| EYS21 |
Slavoj Zizek |
2 なぜ女は男の症状なのか
Why Is Woman a Symptom of Man?
2-1 なぜ自殺は成功する唯一の行為なのか
Why Is Suicide the Only Successful Act?l
〈リアルなもの〉の応答としての行為 The act as an answer of the Real
ロベルト・ロッセリーニRoberto Rosselliniとイングリット・バーグマンIngrid Bergmanとの遭遇の奇跡、この真の恩寵行為は彼の創造性をかきたてたが、それを別の方向へ向ける原因ともなった。それはほとんど不気味と言えるやりかたで「手紙はつねにその宛て先に届く」ということを例証している。ストーリーの背景は周知のものである。一九四七年、イングリット・バーグマンはハリウッド・スターのトップとしての名声の高みにあった時、ニューヨークの小さな劇場で、ロッセリーニのネオリアリズムの二本の代表作、「無防備都市」Open City〔一九四五年・訳注〕と「戦火のかなた」Paisan〔一九四六年・訳注〕を観た。深く感動して、彼女はロッセリーニに手紙を書いた。それは二人が個人的に会う以前にすでに彼女が彼に転移していたという関係を証言している――一目惚れ以前の恋の事例。彼女はロッセリーニを援助して相応しい国際的な名声を獲得させよう、そのためには自分のスターの地位を彼の好きなように使わせようという考えにとりつかれたのである。そうしてもし彼がこのスウェーデン人の女優を彼がどんなふうに使おうと、彼女は自分をどんな役にでも提供した。彼女は、流暢な英語を話し、いくらかドイツ語もできるが、イタリア語は二語しか話せなかった。「Ti amo! (I love you!)」しか。ところが、一連の偶然が災いして、彼女の手紙は彼の手元にはほとんど届きそこねるところだったのである。
彼女がアメリカで出会ったあるイタリア人が彼女に教えた。ミネルヴァ・スタジオMinerva Studiosへ出せば手紙はロッセリーニに届くかもしれないと。ところがそうしてみると、彼女の手紙が届いた直後、撮影所の本部は焼けてしまった。灰を掻き分けると手紙が見つかった。しかしスタジオがロッセリーニに連絡を取ろうとするが、彼はいつも電話を話し中していてつながらない。というのも、その時彼は撮影所と反目していたからだ。手紙が最終的に彼のもとにやっと届いたら、彼はそれを秘書に英語から翻訳させなければならなかった――そしてそのとき秘書の女性に、イングリット・バーグマンとは誰なのかとたずねる始末である。彼女の国際的名声を知るや、彼は即座に至急電報で返事をした。それが五月八日、彼の誕生日である。「私があなたと映画を作るのを夢見ていたのは、絶対に真実のこと」です、と……。*1
それはまったくの単純な嘘や、日和見主義的な追従だったのか。では、ロッセリーニの最も有名な映画作品、一九四五年の「無防備都市」Open Cityにおいて、二人のネガティヴな中心人物、レスビアンのナチ党員とゲシュタポの拷問者とは、その名が《イングリット》Ingridと《バーグマン》Bergmannだったということ、これをどう考えるか。ある意味では、ロッセリーニは「イングリット・バーグマンIngrid Bergman」というテーマの夢を実際にすでにみてしまっていたのだ……。その名は、彼の映画に登場する邪悪の二つの完全な人格化impersonation を圧縮したものであり、そのような名をもつ人物によって署名された手紙を受け取って、彼は何を思ったか。*2 これは、彼が向こう見ずにも映画幻想film illusionをもって演じることへの、一種の「〈リアルなもの〉の応答answer of the Real」ではなかったか。これに近い経験はカサノヴァCasanovaの経験ではないか。それはまるでカサノヴァの魔術の戯言への応答であるかのように、自然が荒々しい雷撃で反応したのだった。かくしてイングリット・バーグマンは、行為 actのトラウマティックなインパクトをもって彼の人生に入り込んだのである。彼女の手紙は衝撃のようにみえるけれども、ロッセリーニのシンボリックな空間の内部での彼女の場所は、すでに曲がってあらかじめはるか外に出てしまっていたのだ。
ここで機能している行為概念、すなわちその自殺的次元における行為の概念を我々はどのように考えるべきか。*3 言葉と行為あるいは事物との対立opposition of words and acts or things、「きみは行動しないで言っているだけだyou only talk instead of acting!」「言葉においてだけではなく、行いにおいてもnot only in words, but also in deeds」等々というタイプの文句が基盤としている対立、それを「ナイーヴ」で「常識的」なものだとみなして笑い物にして拒絶することが、今日では、容認される智恵の一部であり、言うならばよき作法の徴しになってしまっている。いまやだれもが知っているのは、「我々は言葉で物事をなしうるwe can do things with words」ということだ。J・L・オースティンJ. L. Austinがこのテーマに関する標準的なマニュアルを書いてから、すでに四十年以上も経っているのだ。そしてまさしく、精神分析の中核こそが、発話行為としての言語language as speech actという次元に埋め込まれembeded ているのではないか。精神分析がこの次元に封じ込められているのは、それが話す治療 talking cure であるということ、つまり身体を(電気治療、薬物治療等によって)直接操作することなく、言葉を手段としてのみ、症状symptomというリアルなものへ到達し変形しようとする企てであることによるのではないか。(かくして、ウィルヘルム・ライヒWilhelm Reichが精神分析家であることを止めた瞬間を、我々は正確に規定できる。それは彼が言語という媒体を放棄し、神経症的な緊張を解除するために身体的メッセージに依拠しはじめた時である)。そして我々の領域にもっと近いところでは、ラカンが自律的なシンボリックな秩序autonomous symbolic orderという概念を精錬したまさにその時、一種のスピーチ・アクト〔発話行為〕(パフォーマティヴperformativeなもの)の理論を、《アヴァン・ラ・レットル》〔名がまだない前〕 avant la lettreに定式化したのではないか。彼の最初の「セミナー」の基本命題とは、間主体的なリアリティは発語utterance によって構成されること、そして発語は、まさに言表行為act of enunciationによって、自分がそうであると主張するものに主体をならしめるmake the subject what it asserts to beことではないか――「あなたは私の妻であり、私の教師だ」等々というタイプの発語、言い換えれば、召喚interpellationsであり、発語utterancesであるものではないか。