そのときは、別の偶然的な小さなリアリティのかけらが、早かれ遅かれそれを待つこの場所にやってきて、トラウマに火を放つ。つまるところ、これがラカンが「シニフィアンの恣意性the arbitrariness of the signifier」と呼ぶものである。*24
スピーチ・アクト〔発話行為〕理論の用語を参照すれば、召喚のプロセスに固有の錯覚は、自身のパフォーマティヴな次元performative dimensionを見逃すことにある。私がイデオロギー的な大文字の〈他者〉(〈民族〉、〈民主主義〉、〈党〉、〈神〉、等々)の呼びかけの受取人だと自認するとき、この呼びかけが私の中にある「宛先に届く」とき、私がそれとして自認したものwhat I have recognized myself asに私をならしめるのは、まさにこの認知行為act of recognitionなのだ、と自動的に誤認する――私はその受取人であるから自分が呼びかけられているとは認めるのではない。私がその受取人になるのは、私が呼びかけられていると認めた瞬間である。I don’t recognize myself in it because I’m its addressee, I become its addressee the moment I recognize myself in it. これが、手紙がつねにその受取人に届く理由である。手紙はその受取人を間違えることもありうるというデリダ的論難は、それゆえ、単に的外れである。それが意味をなすのは、手紙が私に届く前に、私がその受取人でありうるということを、私が前提するかぎりにおいてである――言い換えれば、それが前提にしているのは、伝統的な目的論的軌道であり、そこには前もって与えられたゴールがあるわけだ。ぼくの父はマンチェスター出身で母はブリストル出身、そしてぼくはロンドン出身だ、というジョークの用語へ翻訳すれば、手紙はその宛先を間違い見失うこともありうるというデリダの命題があらわにするのは、典型的なオブセッショナルな懸念apprehensionである。それは、ぼくの父母が出会わなかったらどうなっていただろうか――すべては間違って進み、ぼくは存在しなかっただろう……というような懸念だ。だから、「手紙はつねにその宛先に届く」は、いかなる種類の目的論的円環も含意するのではなく、「なぜ私なのか? なぜこの私が選ばれたのか?」という驚きをもたらし、かくして私の進路を統整する隠された宿命の探究を起動させる、そういうメカニズムを露呈させるのである。
シンボリックな回路――「メタ言語は存在しない」 Symbolic circuit: “There is no metalanguage”
シンボリックなレヴェルでは、「手紙はつねにその宛先に届く」は、諸命題の連鎖全体(ヴィトゲンシュタイン的な意味での「ファミリー」)を凝縮している。すなわち、「送り手はつねに、受け手から、自分自身のメッセージを反転した形態で受け取るthe sender always receives from the receiver his own message in reverse form」、「抑圧されたものはつねに回帰するthe repressed always returns」、「フレームそのものは、つねにその内容の一部分によって枠づけされているthe frame itself is always being framed by part of its content」、「我々はシンボリックな負債から逃れることはできない。それはつねに返済されなければならないwe cannot escape the symbolic debt, it always has to be settled」。これらはすべて、つまるところ、「メタ言語は存在しないthere is no metalanguage」という同じ基本的前提のヴァリエーション〔変奏〕である。そこで、メタ言語の不可能性を、ヘーゲル的な「美しき魂」の形象に関して、説明することから始めよう。それは世の中の邪悪なやり方を、無垢で無感動な犠牲者のポジションから嘆くのである。「美しき魂」は世の中の腐敗から免除されている純粋なメタ言語を語るふりをする。そうすることによって隠蔽されるのは、自分の嘆きや呻きが、自分が攻撃する腐敗にアクティヴに関与しているということである。ラカンは「転移における介入」*25で、「美しき魂」の弁証法に依拠して、ヒステリカルな主体のポジションの虚偽性falsityを指示する。つまりフロイトの有名な患者である「ドラDora」の愁訴は、間主体的な交換の戯れの中の純粋な対象に還元されていることである(彼女の父はK氏に彼女を提供したということになっている。まるでそれは父がK嬢と浮気をした代償であるかのようである)。すなわち、彼女はこの交換を、物事の客観的な状態として提示する。それ対して彼女には結局どうすることもできないのだと。フロイトの答えは、残酷な環境によるこうしたパッシヴな犠牲化のスタンスは、まさに彼女の共犯と共謀を隠蔽するにすぎないということである――間主体的な交換の四角形が支えられうるのは、犠牲者、交換対象という自分の役割をドラが能動的に引き受けるかぎりにおいてである。言い換えれば、彼女がリビドー的満足libidinal satisfactionをそこに見出すかぎりにおいてであり、まさにこの断念こそが彼女にある種の倒錯的〔ひねくれた〕剰余悦楽perverse surplus enjoymentを与えてくれるかぎりにおいてである。ヒステリー者が絶えず愁訴することは、自分が残酷な策略の現実に自分を適応させることはできないということだ。そしてそれに対する精神分析の答えは、「あなたの虚しい夢を諦めろ。人生は残酷だ。それをあるがままに受け入れろ」ということではなく、まったく反対に、「あなたの悲哀や悲嘆は偽りである。なぜなら、そうやってあなたは策略と搾取の現実にあまりにうまく適応しすぎているだけなのだ」ということだ。救いようのない犠牲者の役割を演じることによって、ヒステリー者は、我々なら今日の隠語で言うように、「自分の周囲を情動的に脅す」ことができるような主体のポジションを引き受ける。*26