それによって、主体は、自分がそれらに呼びかけられていると認めることによって、それらに自分が称されるところのものになるby recognizing itself in their call, becomes what they purport it to beということでだ。そしてここにこそ、過去のトラウマを想起することの機能的な役割func&tional role of remembering past traumasというラカンの考えのアクセントもあるのではないか。要点は、永く忘れられていたある事件の事実的真理factual truth に到達することではない――ここで実際に重要なことは、まったく字義どおりに、過去のリコレクション〔回想/回収・再収集〕 recollection である。すなわち、この過去の想起re&membranceが、いかに主体の現在の言表行為のポジションを担うか、そこから主体が語っている(語られている)まさにその場所を、いかに想起が変形するのか、ということである。ここにこそ、精神分析治療が目指す「真理効果effect of truth 」がある。「抑圧」という影の世界から私が幼年期のトラウマchildhood traumaを引きずり出し、それを私の知によって統合するとき、こうすることが、私の現在の「自己了解」を規定するシンボリックな地平を根源的に変形してしまう――それを達成してしまうと、その後は、私は以前の私とは同じ主体ではなくなるのだ。
しかしながら、明白なのは、成功する唯一の行為としての自殺suicide as the only suc&cessful actというラカンのテーゼは、このフレームの中に入らない、ということである。自殺をとりわけ行為actとして把握することを可能ならしめる、行為のマトリックスmatrixは、断固として、スピーチ・アクト、パフォーマティヴなもののマトリックスではないのだ。では、そのマトリックスはどれであるのか。即座に回答する危険を冒す代わりに、我々はロッセリーニのもとに戻ろう。というのも、彼の中心的なオブセッションとは、パフォーマティヴなものの範囲を超えた、まさしく、自殺的な、「不可能な〔ありえざる〕impossible」、自由の行為のそれだったのだから。
「ドイツ零年」――言葉はもはや何の恩恵も施さない Germany, Year Zero: The word no longer obliges
ロッセリーニは、間主体的な空間を構造化するさいのパフォーマティヴな次元の重要な役割を、完璧に自覚していた。彼の映画のシリーズ全体が、「役割を演じるplaying a role」、シンボリックな召命をパフォーマティヴに引き受ける、という弁証法に中心化されている。この弁証法は、「ロベレ将軍」General della Rovere〔訳注・一九五九年、監督ロベルト・ロッセリーニ、出演ヴィットリオ・デ・シーカ、 ハンネス・メッセマー〕にその極限を示す。これは卑小な盗人であり詐欺師であるベルトーネBertone(ヴィットリオ・デ・シーカVittorio de Sicaが演じる)の悲喜劇的なストーリーで、ドイツのイタリア占領の時期が舞台である。ベルトーネはゲシュタポに逮捕され、協力を強制される。というのも、彼が伝説的なパルチザンの指導者、デラ・ロヴェレ将軍General della Rovereによく似ていたからだ。彼はレジスタンスの活動家でいっぱいの監獄の中で、デラ・ロヴェレになりすまさなければならない(パルチザンたちは知らないが、本物のデラ・ロヴェレはすでにドイツ人に捕らえられ射殺されてしまっていたのである)。ドイツ人の思惑は、ベルトーネにデラ・ロヴェレのふりをさせ、囚人たちからレジスタンスの組織や他の指導者たちの情報を聞き出させることにある。ところが事件は思わぬ展開になった。ベルトーネは次第に自分の役割に慣れていって、最後には、自分の生命を賭けてまでその役割に固執するようになるのである。ドイツ人に彼らが知りたい名を教える代わりに、自分を「デラ・ロヴェレ将軍」として銃殺させる……。レオ・ブローディLeo Braudyが簡潔に指摘したように、「この映画の重要性は、その策略――ロール・プレーイング、偽装〔ふり〕disguiseの引受け――を、道徳的真理への道として受容することにある……。〔この映画が〕導入するのは、ロール・プレーイングや偽装が、自己の解放と実現へと導きうるという考えである」。*4 ここで働いている弁証法は、シンボリックな召命を引き受けるというシンボリックな同一化symbolic identificationの弁証法である。偽りの仮面に固執することが、仮面を脱ぎ去り「真の顔」を露わにすることよりも、我々を真実の、真正な主体のポジションにより近いところへ連れて行くのだ。あわれなベルトーネが環境のプレッシャーの下で、デラ・ロヴェレであるふりをするだけならば、ここにあるのは、たまたま英雄の場所を占めた平凡な小人物の喜劇的状況である。ところが、彼がこの「役割」のためにはまさに自分の命を失ってもいいという覚悟するようになるや、状況は悲劇的次元を獲得し、まさに仮面に固執することこそが真正の倫理的行為となってしまう。このような弁証法は――ロッセリーニが「ルイ十四世の権力の興起」Rise to Power of Louis XIV〔未見不明・訳注〕でもっと集中的に展開しているが――それが意味するのは、仮面にはそれの下に隠されたものよりももっと真実がある、ということだ。仮面は決して、単なる「仮面にすぎない」のではない。というのも、仮面は間主体的なシンボリック・ネットワークの中で我々が占めるアクチュアルな場所を規定するからだ。実際に偽りであり無効であるのは、我々が装着する仮面(我々が演じる「社会的役割」)に対する我々の「内的な距離inner distance」の方であり、仮面の下に隠された「真の自己true self」の方である。それゆえ真正の主体的ポジションへの道は、「外部から内部へ」通じている。すなわち、まず最初に、我々は何者かであるふりをする。我々はまるでそれであるかのように行為をするにすぎない。そうしてやがて次第に、我々は実際にそれになってしまう――この逆説に、パスカル的な「慣習」の論理Pascalian logic of “custom”(「あたかも信じているかのように振舞え。そうすると信はおのずからやってくる」)を認めるのは困難ではない。ここで働いているパフォーマティヴな次元は、仮面のシンボリックな効力からなる。つまり、仮面を着けることは、我々を我々がそのふりをしているものにしてしまうのだ。言い換えれば、この弁証法から導かれるべき結論は、あらゆる人間的行為(実行、行い)はつまるところある行為(ポーズposture、ふりpretense)にすぎない、とするありふれた智恵とは全く逆である。つまり、我々にゆだねられた唯一の真正性は、物真似〔人格化〕impersonation の真正性、「我々の行為(ポーズ)を生真面目にうけとる」ことの真正性だけである。*5