この答えにおいて、「美しき魂」は、自分がいかに世の中の邪悪なやり方に加担しているか、ということに直面する。この答えはコミュニケーションの回路を閉じる。そこにおいて、主体/送り手は自分自身のメッセージを受け手からその真の形態で受け取る。つまり、自分の悲哀と悲嘆の真の意味を。言い換えれば、そこにおいて、主体が循環過程に投入した手紙は「宛先に届く」のであり、その宛先とは最初から送り手自身だったのである。手紙がその宛先に届くのは、主体が最終的に自分の行動の真の帰結を引き受けるときである。これが、ラカンが一九五〇年代初期に、リアルなものthe realの合理性についてのヘーゲルの《金言》dictum(「合理的なものは現実的であり、現実的なものは合理的であるWhat is rational is actual and what is actual is rational」)*27を解釈したやり方である。主体の言葉と行いの真の意味――その理由――は、そのアクチュアルな帰結によって開示される。だから、その帰結からしり込みをして「けれども、私はそんなつもりではなかった」と言う権利は主体にはないのだ。この意味において、ヒッチコックの「ロープ」Rope〔訳注・一九四九年、監督ヒチコック、出演ジェームズ・スチュワート、ファーリー・グレンジャー、ジョン・ドール〕は、本来的にヘーゲル的映画だと言ってよいかもしれない。ホモセクシャルな二人は親友を絞殺するが、それはカデル教授の認知を勝ち取るためだった。教授は彼らの師で、〈超人〉Supermanは無用者や弱者を処分する権利をもつと説いていた。カデルは自分の教義の逐語的な〔字義通りの〕実現に直面すると――言い換えれば、他者から自分自身のメッセージをその逆立した真の形態で返されると、すなわち彼自身の「手紙」(教え)の真の次元がその本来の受取人、つまり彼自身に到達すると――カデルは驚いて、自分の言葉の帰結からしり込みする。そこに自分自身の真理を認知する覚悟がないのである。ラカンの「ヒーロー」の定義は、(たとえば、カデルのようではなく、エディプスのように)完全に自分の行為の帰結を引き受ける主体、言うならば、自分の射た矢が円弧を描いて自分に飛んで帰ってきたとき、それを避けない主体である――代償を払うことなく欲望を実現しようとする他の我々のようにではなく。革命(その血塗られた裏面)なき〈革命〉を欲する革命家たちのようにではなく。ヒチコックが観客と親切でサディスティックなbenevolent-sadistic戯れをすることは、まさしくこうした我々の半端な欲望の本質を考慮している。彼は観客が自分の欲望がまるごと実現された帰結に直面するのにしり込みするようにさせる(「あなたはこの悪人を殺したいのか。よろしい、あなたはそれができる――あなたが黙って通り過ぎたいと望むぞっとするようなディテールのすべてでもって」)。要するに、ヒチコックの「サディズム」は、超自我の「悪意の中立性superego’s “malevolent neutrality”」に正確に対応している。彼は中立的な「真理の配達人」に他ならない。我々が望んでいるものだけを我々に与えるが、それには我々が知りたくない部分も一緒にパッケージにして含むのである。
主体のメッセージのこの裏面は、その抑圧されたものrepressed である。だから「メタ言語の不可能性は、抑圧されたものの回帰と連環している」ということを知るのは難しいことではない。「メタ言語は存在しない」というのは、語る主体speaking subjectがつねにすでに語られるかぎりにおいてである。つまり、語る主体が自分が言ったことの結果〔効果〕を支配できないかぎりにおいてである。語る主体は自分が「言うつもりだった」以上のことをつねに言う。そして意図された意味を超えて実際に言われたことというこの剰余は、抑圧された内容reperessed contentを言葉にするのである――そこにおいて、「抑圧されたものは回帰する」のだ。*28 「抑圧されたものの回帰」としての症状は、「手紙がその宛先に届く」ことによるそうした舌の滑りでなければ何か。つまり、大文字の〈他者〉がそれ〔舌の滑り〕によって主体に主体自身のメッセージをその真の形態で返すのだ。「ここに私は開会を宣言する」と言う代わりに、「ここに私は閉会を宣言する」と言ってしまうとすれば、最も文字通りの意味で、私は自分自身のメッセージを、逆立した真の形態で取り返すのではないか。では、デリダの、手紙はその宛先を見失うこともありうるa letter can also miss its destinationという概念は何を意味しうるか。抑圧されたものは回帰しないこともありうるということ――しかしこう主張することで、我々が巻き込まれるのは、その「回帰」に存在論的に先行するポジティヴな存在としての無意識的なものthe unconscious as a positive entity ontologically preceding its “return”というナイーヴな実体論的概念、つまり、妥協のフォーメイション〔妥協形成〕としての症状という、デリダ自身によって正当にも疑問に付された概念に、である。*29 ここでは、我々はラカンの後を反復すること以外にはできない。すなわち、抑圧されたものの回帰以前には表象は存在しない。抑圧された内容は、症状におけるその回帰に先行するものではない。症状形成を特徴づける「妥協」によって歪められていないような純粋な形態でそれ〔抑圧された内容〕を認識する方法はない。*30