ところが、仮面による同一化としての行為、シンボリックな召命を引き受けることとしての行為という、この論理は、ロッセリーニの映画に、別の根源的に異質な論理の影を投げている。それはエピファニー〔顕現〕epiphanyの瞬間、前面に出てくるのである。こうしたエピファニーは、一般にキリスト教的なパースペクティヴのなかで読まれる。主人公を扇動し照明する恩寵の瞬間として――だが、本当にこれはエピファニーにアプローチする正しい道なのか。三つの映画に焦点を当てることでこの問題にさらに接近してみよう。「ドイツ零年」Germany, Year Zero〔訳注・一九四八年、監督ロッセリーニ、出演エドムント・メシュケ、エルンスト・ピットシャウ、 バーバラ・ヒンツセ〕・「ストロンボリ/神の土地」Stromboli〔訳注・一九四九年、監督ロッセリーニ、出演イングリッド・バーグマン、マリオ・ビターレ、レンツォ・シザーナ〕・「ヨーロッパ一九五一年」Europa ’51〔訳注・一九五二年ロッセリーニ、監督、出演イングリッド・バーグマン、アレクサンダー・ノックス、エットレ・ジャンニーニ〕であるが、そのどれもがエピファニーのトラウマティックな瞬間への覚悟あるいは反応として構造化されている。これらの映画のそれぞれが、あるルアー〔囮〕lureの構造によって特徴づけられており、避けるべき罠を仕掛けている。つまり、もし我々がそれを「自然発生〔自発〕的spontateous」なやり方で知覚するならば、我々は不可避的に間違ってしまうことになる。
「ドイツ零年」は十歳の少年、エドムントEdmundの物語である。彼には姉と病気の父があり、一九四五年の夏の占領下のベルリンの廃墟で生活している。家はなく、街頭でささいな犯罪行為をして闇市で売りさばいて家族を養っている。そんな彼は、ホモセクシャルのナチ党員教師・ヘニングHenningの影響を次第に深く受けていく。ヘニングが彼に教え込んだのは、人生は生き残りのための過酷な闘争であり、そこでは足手まといにすぎないような弱者は無慈悲に扱わねばならないということだ。エドムントはその教えを自分の父親に適用する決心をする。父親は絶えず呻き苦しんでいて、もう助かるまい、自分は家族の重荷になっているだけだから死なせてくれと言うのである。父の頼みを受け入れて、少年は致死量の薬物を父親のグラスのミルクに混ぜる。父親が死んだ後、彼は廃墟のベルリンの街頭をあてもなくさまよう。子どもたちのグループは彼を遊びの仲間に入れてくれない。それはまるで、彼の恐ろしい行為を彼らに推測させるものがあるかのようだ。そうして少年は少しの間、一人きりで石蹴り遊びhopscotchをするのだが、その遊びに熱中できない――彼には子どもらしさが失われており、人間社会からすでに切断されてしまっている。姉が彼を呼ぶが、もはや姉のなぐさめsolaceを受け入れることはできない。そうして少年は姉から身を隠し、半壊の見捨てられた共同住宅の三階〔二階〕the second floorに上がり、目をつぶって飛び降りたのである。映画のラスト・ショットは、少年の小さな身体がコンクリートの廃墟の中に横たわっているのを見せる。映画全体がそのためにあるシーンとは、むろん、エドムントが最後にベルリンの廃墟をさまよい、自殺する場面である。この行為の意味はどこにあるのか。すぐさま提供される読み方はまったく明白である。つまり、この映画は、道徳的に堕落したナチのイデオロギーが子供の無垢さえスポイルし、父殺しparricideを遂行させてしまうのだが、少年が自分の行為の真の次元に気づくや、耐え難い罪意識の重圧によって自殺してしまう、という物語であると。
こういう読み方しか可能ではないのか。さらに詳しく検証すれば、ただちに明らかになるのは、こういうイメージを阻む一連の不穏なディテールである。なるほど、エドムントは行為し、またその行為を追い越してしまう。しかるに、教師は強者の権利をパセティックにしゃべるだけだ。それゆえ、エドムントがこの教師に自分の父殺しを報告したとき、教師は恐怖におののいて尻込みする。けれども要するに、エドムントは単に教師の教えを字義通りに真に受けて、その結果父殺しをやってしまった、と言うのは正しいのか。彼の行為は本当に教師の言葉によって引き起こされたものだったのか、そうして我々は言葉と行いをつなぐ因果連鎖に関わるのか。少なくとも我々がつけ加えうるのは、エドムントが自分の行為によって、教師の教えに応じてそれを自分自身の家族に「応用」してしまったということだけではなく、同時に父親のあらわな死への意志と出会ったということだ。彼の行為は、それゆえ、どこか規定不可能indeterminableである。無上の残酷さと冷静な距離をもつ行為と、父の意志に応じるために極限まで行く覚悟であることを示す、限界のない愛と優しさをもつ行為、それらが同時に存在するために適切に位置づけることができないのだ。この反対物の一致coincidence of opposites(冷静で几帳面なmethodical残酷さと、限界なき愛)は、「言葉」における行為、イデオロギーにおける行為のあらゆる「基礎づけ」が失敗する地点である。つまり、この「基礎づけfoun&dation」はそれ〔行為〕において告知される深淵にはまったく届かないのである。エドムントの行為は、最も腐敗した残酷なイデオロギーを「字義通りに受け取り」それを実行したというどころか、イデオロギー領域そのものから遁れてしまうある剰余を含んでいる――それは「絶対的自由absolute freedom」の行為であり、イデオロギー的な意味の領野を瞬間的に宙づりにする。つまりそれは、「言葉」と「行為」の連環を遮断するのだ。まさしくエドムントの行為は、あらゆるポジティヴな(イデオロギー的、心理学的)内容を空っぽにされることで、シェリングF.W.J. Schellingが定義した自由行為である。つまり、それ自身によってのみ根拠づけられる行為、いかなる種類のイデオロギー的な「十分な根拠」も根拠づけることができない行為のことだ。*6 それゆえにこそ、エドムントの父殺しにおいて、純粋な悪はもっとも完璧な子供らしい無垢と一致する。つまり、自分の父親を殺害するというまさにその行為においてこそ、エドムントは聖者になる。「聖者saint」という語の使用は、ここでは不用意なものではない。「ドイツ零年」の二年後、ロッセリーニは聖フランシスSaint Francisの映画「神の道化師、フランチェスコ」Francesco, givllare di Dio〔訳注・一九五〇年、監督ロッセリーニ、出演ナザリオ・ジェラルディ、アルド・ファブリッツィ〕を撮った。そこで彼が描くのは、一切の世俗的な制度的紐帯と絶縁する聖フランシスである。彼は至福の無垢の状態に回帰する。そこは、「一切を喪失するlost all」かぎりにおいて「一切を具有するhave all」という場所である。それは、エドムントが通常の人間社会を空虚化しそこから孤立してしまったのと軌を一にする。*7 エドムントの根源的な「空虚化emptying」が示されるのは、まさに彼の寡黙な行為のありかたreticent way of actingによってであり、とりわけ自分の父に毒入りミルクを与えるという場面においてである。エドムントが父を見守っているその視線は、無表情の疲れた青ざめた視線であり、どんな恐怖や同情や後悔あるいは他のどんな感情の痕跡もない視線である。それゆえエドムントとのいかなる種類の「同一化」も阻まれている――我々観客は、エドムントと一緒に身ぶるいするshiverことはできないし、彼の行為に彼の葛藤や後悔あるいは恐怖を感じることもできない。「エドムントは、もっと因習的conventionalな映画では、観客の同一化の焦点となるのだが、ここではむしろ、一種の空集合null set、虚数empty integerであり、諸効果の焦点であるようだ」。*8空集合、虚数、これらは、シニフィアンの主体subject of the signifierに対するラカン的な名である。その主体は、それがイマジナリーな同一化やシンボリックな同一化の支えをもたない空虚な場所へ還元されている限りでの、主体である。*9 エドムントは事実、純粋で「悪魔的」な悪であるが、我々が銘記すべきは、まさにそうだからこそ、彼はあらゆる「病的」な動機づけから解放された意志の純粋な精神性pure spiritualityを体現していることだ。