これが我々に第三のヴァリエーションをもたらす。フレームはつねにその内容の一部によって枠付けされているということ。この公式*31が重要なのは、これによって我々が解釈学に「シニフィアンの論理logic of the signifier」を対置させうるかぎりにおいてである。解釈学の努力の狙いは、「フレームframe」、「地平horizon」の輪郭を可視にすることにある。〔フレームや地平は〕不可視のままにとどまることによって、主体の把握をのがれることによって、あらかじめ視野を規定するものであるからだ。我々が見ることができるものは、我々が見ることができないもの同様、歴史的に媒介された先入見のフレームframe of preconceitsを通じて我々に与えられる。もちろんここでの「先入見preconceit」という語の用法には悪い意味は何もない。そのステイタスは超越論的transcendentalである。つまり、それは我々の経験を意味ある総体〔全体性〕へと組織する。なるほど、それは我々のヴィジョンの還元不可能な限界である。しかしこの有限性finitudeは、それ自体において存在論的に構成的ontologically constitutiveである。世界が我々にとってオープンなのは、根源的な有限性の内部でのみである。このレヴェルでは、メタ言語の不可能性は、我々が物事を「客観的にobjectively」「公平にimpartially」見ることを可能にさせる中立的な観点が不可能であることと等しい。歴史的に規定された「前了解preunderstand」の地平によって枠付けされない視界〔視力〕viewは存在しない。たとえば今日、我々が残忍に自然を搾取できるのは、それを与える地平の内部では、ギリシアや中世の自然概念とは対照的に、自然を我々が好きなように処分できる生の素材raw materialと見なされるべきものとして、自然そのものが我々に開示されるゆえにのみである。ラカン的な「シニアフィアンの論理」は、こうした解釈学的なテーゼに、未聞の逆立inversionを代補する。「意味の地平」はつねに、まるで一種の臍の緒のように、それによって開示された領野の内部にある地点に結びつけられている。我々のものの見方のフレームは、つねにすでに、その内容の一部によって枠づけ(再・刻印)されている。我々がここで容易に認知できるのは、メビウスの環のトポロジーである。そこでは一種の底無しの逆転〔内転〕abyssal inversion におけるように、外被そのものがその内面によって包み込まれているのである。*32
この逆転を例示する最もよい方法は、視界と視線の弁証法the dialectic of view and gazeによるものである。私が見るものに、私の視界に開かれたものに、「私が何も見ないI see nothing」地点、「何の意味もなさないmakes no sense」地点、つまり画像の穢れとして機能する地点がつねにある――これは、そこからまさにその画像が視線を返す地点、画像が私を見つめ返す地点である。「手紙がその宛先に届く」のは、まさしく画像のこの地点においてである。ここで私は自分自身と遭遇する。私自身の客観〔対象〕的な相関物と遭遇するのである――ここで私は、言うならば、画像のなかに書き込まれる〔記入される〕のである。存在論的地平のこのオンティック〔存在的〕な「臍の緒」は、ハイデガーも含めて哲学的伝統全体にとって思考不可能unthinkableなものである。ここにこそ、精神分析的解釈の不気味な力の理由がある。すなわち、主体は意味の閉じた地平closed horizon of meaningの内部で自分の日常生活を送る。諸対象の世界に関して自分の距離をとって安全であり、諸対象の意味(あるいは無意味)を保証されている。そのとき突然、精神分析家がある些細なディテールを狙い撃ちする。それはどんなものであれ主体にとって重要性がないものであり、主体がそこに「何も見ない」穢れである――些細な強迫的な身振り、あるいはチック、言い間違い、あるいはあの秩序の何か――そして言う、「見よ。この些事が難題〔結び目〕knotであり、それはあなたが日常の確実性の中で泳げるために忘却しなければならないすべてを圧縮しているのであり、あなたの生に意味を与えるまさにそのフレームを枠づけenframe し、その内部で物事があなたにとって意味をなす地平を構造化しているのだ。もし我々がその結び目をほどいてしまうと、あなたは自分の脚下から地盤をなくしてしまうのだ」。それは古い東洋の公式、「汝はそれなりThou art that!」に描かれたものと似ていなくもない経験だ――「あなたの宿命全体がこの馬鹿げた些事において決定されているのだ」。あるいは、我々が集合論のより形式的なレヴェルにとどまるならば、こうである。与えられた集合の諸要素のなかに、集合それ自身のスペシフィック〔特種〕な重さと色を過規定〔重層決定〕overdetermineする〈一者〉Oneがつねにある。類の諸種のなかに、その類の普遍性を重層決定する〈一者〉がつねにある。その分節された全体性の内部でさまざまな種類の生産の関係に関して、マルクスはこう書いた。