エドムントは共同体から排除され、「シンボリックに死んで」いる。それは具体的な人間的共同体から排除されているということだけではなく、ここで重要なのは、はるかにもっと根源的な排除経験、つまり大文字の〈他者〉big Otherそのものからの、つまりシンボリックな秩序からの排除の経験――それに対する遠離を主張するような経験――だということである。彼を行為に駆り立てたものは、あらゆるイデオロギー的な基礎づけが究極的には不十分で無効であることへの覚醒である。彼がなし得たのはあの不可能/リアルimpossible/realで空虚な場所を占めることである。そこでは言葉はもはや何の恩恵も施さずwords no longer oblige、そのパフォーマティヴな力が宙づりにされる。これが「ドイツ零年」である。ドイツは、絶対的自由の年にあり、そのとき間主体的な絆も、〈言葉〉の関与も壊れていた。なるほど我々は、これを――〈他者〉に対してとられる距離を――「精神病psychosis」とも呼ぶことができる。しかしここで「精神病」とは、自由freedomの別名でなくて何であろうか。*10 そうして父殺しのあと、エドムントは教師に告げる。「あなたが言ったその通りのことを、ぼくはやりました!」と。だが、こう言うことは責任を教師に転嫁することでは決してない。つまり、「ぼくを責めないで。こうしろと教えたのはあなただった」というような議論ではない。まったく逆なのだ。それは言葉と行いを分離する前述の絶対的なギャップを冷静に非情熱的に確言することである。そうして映画の内在的な論理に従って、このギャップの受容は、エドムントが二人の英国兵士にヒトラーの演説のレコードを売りつけようとする有名な場面でもっとも強力になる、襲いかかるような潰れた声に具体化される悪とはまったく反対のものである。彼がレコードをポータブル蓄音機にかけると、突然、瓦礫でいっぱいの玄関じゅうにヒトラーの声が響きわたる。たまたま通りがかった者たちは立ちすくみ、この聞き慣れた不穏な声の突然の再現にぎょっとする……。それはあまりにも肉体から遊離した声disembodied voiceであり、腐敗したナチ・イデオロギーの不可視の浸透ぶりを物質化している。しかるに、この場面のアクセント全体は、まさしく、全方向から彼を猛爆する他のどんなイデオロギー的な声にもエドモントが魅惑されることはないということにこそある。つまり教師の声だけではなく、彼の自殺の寸前、家族という安息の場所を与える姉の声にさえも。彼を行為に駆り立てるものは、どんな声でもどんな超自我の命令でもなく、まさしくすべての声からの遠離を受容したことだった。*11
この意味で「ドイツ零年」は、ヒチコックの「ロープ」Rope(わずか一年後に撮られた)〔訳注・一九四八年〕とは全く正反対である。この二つの映画の根本的問題は同じだ。つまり、恐ろしいイデオロギーの実現によって例証される、言葉と行いの関係という問題だ。両方の映画とも、トラウマティックなナチズム体験へのリアクションとしてはじまる。そんな怪物的なイデオロギーの実現、それはいかにして可能だったのか。少なくとも「ロープ」では、ヒチコックはロッセリーニが直面しえた深淵に尻込みする(それが「ロープ」がヒッチコックの失敗作に数えられる理由である)。間違って「ドイツ零年」に帰せられているのは、実際には「ロープ」のテーゼである。同性愛的な二人が親友を絞殺する。彼らはそれをカデル教授の認知を獲得するためにやったのだ。彼らの教師は無用者や弱者を処分する〈超人〉の権利を説いていた(「ドイツ」のヘニングと同じように)。カデルが自分の教義の字義通りの実現に直面するとき――ラカンのコミュニケーションの定義に従えば、彼が自分自身のメッセージを他人から逆立ちした真の形態で返されるhe get back from the other his own message in its inverted, true formとき――そのとき、彼は動転して自分の言葉の帰結から尻込みする。彼には、彼らの中に自身の真理を認識する覚悟がないのだ(再度いえば、「ドイツ」のヘニングと同じように)。けれども、ヒチコックはこの洞察にとどまる。映画のタイトルの「ロープ」とは、言葉と行いを結ぶロープである。そして映画は「言葉をもてあそぶ」ことへの訓戒admonitionとなってしまう――危険な観念を弄ぶな、というのもそれを「字義通りに」受け取る精神病者がいるのだからと。映画の登場人物のだれも、教授も殺人者の二人も、このきずなbondを断つことはできず、自由の地点へ到達することができないのだ。*12
「ヨーロッパ一九五一年」――罪意識への逃込み Europe '51: Escape into guilt
エドムントの自殺は、それゆえ、良心の呵責remorseとは何の関係もない。彼はただ、父殺しを犯してしまって発見した目のくらむような深淵に自分を引きずり込んだだけだ。そして同じ深淵が「ヨーロッパ一九五一年」Europa ‘51でも子供を呑み込む。この映画は、多くの局面で「ドイツ〔零年〕」への補完である。「ドイツ〔零年〕」ではエピファニーの瞬間は最後に到来する。それは、結着〔大団円〕denouementとして機能している。これに対し、「ヨーロッパ〔一九五一年〕」では、トラウマティックな「〈リアルなもの〉との遭遇」が最初から発生し、ストーリー全体はその帰結が登場人物たちに対しあらわになることから構成されている。
「ヨーロッパ一九五一年」はローマの裕福な家の妻であるイレーネIreneの物語。息子は、この母との接触を必死に求めるが、母親はレセプションや社交生活の方に気をとられている。息子は突然自殺を企て(螺旋階段の真中にある吹抜voidに投身して)、その後すぐに凝血して死んでしまう。彼の死はイレーネに全面的な罪責感情をもたらす。まるで息子を死に追いやったのは、自分の愚かな生活と息子を無視したせいだとするかのように。彼女は以前の生きかたを完全に捨てて、身を犠牲にして人々を助けることに新たな意味を見出そうとしはじめる。コミュニストである従兄弟のアドヴァイスに従って、彼女は工場で低賃金の仕事を得る。教会に答えを探し、貧民救済を試み、彼らの間で働くのである。しかし彼女を満足させ、慰撫appeaseするものは何もない。あるとき、近所の小泥棒を警察に通報しないで自首させようと諭そうとして、最終的に彼女は法を侵犯してしまう。法廷は子供の死はショックによるもので彼女に責なしとして、彼女を精神病院に送り保護観察処分とする。一連の検査の後、冷たくてよそよそしい精神科医は彼女の狂気を宣言する。家族は彼女を見捨て、映画の最後では、彼女は独房で孤立するようになる。しかし病院の正面では、彼女が助けようとした貧民たちが集まって、彼女を新たな聖者として呼び立てている……。*13
この映画の仕掛ける罠は、まさに「明白」な読み方にある。そいう読み方によれば、イレーネが崩壊したのは、息子が必死に呼びかけているのに聴いてやらなかったと気づいたとたん、彼女にのしかかってきた罪責感の圧力に耐えかねたのだということである。このように読めば、この映画はいわゆる「現代社会の疎外」というありきたりの批判に還元されてしまう。そこでは騒がしいbustling社会生活のノイズが隣人の絶望的な叫びすら聞こえなくしてしまうと。けれども、イレーネが世俗的な家族の紐帯を切り離し、「聖者的」な放棄〔断念〕の身振りを引き受けるという、この映画の結末になにか意味があるとすれば、我々は息子の自殺に関して発生した罪意識guiltの真正性をこそ問題にしなければならない。この罪意識は真正なものであるどころか、逃避escapeとして機能している。つまり、それはもっと根源的なトラウマ体験traumatismを隠している。精神分析理論では、転移や罪意識の「プロジェクションprojection」について多くのことが語られている。いわば、罪意識を〈他者〉the Other(たとえばユダヤ人)へとパラノイアックに「プロジェクション」することを通じて、主体が自分の責任をまぬがれるというやり方について。だが、たぶん我々はその関係を反転すべきであり、そしてまさに罪を引き受ける行為をこそ、リアルなトラウマ体験からの逃避とみなすべきである――我々はただ罪意識から逃避するだけではなく、そこへ逃げ込みもするのだ。この逆説を把握するためには、罪意識の主体的経験を大文字の〈他者〉the big Other(シンボリックな秩序symbolic order)と関係づけなければならない。すなわち、大文字の〈他者〉は「つねにすでに死んでいる」the big Other is “always already dead.”という事実に関係づけなければならない。この意味においてこそ、自分が死んでいるのを知らない父the father who does not know he is deadという有名なフロイト的な夢を解釈すべきである。父の形象は、その真実を告知されるまで、その一貫性に固執し保持する。そこから典型的な強迫的衝動obssessional compulsionがやってくる。私はいかなる犠牲を払ってでも、〈他者〉が(自分が死んでいるdead、不能impotentだということを)知るのを阻止しなくてはならない――〈他者〉がこの恐るべき真実を知るようになるくらいなら、私は死んだ方がましだ……と。要するに、主体は罪〔意識〕を自分に課すのだ。罪を引き受けることで、自分を犠牲にするのだが、その限りにおいて、〈他者〉は自分の一貫性inconsistency・不能impotentence・非在inexistenceという破滅的な知から救われる。この経験は、我々が転移関係をもつ人物に関する経験だが、こういう経験をもったことがない者がいるだろうか。他者が(父が、愛する女が)愚かだ、不能だ、等々ということが、世間に知られてしまうくらいなら、私がすぐさま罪を引き受けた方がましなのだ――愛が容易に認識されるのは、まさしく、こういうスケープゴートの役割を引き受ける決意によってである。*14 大文字の〈他者〉の非一貫性との関係で、こういう罪意識のロジックにもっと接近して定義する適切な方法は、大文字の〈他者〉という概念そのものがもつ矛盾した本質によることである。言うならば、イデオロギー的な言説において、大文字の〈他者〉の審級は、相互に排除し合う二つの様式に現れている。
何よりもまず最初に、「大文字の〈他者〉」は、場面の背後で「糸を引き」、ショウを興行する隠れた審級として現れる。キリスト教的イデオロギーにおける神の〈摂理〉divine Providence、ヘーゲル的な「理性の狡智cunning of Reason」(あるいはむしろ、その通俗版)、商品経済における「市場の不可視の手invisible hand of the market」、マルクス・レーニン主義における「〈歴史〉の客観的論理objective logic of History」、ナチズムにおける「ユダヤ人の陰謀Jewish conspiracy」、等々。要するに、我々が成就したいことと我々の活動の実際の結果との間に距離があり、ことの結果が主体の意図を超えてしまうという過剰があるのだが、それがもう一つ別の審級、ある種のメタ主体meta-subject(神、理性、歴史、ユダヤ人)にもう一度体現されるのである。大文字の〈他者〉へのこういう参照は、むろん、それ自体根源的にアムビヴァレントである。それが機能しうるのは、沈黙し強化された安心立命reassuranceとして(〈神〉の意志への宗教的な信頼、自分は歴史的必然の道具だというスターリニストの確信)であり、あるいは恐るべきパラノイアックな審級として(経済危機、国辱、道徳的退廃等の背後に、どれも同じくユダヤ人の隠れた手をみるナチ・イデオロギーのケースのように)である。これら二つの矛盾した局面が結合されるのは、「知っているはずの主体subject supposed to know」(ラカン)としての精神分析家の形象においてである。精神分析治療では、分析家の現前そのものが、一種の抵当物pawnとして機能し、「自由連想」の一貫しない絲が、後に遡行的に意味を受け取ることを保証する。ところが同時に、分析家の現前は、被分析者の悦楽enjoymentへの脅威を物質化する。被分析者の症状symptomsを解消してしまうことを通じて、被分析者から悦楽を奪ってしまうぞと脅すのだ――分析治療がその最終段階に近づくと、いつも被分析者に生じるのは、分析家が、自分の最内奥の宝、自分の秘密の悦楽の中核を探索している……というパラノイアックな恐れ〔不安〕paranoiac fearである。すぐにわかるように、安心することと脅えることという二つの局面は、シンメトリックに配列されるのではない。見なされ主体supposed subject〔知っているはずの主体等・訳注〕は、被分析者に意味を保証するとともに、その悦楽を脅やかすのである。両方の局面がともに現実にすでに現れたのは、ユダヤ人反ユダヤ主義的形象においてである。この形象は、意味を保証する――我々がユダヤ人の陰謀という前提を受け入れるなら、事態は突然「明らかになる」、見かけの経済的道徳的混沌の背後に唯一のパターンを認識できる――と同時に、我々の正当な悦楽を奪いもするのである。