すべての社会形態において、一つスペシフィックな種類の生産がある。それは残りのものに優っており、かくしてその諸関係は他のものに地位と勢力を割り当てる。それは一般的な照明であり、他のすべての色を照らし、それらの特殊性を装飾するのである。それは特殊なエーテルであり、それの内部に物質化されてしまっているすべての存在のスペシフィックな重力を規定する。*33
これらの命題は、つまりは、まさに生産のフレーム(その総体〔全体性〕)こそが、その内容の一部によって(一つのスペシフィックな生産の種類によって)、つねに枠づけされているという事実に行きつくのではないか。
シンボリックな回路U――宿命と反復 Symbolic Circuit II: Fate and repetition
むろん「汝はそれなりThou art that!」との遭遇は、人の宿命を凝縮した結び目knotとの遭遇として経験される。これが我々にもたらすのは、「手紙はつねにその宛先に届く」というテーマの最後のヴァリエーションである。人は自分の宿命から決して逃れることはできない。あるいは、こういうかなり蒙昧主義的な公式を、より適切な精神分析の公式に置き換えると、シンボリックな負債は弁済されねばならないthe symbolic debt has to be repaid、ということである。「自身の宛先に届く」手紙は、未払いの負債outstanding debtsに対する請求の手紙でもある。こういう宿命の次元は、ポオの「偸まれた手紙The Purloined Letter」の形式的構造においてこそ働いている。ポオの物語の主要人物の自己経験は、三人の瞥見three glancesの間主体的なトリアーデの内部のそれぞれのポジションを単純に「機械的」にシフトすることによって規定される(第一の者〔王〕は何も見ない。第二の者〔王妃〕は第一の者が何も見ないのを見て、それが隠すものの秘密について思い違いをする。第三の者〔大臣〕は先の二者の眼が隠すべきものをさらけ出したままにしているので、だれでもそれを取ろうと思えば取れるということを見る(知る))。そういうやり方のうちには、何か明らかに「宿命的」なものがあるのではないか。たとえば、そのようにして大臣の運命が封印される。それは彼の個人的な計算間違いや見落としのせいではなく、単に彼のポジションが最初のトリアーデの反復において第三の視点から第二の視点へシフトし、彼の構造的盲目structural blindnessを引き起こしたからではないのか。ここで我々が再び遭遇するのは、イマジナリーな(誤)認識imaginary (mis)recognitionのメカニズムである。劇中の当事者たちは、自分たちの運命を、その直接的物質性における手紙そのものに関わる何かだと、自動的にみなす(「この手紙は呪われている。だれがそれを所有することになろうと破滅させられてしまうのだ」)――彼らが誤認しているのは、その「呪い」はその手紙そのものにあるのではなく、その手紙のまわりに組織される間主体的なネットワークにあるのだということである。しかしながら、ポオの物語のすり切れた分析played-out analysisを反復するのを避けるために、形式的に類似のケースにアドレスしてみよう。ベティ・デイヴィスBette Davisの古典的なメロドラマ、「情熱の航路」Now, Voyage〔訳注・一九四二年〕である。物語では、シャーロット・ヴェイルCharlotte Valeは悩める未婚女性frustrated spinsterで家族の「醜いアヒルの子」であり、金持の未亡人である威圧的な母親のために神経がまいってしまうところに追い込まれる。*34 親切なヤキス博士Doctor Jacquithの導きのもとに、彼女は治療され、落ち着きのある美しい女に生まれ変わる。彼のアドヴァイスに従って彼女は人生を見つめようと決心し南米に旅立つ。そこで彼女は魅力的な既婚男性と恋愛する。ところが彼は彼女のために自分の家族を捨てることができない。というのも狂気の淵に立つ娘がいるからだ。かくしてシャーロットは一人帰国する。その後まもなく、彼女はデプレッション〔鬱〕depressionに陥って、再度入院する。その精神病院で彼女は恋人の娘と遭遇する。たちまち娘は彼女にトラウマティックな依存をしはじめる。ヤキス博士は、シャーロットに彼女の恋人の妻が最近死んだことを教える。だから二人は今や自由に結婚できると。しかし直ぐさま彼は付け加えて、この結婚は娘に耐えがたいショックになるだろうと言う――シャーロットは娘の唯一の支えであり、彼女しか娘が狂気へ最終的に滑り込むのを防げない。シャーロットは自分の愛を犠牲にし、人生を不幸な娘の養育に捧げようと決心する。映画の終わりで、恋人が彼女の手を求めたとき、彼女は彼を深い友情だけを約束し、彼の申し出を拒んでこう言う、「なぜ月にまで行こうとするの、私たちは星たちだって持てるのにWhy reach for the moon, when we can have the stars?」――この台詞は、映画史上、もっとも純粋でそれゆえ最も効果的なナンセンスの一つである。
恋人がシャーロットに自分の家族の写真を見せた時、彼女の注意は側に座り悲しげにカメラを見つめる少女に引きつけられる。この形象は彼女に直接的な同情を喚起し、シャーロットは娘についてすべてを知りたがった。なぜか。彼女は娘と同一化しているのだ。なぜなら彼女は娘に自分自身のポジション、無視される「醜いアヒルの子ugly duckling」のポジションを認識するからである。だから、映画の終わりで、シャーロットが自分の愛の生活をその憐れな少女を救うために犠牲にするとき、彼女は義務dutyという抽象的な意味からそうするのではない。ポイントはむしろ、まさに少女の生存survivalがシャーロットの肩にかかっている時、彼女が少女の現在の状況を、かつて母に翻弄されたときの彼女自身の状況の正確な反復とみなすということにある。そこにこそ、この映画と「偸まれた手紙」との構造的相同性structural homologyがある。ストーリーの進行中、同じ間主体的なネットワークが、主体たちがそれぞれのポジションへシフトするとともに、反復される――両方のケースとも、全能の母親omnipotent motherが娘の運命を手中に握っている。一つ違いがあるとすれば、それは第一の場面ではそれが娘を狂気に追いやる邪悪な母evil motherであるが、第二の場面では娘を崖っぷちから引き戻し娘が自分を救うチャンスを与える善き母good motherである。映画はヤキス博士の二重の役割に関して詩的な手際の良さfinesseをみせる。同じ人物が第一の場面ではシャーロットを「解放set free」し、拘束なき性的生活のパースペクティヴを彼女に開く。それが第二の場面では、禁止の担い手として現れ、彼女に自分の負債を思い出させて結婚を妨げるのである。ここにその最も純粋な形態での「反復強迫compulsion to repeat」がある。シャーロットは結婚の申し出を受け入れることができない。彼女がしなければならないのは負債を清算するhonor her debtことであるからだ。最後に彼女が悪夢から解放されたとき、「運命」(大文字の〈他者〉)は彼女をこの自由の代償に直面させる。それは彼女自身が幼い少女の人生を破壊できるという状況に彼女を置くことによってである。もしシャーロットが自分を犠牲にしなかったら、彼女は「過去のデーモンdemons of the past」によって責め立てられることだろう。彼女の幸福な結婚生活は、精神病院にいる不幸な子供の記憶によって永遠にスポイルされるだろう。それが代償の支払いであり、彼女がいかに自分自身の過去を裏切ったかを思い出させるのである。言い換えれば、シャーロットは「他者の幸福のために自分を犠牲にする」のではない。自分自身を犠牲にすることによって、彼女は〈自分自身〉に対し負債を清算するのである。だから、自分が犠牲になることでのみ救いうる、ぼろぼろになった少女に彼女が直面するようになったとき、「手紙はその宛先に届くa letter arrives at its destination」と再び言えるのである。*35
この未払いの負債の次元の内部では、手紙の役割を担うのは、諸主体の間を循環する対象であり、そしてその対象は、まさにその循環によって諸主体から閉じた間主体的な共同体をつくり出すのである。こういうものがヒチコック的対象Hitchcockian objectである。それは、貶されるマクガフィンdecried MacGuffin ではなく、ささいな「リアルなものの小片piece of the real」であり、それが「場違いout of place」なものになってしまう(盗まれる、等)から、ストーリーが動きつづけるのである。「疑惑の影」Shadow of a Doubt〔訳注・一九四二年〕の指輪や、「見知らぬ乗客」Strangers on a Train〔訳注・一九五一年〕のシガレット・ライターから、「知りすぎていた男」The Man Who Knew Too Much〔訳注・一九五六年〕の二組のカップルの間を循環する子供まで。ストーリーが終わるのは、この対象が「その宛先に届く」瞬間、つまり、その正しい所有者に返される瞬間である。ガイがライターを取り返す時である(「見知らぬ乗客」のラストショットで、そのライターは死んだブルーノの手からこぼれ落ちる)。誘拐された子供がアメリカ人のカップルの元に帰る時である(「知りすぎた男」では)、等。この対象が、〈他者〉における欠如に対して、シンボリックな秩序を構成する一貫性に対して、物質的存在を体現し与えるのである。クロード・レヴィ=ストロースが指摘したのは、交換が、ある構造的な瑕疵、シンボリックなものに関わる不均衡を証言する、という事実であった。それが、この対象に対するラカンの数学素がS(A)、斜線を引かれた〈他者〉のシニフィアンである理由である。このような対象の最高の事例は、リヒアルト・ワグナーの「ニーベルゲンの指環」Ring des Nibelungenの指環である。これは不均衡なシンボリックな交換の壮大なドラマである。ストリーは、アルベリッヒAlberichがリーネRhineの娘から指環を盗むことから始まる。そうして、指環はその所有者への呪いの源泉になる。最後には、指環はリーネに投げ返されその正しい所有者に戻るのである――ところが、神々は、この均衡の再確立に自身の黄昏twilightという代償を支払う。というのも、彼らの存在こそが清算されざる負債の上に基礎を置くものであるからだ。