しかしながら、見逃されてはならない重要な点は、イデオロギー的な「大文字の〈他者〉」は同時に、裏で糸を引く隠れた審級とは全く正反対のものとして機能するということである。つまり、純粋な見せかけsemblanceの審級であり、仮象〔見かけ〕appearanceだが、にもかかわらず本質的essentialであり、いかなる代価を払っても保全すべき仮象〔見かけ〕の審級だ。この本質的仮象essential appearanceの論理の極まるところ、「本当の社会主義real socialism」がある。そこでは、システム全体が目標にするのは、〈党〉を支えとし社会主義の建設への熱意において結合した人民という仮象を維持することだった――次から次へと続く儀礼化したスペクタクル、それを「本当に信じる」者はだれもいないし、だれもが、信じている者はだれもいないということを知っていた。だが、それにもかかわらず、党官僚たちだけは違って、信の仮象appearance of beliefが解体してしまう可能性に戦々兢々としていたのである。彼らはこの分解を、全面的な破局、社会秩序全体の解体だとみなした。ここで問うべき問題は、簡単に言えばこうである。つまり、もし「本当に信じている」ものがだれもいないとすれば、そしてもし、だれもが、信じている者はだれもいないということを知っていたとすれば、では、その審級、それに見せるために信のスペクタクルspectacle of beliefが演じられたその視線とは何だったのか。ここで我々は、そのもっとも純粋な形態での「大文字の〈他者〉」の機能と遭遇するのである。日常的現実において、生活は恐るべきものかもしれないし、退屈であるかもしれない。しかし、万事、それが「大文字の〈他者〉」の視線から隠されている限り、上首尾なのだ。幸福で熱狂的な人民が繰り返し演じられたのは、彼の視線his gazeに対してであった。もし「大文字の〈他者〉」が語の第一義において「知っているはずの主体subject supposed to know」として機能するものだとすれば、ここではそれは、「知らないはずの主体subject supposed not to know」として機能する。つまり、庶民の日常的現実はその審級から隠されるべきだということだ。*15 要するに、自分が死んでいるのを知らない父親というフロイト的な夢にもう一度もどれば、「大文字の〈他者〉」(指導者の視線に体現される)から遠ざけておかねばならないのは、彼が「死んでいる」という単純な事実である。
純粋な仮象〔見かけ〕のこういう強迫的論理の恐るべきスペクタクルな事例の最近のものは、チャウシェスクCeaucescuの失脚である。たぶん失墜の直接的原因となった彼の重大な間違いは、ティミソアラTimisoaraの虐殺の後、仮象はまだ維持されていると「大文字の〈他者〉」に証明するために、ブカレストBucharestで壮大で旧式の支持集会を組織しようと決めたことにある。ところが、群衆は、もはやゲームをプレイする気がなかった。そして呪文は解けてしまったのだ……。ありきたりの解説では、チャウシェスクは誇大妄想で、現実との接触を失っていて、自分の体制には大衆的支持があると本気で確信していたのであり、それゆえに集会を組織したのだということである。だが、それだと説明できない。それではまるで、網の目のように広がるramified国家保安委員会Securitateのネットワークが明らかではないかのようだ。チャウシェスクは何年間も彼の支配に反対する民衆蜂起を壊滅しようと体系的に準備していたというのに! チャウシェスクは人民の支持など全く信じてはいなかった。彼が信じていたのは大文字の〈他者〉だった。*16 ブカレストの大衆集会のように「呪文が解けた」瞬間、いわば「大文字の〈他者〉」が解体した瞬間、それは、いかに我々は自分が所有したことがないものを喪失できるかhow we can lose something we never possessedを完璧に例証している。東欧の「現存社会主義」の解体における決定的なターニングポイントとは、抑圧装置の巨大な力にも関わらず、共産党は実際には無力であり、彼ら主体〔臣民〕たちがそれを存在させているだけであり、その強力さとは主体たちがそう信じているからだけだ、ということに主体たちが突然気づいたことではなかったか。そしてこのターニングポイントは、かくして、〈党〉はそれがもったことがなかったものを喪失した、という逆説によって、もっともよく描かれるのではないか。説明されるべき逆説とは、いわば次のようなものである。すなわち、むろん主体たちは、〈党〉や共産主義等々を実際には決して信じていない。まさに最初から〈党〉の支配は押しつけられた独裁だと感じられていた――ところが、もし人民から見れば〈党〉は決して正統性をもったことがなかったとすれば、前記の「呪文が解けた」瞬間が何よりも正統性の喪失と感じられたということをどう説明すべきか。その鍵は、「本質的仮象essential appearance」の秩序としての「大文字の〈他者〉」のステイタスにある。つまり、主体たちは「実際には決してそれを信じていなかった」けれども、彼らはそれにもかかわらず、まるで自分が信じているかのように、まるで党が十分な正統性をもって支配しているかのように振舞ったacted as ifのであり、彼らは「外在的external」な儀礼に従い、それが必要なときには歓呼の声acclamationをあげたのである、等々。言い換えれば、我々が決して所有したことがないものを喪失するさいに喪失されるのは、我々の生活を支配してきた「本質的仮象」なのである。
それゆえここでこそ、共産党指導者との関係において、我々が遭遇するのは、罪意識を、純粋形態における〈他者〉の非一貫性と結びつける連環である。もし何かがうまく行かないと、我々は失敗の責任を進んで引き受け、そうして革命のプロジェクトそのものの純粋性を救うことで、大義への献身を証明できるのだ。スターリニズムの粛清Stalinist purgesの論理もたぶんそこにある。つまり、もっとも恐るべき反革命的犯罪を躊躇することなく告白した献身的な共産主義者たちの謎も。彼らのマヌーヴァー〔策動〕maneuverは、共産主義の理想を無傷なままに保ち、〈他者〉が真実を知り解体してしまうのを阻止することであった。ラカンによれば、同じメカニズムが働いているのは、「原罪original sin」の経験においてである。つまり、〈神〉はただ死んでいるだけではなく、つねにすでにalways already死んでいるのであり、〈神〉はいつもいまそのことを知らないだけである。そして人間の「原罪」の意味とは、まさしく、罪を引き受けることによって神の「非在inexistence」(非一貫性、不能)の経験を〈神〉ために取っておくspareことにある。それゆえ「原罪」の論理とは、再びいえば、〈神〉が自分の死を知るよりも、私に全ての罪がある方がましだbetter for me to be throughout guilty than for Him to learn about His death、ということである。*17
こういう「〈他者〉の非在」を我々はあまりにもすすんで罪を引き受けることで隠蔽するのだが、かくしてそれが「ヨーロッパ一九五一年」で賭けられていることである。映画の結末で、イレーネは単に彼女の罪意識を追い払うということではなく、自分の罪意識そのものを、息子を呑み込んだ存在論的空虚on&tological voidを隠蔽することにしかならない一種の妄想的な策動delusive maneuverとして、実感〔経験〕するのである。かくして彼女が「ヨーロッパ一九五一年」の二つのメイン・イデオロギーである共産主義とキリスト教へ避難しようすることは、〈リアルなもの〉を罪意識のシンボリックな宇宙へと統合し、イデオロギー的な領域の内部にそれを位置づけ、そうしてそれに意味を与えることによって、〈リアルなもの〉とのトラウマティックな遭遇(息子の自殺)を修復しようとする絶望的な企てに他ならない。「それゆえイレーネは、イデオロギー的な布置ideological constellationsに惹きつけられる。それはしばらくの間、少なくとも息子の死というスキャンダルを超越的論理transcendent logicに統合できるかのように彼女を魅惑する」。*18 そして、最後の場面のあたりでイレーネが、聖者のポジション、つまり対象である残滓=糞便objectival remainder-excrementとしての主体のポジションを引き受けるのだが、そこで生じるのは、まさしく、語の厳密なラカン的意味での分離separationである。つまり私(シンボリックなアイデンティティ)から《a》(対象)が分離すること、その対象がシンボリック・ネットワークから脱落すること、シンボリックな宇宙との距離を引き受けることである。
「ストロンボリ」――自由の行為 Stromboli: The act of freedom
分離は、「ストロンボリ」Stromboliの結末近くでも演じられる。「ストロンボリ」はロッセリーニのバーグマン映画Bergman moviesの最初のものである。映画は、エストニアからの移民であるカリンKarinの物語で、彼女は第二次大戦末期イタリアの難民キャンプにいる。アルゼンチンの査証visaを手に入れるのに何度も失敗した後、ストロンボリという火山島からやってきた貧しいイタリア人漁師と結婚する。それは難民キャンプから抜け出す最後の必死の企てだった。島での生活は、閉じた共同体に閉じこめられて進行するが、そこではプリミティヴな父権的雰囲気が支配している。自然との「真正」な接触はあるが、女を殴る習慣もある……。カリンはたちまち新しい生活に窒息し、逃亡するのを決心する。長い道のりを歩いて火口のある山を横断し、島の向こう側の海岸まで行けば、そこでは本土行きの船が出る。カリンは火山を登る。ところが、火口から出る噴煙と蒸気に取り囲まれ、彼女は窒息して失神してしまう。この恐ろしい「〈リアルなもの〉との遭遇」の後は、映画のアメリカ版とイタリア版ではまったく違うものになっている。アメリカ版(ロッセリーニの意志に反してRKOが編集した)では、カリンが目覚めるとそこはまばゆい朝で、彼女は山を下りて村へ帰る。その間、耳障りなヴォイスオーバーが考えるべき事を我々に教える。「彼女は恐怖と苦しみを経験して、〈神〉が本当に必要だと気づいた。そしていまや彼女は、村へ帰ることによってしか平安の望みはないと知った」。ところが、イタリア版では、最後の言葉はロッセリーニの言葉で、ディレンマは開かれたまま放置されている。つまり、カリンがオフ・スクリーン〔画面の外〕で「神様! ああ、慈悲深い神様!」と繰り返し、うねるような火山の噴煙のショットで、映画が終わるのだ。結局彼女は村を離れたのか、村に帰ったのか、どちらだと尋ねられて、ロッセリーニはこう答えた。
私は知らないね。それは別の映画の冒頭になるだろう……。どんな人間経験でも人生にはターニングポイントがある――それは経験の終わりでも人間の終わりでもなく、ターニングポイントなんだ。私の結末はターニングポイントだ。そのときそれは再び始まる――しかし、それがはじまるのは何ためか、私にはわからないのだがね。*19
映画のエンディングのまさにこうした未解決irresolutionによってこそ、「ストロンボリ」は行
為の固有次元the proper dimension of the actを刻印する。映画が終わるのは、まさしく、何の行動actionもまだ遂行されていないけれども、行為actはすでに実行されている、という地点である。カリンによってなされた(あるいはもっと適切に言えば、もちこたえられたendured)行為とは、シンボリックな自殺symbolic suicideという行為である。つまり、「一切を喪失する」行為、シンボリックなリアリティから隠退〔撤退〕する行為、それが、我々に「零地点」から、ヘーゲルが「抽象的否定性abstract negativity」と呼んだ絶対的自由absolute freedomの地点から、新しく開始することを可能ならしめる。このシンボリックな自殺の瞬間は厳密に位置づけできる。それが生じるのは、〈神〉への二つの言及mentionの中間である。カリンは村(社会的連環)から逃げ出して、火山の噴煙と蒸気に包囲されてしまうにいたる。火山の原初的な力に直面して、すべての社会的紐帯は青ざめて無意義なものになってしまい、彼女は裸の「そこにあること〔現存在〕being there」に還元されてしまう。つまり、抑圧的な社会的な現実social realityから逃走して、彼女が遭遇するのは、比較を絶するほどのもっと恐ろしい何か、〈リアルなもの〉である。彼女は泣きながら叫ぶ、「もう、終わりだ。でも私には勇気がない。私はこわい」と。そして彼女は〈神〉の名を二度叫ぶ。が、それは極度の緊張と疲労のあらわれで、彼女は倒れてしまう。フェイドインすると、静かな陽の明るい朝のショットだ。火口の縁で眠っているカリンは目覚めて、再び言う、「ああ、神様!」と二度。しかし同じ言葉が、こんどは、「彼女のまわりすべてが荘重な静寂stillnessであることへのオマージュの行為へと変換され」ている。*20 ヘーゲル的な用語を使えば、以前の喪失経験が、喪失そのものの喪失loss of a loss itselfへと変換されたということである――いまや彼女は、一瞬前にはあんなに失うのを恐れていたことが、完全に空無nullになった、つまりそれ自体すでに一種の喪失になったことに気づく。カリンは〈神〉のトートロジーGod’s tautologyの意味を経験したとも言えよう。彼女の経験全体は、「神は…神であるGod is …God」として書き留めうる。それは、全破壊的な憤怒としての〈神〉と、至福の平穏blissful serenityとしての〈神〉との究極的な一致を示すものである。我々がシンボリックな自殺という「零地点」を通過した後、一瞬前にはすべての規定的存在を一掃する激怒rageの渦巻きとして現れたものが、奇跡のように至福に変化する――我々がすべてのシンボリックな紐帯を放棄するやいなや。そしてラカン的な意味での行為actとは、この隠退〔引き籠り〕withdrawalに他ならない。つまりこの隠退によって、我々は、放棄〔断念〕そのものを放棄しrenounse renunciation itselfて、喪失において喪失するものは何もないwe have nothing to lose in a lossということに気づくようになるのである。*21 カリンが前夜終わりにする勇気がなかったことというのは、まさしく、このシンボリックな自殺という行為であり、シンボリックなリアリティからのこの隠退である。これは「現実における」自殺the suicide “in reality”とは厳密に対置されるべきである。後者は、シンボリックなコミュニケーションに捕らえられたままである。つまり、自殺することによって、主体は〈他者〉へメッセージを送ろうとするのだ。すなわち、それは罪の公認acknowledgment of guilt、正気になれという警告sobering warning、悲愴なアピール(最近のリトアニアの政治的焼身自殺self-incinerationのように)として機能する行為である。しかるに、シンボリックな自殺の方は、主体をまさに間主体的な回路intersubjective circuitから排除しようとする狙いをもつのである。