「手紙はつねに宛先に届く」ということのイマジナリーな次元とシンボリックな次元は、このように対立しつつ緊密に結合している。第一のもの〔イマジナリーな次元〕はイマジナリーな(誤)認識imaginary (mis)recognitionによって定義される(手紙が宛先に届くのは、私が自分をその受取人だと認めるかぎりにおいてである。つまり、私自身をそれのうちに見い出すかぎりにおいてである)。これにたいし、第二のもの〔シンボリックな次元〕は、イマジナリーな円環の「盲点」と瑕疵のなかで発生する隠された真理を含む。さて、いわゆる「応用精神分析applied psychoanalysis」、芸術作品のスタンダードな「精神分析的解釈」を思い起こしてみよう。この手続きはつねに「自身を見つける」。そしてエディプス・コンプレックス、昇華、等々に関する命題が繰り返し何度も確認される。というのも、その研究はイマジナリーな閉じた円環の中を動き、それがすでに探しているものだけを見つけるからである――ある意味では、それがすでにもっているもの(理論的先入見theoretical preconceitsのネットワーク)を。シンボリックな回路を横断する手紙が「宛先に届く」のは、我々が、この手続きの究極的な無益さを実感し、その対象に固有な論理に触れることに結局失敗してしまうと実感するときである。シンボリックな回路の中で「手紙が宛先に届く」方法は、それゆえ、スリップ〔言い間違い〕の構造、「失敗して成功するsuccess through failure」構造を含む。つまり、それは我々が知らぬまに我々に届くit reaches us unbeknowst to usのである。アガサ・クリスティの「なぜ、エヴァンズに頼まなかったのか」Why Didn't They Ask Evans?で、若い主人公とガールフレンドは、砂丘linksの上で致命傷を負った男を見つける。彼は死ぬ数秒前、頭をあげて言う、「なぜ彼らはエヴァンスに頼まなかったのか」と。彼らは殺害者を探しはじめる。そしてかなりたって後、彼らが死んだ男の謎めいた言葉が完全に忘れられてしまった時、死にゆく田舎紳士の意志を確認するいささか特殊な情況に関わる。親族は、そのとき家の中にいた執事のエヴァンスを使う代わりに、証人として遠い隣人を呼んだ。そうして……「なぜ彼らはエヴァンスに頼まないのか」。即座に、主人公とガールフレンドが悟ったのは、彼らの問いが、そっくりそのまま砂丘の上で死んだ男の言葉を再生産しているということだった――ここにこそ、殺害の鍵がある。ここにあるのは、いかにして「手紙は宛先に届く」かということ典型的なケースだ。まったく偶然に、それは自身の本来の場所を見い出すのである。
こうした手紙とその道程への参照は、群衆the crowd の二つの様相を区別することを可能ならしめる。フロイトのイルマの注射の夢の解釈に関して、ラカンが語ったのは、「諸主体の混合l’immixion des sujets」(the inmixing of subjects)ということであり、それは諸主体が非主体的な機械nonsubjective machineryの中で小さな車輪に還元されて自身の個別性を失う瞬間である(夢そのもののなかで、この逆転の契機は、イルマの治療の失敗に関して相互に排除し合う理由を列挙してフロイトを非難する三人の教授たちの出現である)。むろんこの機械は、シンボリックな秩序と同義である。この群衆のモードを典型的に描いているのは、一五五九年と一五六〇年以来のペーテル・ブリューゲルPieter Brueghelの絵画である(ドイツの諺Dutch Proverbs, 祭りと四旬節Carnival and Lent, 子供の遊戯Child Games)。ここでは主体は「首を切られ」「群衆のなかで見失われ」ている。けれど、そのプロセス(遊戯、諺、祭)を統整する超主体的なメカニズムtranssubjective mechanismはあきらかにシンボリックな性質のものである。それは解釈行為によって発掘されうる。言い換えれば、それはショウを興行するシニフィアンである――まさにこの混乱と盲目的な自動運動を通じて、手紙はそれでも「その宛先に届く」のである。どのようにしてか。エリック・アンブラーEric Amblerのスパイ小説『武器の道』Passage of Arms〔一九五九年CWA賞・訳注〕を思い起こしてみよう。ストーリーは、一九五〇年代の、共産党反乱の挫折の後のマレーシアの貧しい中国人の話である。共産党が隠して忘れられた武器をジャングルのなかで発見したことから、彼はそれを売って古いバスを買い、そうして小資本家になろうと計画する。かくして彼は、最初の目論見をはるかに超えた予見できない出来事の連鎖を起動する。武器を買った金持ちの中国人は、それをインドネシアの共産党ゲリラに転売する。取引transactionは「イノセント」なアメリカ人旅行者を巻き込み、ストーリーはマレーシアからバンコックへ、さらにスマトラへと移動する。けれどこの偶発的な遭遇の即興の織物のすべてが、我々をスタート地点に連れ戻す。最後に、中国人は古くてガタガタのバスの持ち主になる。「手紙はその宛先に届く」。まるで、何か隠された「理性の狡智」が出来事のカオティックな流れを統制したかのように。これと似ていなくもない何かが働いているのが、モーツアルトの偉大なオペラのカルテットとクインテットである。それは「フィガロの結婚」Le Nozze di Figaroの最後を語るだけで十分である。登場人物たちはそれぞれ語り歌うが、そこには誤解と人間違いのネットワーク全体がある。しかしこのコミックな遭遇のカオスを動かしているようにみえるのは、善意の運命の隠された手であり、それが最終的な和解をもたらすのである。ある深淵がこの「混合immixture」を、言わばワグナーの「ニュルンベルグのマイスタージンガー」Meistersinger von Nurnberg第三幕のクインテットから分離する。そこでは諸声部はすべて自分たちの差異を抹消し、同じ安らかな流れに委ねる――「神々の黄昏」Die Gotterdammerung第二幕のハーゲンの「人間への呼びかけcall to men (Mannerruf)」に続く群衆の野蛮な侵入は言うまでもなく。ここでポイントは、この群衆とオペラの前奏曲との連環であり、そこで巫女たちsibylsはもはや未来の出来事を解読できないのである。というのも運命のコードは切断されているのだから――群衆が舞台に登場するのは、歴史がもはやシンボリックな運命によって統整されない時、つまり、父親のファリックな権威the father’s phallic authorityが破壊される時である(想起すべきは、前夜、ジークフリードがボータンの槍を破壊したことである)。この群衆、近代の群衆がはじめて登場するのは、エドガー・アラン・ポオの「群衆の人The Man of the Crowd」〔訳注・一八四〇年〕においてである。匿名の観察者がカフェの窓ガラス越しに目撃する(「内部」と「外部」の距離を導入するこのフレームは、ここでは重要だ)のは、ロンドンの宵の群衆の喧騒であり、そしてある老人を尾行しようと決める。明け方、長時間歩いた後、見い出すべきものは何もないことが明らかになる。「尾行したのは無駄だったことになる。私は彼のこと、彼の行動のこともこれ以上何も教えられないだろう」。老人はかくして「群衆の人」、まさに彼が「自身を読まれることを許さない」何かを体現するかぎりにおいて悪の権化epitome of evilであることを暴露される――es lasst sich nicht lesenと、ポオ自身がドイツ語で記しているように。群衆のこの「読まれることへの抵抗」が指示するのは、もちろんシンボリックな登記から、リアルなものの登記への移行である。*36
〔訳注・資料「群集の人」冒頭―― It was well said of a certain German book that "er lasst sich nicht lesen"-- it does not permit itself to be read. There are some secrets which do not permit themselves to be told. Men die nightly in their beds, wringing the hands of ghostly confessors, and looking them piteously in the eyes-- die with despair of heart and convulsion of throat, on account of the hideousness of mysteries which will not suffer themselves to be revealed. Now and then, alas, the conscience of man takes up a burden so heavy in horror that it can be thrown down only into the grave. And thus the essence of all crime is undivulged.
リアルな遭遇 The real encounter
宿命というモチーフが我々を連れていくのは、まさに第三のレヴェルの、〈リアルなもの〉の崖淵である。ここでは「手紙はつねにその宛先に届く」は、「自分の宿命と出会うmeeting one's fate」ということが意味するものと等しい。つまり「我々は皆死ぬwe will all die」ということである。普通の前理論的な感性は、「手紙はつねにその宛先に届く」という命題に固着する不吉な基調音を探すことを可能にする。だれも逃れられず、遅かれ早かれ我々に届く手紙だけが、つまり間違いのない受取人として我々をもつ手紙こそが、死である。我々が自分が生きていると言えるのは、ある手紙(我々の死の令状death warrantを含む手紙)が我々を探してあたりを彷徨っているかぎりにおいてのみである。サルマン・ラシュディSalman Rushdieに宣告された死の判決文に関する、イランの大統領アリ・ハムネイAli Hamneiの悪名高い「詩的」声明を思い起こそう。どんなものも死刑執行をとめることはできない。弾丸はすでにその軌道上にあり、遅かれ早かれその標的に命中する――こういうことは万人の運命であり我々それぞれの運命である。我々の名を記載した弾丸はすでに発射されているのだ。デリダ自身がエクリチュールの致死的な次元lethal dimension of writingを強調している。あらゆる痕跡はその究極的な抹消を運命づけられている。「終わり end」という言葉の根本的な両義性をこそ銘記せよ。「狙い aim」と「殲滅 annihilation 」――手紙の回路を閉じることは、すなわちその消費に等しい。ここで重要な点は、「手紙はつねにその宛先に届く」ということのイマジナリーな、シンボリックな、リアルな次元は、それぞれ互いに外在的にあるのではない、ということだ。シンボリックな旅程と同様にイマジナリーな旅程の最後に、我々は〈リアルなもの〉と遭遇するのだ。フロイトのイルマの注射の夢についてラカンが示したように、二つの鏡の関係dual mirror relationshipは、イルマの喉の肉に例示される、〈リアルなもの〉の深淵との恐ろしい直面に極まる。
決して人が見ることのない肉、物事の基礎、頭の、顔の、別の側面、とりわけて分泌腺、そこからすべてものがしみだす肉、神秘のまさに核心において、肉は懊悩するゆえに、その形そのものが不安を誘発するゆえに、形無なきものformlessである。*37
分身の魅惑的なイメージは、それゆえ、究極的には恐怖の仮面、その妄想的な前面delusive front以外のなにものでもない。我々が自分自身に遭遇するとき、我々は死と遭遇しているのだ。同じ恐怖は、エディプスが証明するようにシンボリックな「宿命」の完成とともに生じる。コロヌスColonnusにおいて、彼が回路を閉じ、自分の一切の負債を支払った時、彼が気づくのは、自分がこなごなに破裂した石鹸の泡のようなものに――リアルなものの廃材、シンボリックな秩序におけるいかなる支えも欠く形無きスライムformless slimeの残滓に――還元されていることだ。エディプスは自分の宿命を悟るのである。
あの最終地点へ、それは、自分自身の打倒、引き裂き、毀損に厳密に同じであるもの以上のなにものでもない――彼はもはや存在せず、もはやまったく何物でもないのだ。そしてそれは、私が前回に喚起したフレーズを彼が語る、あの瞬間である――私は立派な男として死ねるだろうか。*38
未払いのシンボリックな負債は、それゆえ、ある面では、我々の実存に構成的である。我々のシンボリックな実存こそが、「妥協の形成〔物〕compromise formation」であり、遭遇の遅延なのである。マックス・オフュルスMax Ophulsのメロドラマ「忘れじの面影」Letter from an Unknown Woman〔訳注・一九四八年〕において、シンボリックな回路と〈リアルなもの〉との遭遇とを結びつけるこの連環が完璧に例示される。まさに映画の最初で、「手紙はその宛先に届く」。主人公は否認された真理と直面させられるのである。それは彼にとって一連の結びつきのない束の間の情事であり、おぼろげながらしか女の人生を破滅させたことをおぼえていない。彼がこれに対する責任を引き受けるのは、自殺的行為によってである。彼は確実に負ける決闘を回避せず引き受けるのである。
ところが、先に引用した、フロイトのイルマの注射の夢についてのラカンの読解において示されているように、〈リアルなもの〉は死であるのみならず、生でもある。青ざめて凍りついた生命無き不動性であるだけではなく、「そこからすべてがしみ出す肉」でもある。そのねばねばした脈動における生の実体〔生命体〕life substanceである。言い換えれば、死の欲動と生の欲動のフロイト的な二元性は、シンボリックな対立ではないのであり、プレ・シンボリックな〈リアルなもの〉に本来内在する緊張と敵対なのだ。ラカンが何度も繰り返し指摘したように、まさに生の概念こそがシンボリックな秩序にとってエイリアンなものなのだ。そしてシンボリックな世界に対するトラウマティックな衝撃を証明する、この生の実体〔生命体〕の名とは、むろん悦楽enjoymentである。つねにその宛先に届く手紙というテーマに関する究極のヴァリエーションは、それゆえに、こう読む、「おまえは悦楽の穢れを決して追い払うことはできない」と。まさに悦楽を断念する身振りこそが不可避的に生産するのは、ラカンが「小文字の対象a」と書き留めた剰余悦楽surplus enjoymentである。事例は豊富にある。苦行者から「充足〔達成〕感」にいたるまで。苦行者は、まさにこの犠牲行為によって獲得されるこれ見よがしの虚しい満足ゆえに、すべての世俗的な物を拒絶しないかどうか、決して確かではない。「充足〔達成〕感」は我々が全体主義的なアピールに従う時、我々を圧倒する。「堕落した悦楽はもうたくさんだ。いまこそ、犠牲と断念の時だ」。この悦楽と剰余悦楽の弁証法――つまり、剰余悦楽という過剰に先立つどんな「実体的」な悦楽も存在しないという事実、悦楽それ自身は断念によって生産される一種の剰余であるという事実――は、たぶん、いわゆる「一次的マゾヒズムprimal masochism」への鍵を与えてくれるものである。*39
しかしながら、こういう読解は、ラカンの「『盗まれた手紙』に関するセミネール」を超えたことろに導く。それ〔ラカンの「『偸まれた手紙』に関するセミネール」〕は、意味を欠く「機械的」なシンボリックな秩序が主体の最内奥の自己経験を統整しているという、「構造主義的」な問題構成の限界内部に留まっている。晩年のラカンの教えの観点からすれば、ポオの物語で諸主体の間を循環する手紙は、間主体的なネットワークにおける彼らのポジションを規定するのだが、それはもはやシニフィアンの物質化された審級ではなく、むしろ、物質化された悦楽という厳密な意味における対象――つまり、穢れである。それは、諸主体がお互いにひったくり合う不気味な過剰であるが、諸主体は、まさにそれを所有することがいかに、欲望の対象原因object-cause of desireとの直面を証言するパッシヴで「女性的」なスタンスで彼らを刻印するかを忘れているのである。究極的に言葉の持続的な流れを阻止するもの、シンボリックな回路のスムースな動きを妨げるもの、それは、〈リアルなもの〉のトラウマティックな現前である。言葉が突然立ち往生する時、我々が探究しなければならないのは、イマジナリーな抵抗imaginary resistancesではなく、あまりにも接近しすぎた対象object that came too closeである。