それゆえ「ストロンボリ」が仕掛ける罠は、その結末を、自身を「明白」なものと提示していると読ませることにある。つまり、エピファニーの経験を通して、カリンは、村のじめじめしたdamp生活への嫌悪aversionが浅はかfrivolityで無益pointlessnessなものだと気づくようになった、そして彼女は生まれ変わってreborn、自分の運命を静かに受け入れる……と。しかしながら、我々がすでに見たように、ロッセリーニの結末全体のポイントは、こういう結論の誤りを阻止することにある。カリンの前方にaheadあるのは、疑いもなく、我々が通俗的で悲愴なやり方で「新生活」と呼ぶものである。つまり、遅かれ早かれ彼女は村へ帰り、夫と和解するか、あるいは本土へ戻り、新たなシンボリックな召命を、共同体内部の新たな場所を、引き受けるか、あれかこれかであり、どちらにしても彼女は再びアクティヴになりはじめる――だが、映画が終わるのは、カリンがシンボリックなアイデンティティにおける新たな場所を発見する(あるいは元のそれを再び引き受ける)以前なのであり、新たなパフォーマティヴ、新たな「創始〔基礎づけ〕的な言葉founding word」が生じる以前なのだ。*22 むろん、そのようなthe Realとの遭遇、「抽象的自由abstract freedom」の深淵との遭遇には、何か例外的で過剰でさえあるものがある。それは一部で「神秘体験mystic experience」と呼ばれるものの最内奥でのみ生じる。けれどもラカンが強調したのは、シンボリックな自殺という「零地点」のそういう通過は、この名にふさわしいあらゆる行為において働いているということである。では、行為actとは何か。*23 なぜ自殺はとりわけpar excellence行為なのか。 行為はアクティヴな介入intervention(行動action)とは異なる。その担い手bearer(エイジェント〔行為者〕agent)を根底的に変形するからだ。つまり行為とは、単に私が「遂行するccomplish」何かではない――行為の後では、私は文字どおり「以前とは同じものではないnot the same as before」。この意味において、主体は行為を「遂行する」というよりも、行為を「こうむる〔経験する〕undergo」(それを「通過するpass through」)のだと言えよう。行為において主体は殲滅〔無化〕annihilateされ、その結果、再生rebornする〔生まれ変わる〕(あるいは、再生しない)。いわば、行為は主体の一時的な蝕eclipse、《アファニシス》〔消失〕aphanisisを含む。それが、この名にふさわしいあらゆる行為が、根源的な説明不可能性〔無責任性〕unaccountabilityという意味における「マッドmad」であるゆえんである。つまり、それによって私は、私自身を、私のシンボリックなアイデンティティを含めて、あらゆるものを危険にさらす。それゆえ行為は、つねに「犯罪crime」であり、いわば私が属するシンボリックな共同体の境界の「侵犯」である。行為はこの還元不可能なリスクによって定義される。そのもっとも根本的な次元では、それはつねにネガティヴなものである。いわば殲滅〔無化〕の行為、一掃の行為である――どんな結果になるか、我々は知らないだけではなく、その最終の帰結は、純粋な行為の〈NO!〉との関係では究極的に無意義でさえあり、まさしく第二義的なものである。*24
今日、あらゆるところでコミュニズムが崩壊している時、そのすべてを開始した行為actを思い起こしてみる値打ちがある。その行為は「ドイツ零年」や「ストロンボリ」と同時代の行為だった。スターリンに対するチトーTitoの一九四八年の「NO!」、モスクワが支配する国際共産主義運動からのユーゴスラヴィア共産党の分裂。ここでネガティヴな次元は、そのポジティヴな帰結あるいは動機よりもはるかに決定的である。本当に重要なことは、まさしく、権力を掌握した共産党がスターリンのヘゲモニーに対し「NO!」と言ったという事実だけだった。この決裂がその名において遂行されたところのポジティヴな理由は、おそらくその担い手にも明瞭ではなかった。そこであえてシニカルな仮説を立ててみることもできよう。つまり、それはユーゴスラヴィアが今日こんな混乱状態messにある原因となった後の発明inventionのすべて(労働者の自己管理)は、〈党〉のイデオローグらが、純粋行為pure actである「NO!」を「合理化」し、あるポジティヴなイデオロギー的プロジェクトの上にそれを基礎づけようと必死に試みたことから生まれた、という仮説である。我々がここで念頭におかなければならないのは、こうした中絶〔脱字〕hiatusである。つまり、スターリンとの絶縁は、(後に護教論者たちapologistsが主張したような)労働者の自己管理の名の下における絶縁ではなかった。それは純粋な冒険riskの行為、拒絶の行為、「自分自身のものに固執する」行為だった。そして後になってはじめて、この拒否が、自己管理というイデオロギー的プロジェクトのなかでポジティヴで規定的な存在をまとうようになったのである。スターリンに対する彼らの「NO!」とともに、チトーと彼の同志らは彼らのルビコン〔河〕を渡ったのだが、そのとき、向う岸に何が待ちかまえているのか、彼らがどうなるのか、確かなことは何もなかった。いまや明らかであるはずなのは、行為が〈リアルなもの〉に属するとしても、ただシンボリックな秩序という背景に逆らってのみ、行為が可能であるのは、なぜかということだ。行為の偉大さは、まさにそこから行為が遂行されるところの場所placeに依存している。言い換えれば、すでに多数の政治史家らが指摘してきたように、チトーの「NO!」がそんなに転覆的subversiveなインパクトをもったのは、ただ、それが共産主義者によって宣言されたからであり、彼が共産主義者としてスターリンに抵抗したからである。(この理由から、ユーゴスラヴィアが西側の政治的あるいは軍事的同盟の一員になるというプレッシャーは大きくはなかった)。もしチトーが「陣営を変えchange sides」て、西側と「修正資本主義」へ行ってしまっていたら、真に転覆的なことは何も起こらなかっただろう。つまり冷戦状況における共産主義の敗北の一例があったにすぎなかっただろうし、西側はスターリンの帝国の一部を奪取していたことだろう。チトーが共産主義の一枚岩monolithの中に穴を開けたのは、彼が共産主義者として行為することに固執したことによるものだった。*25 ラカン的倫理Lacanian ethicに対する、通常のハバーマス的非難の一つは、言うところの《ポリス》polisの精神、共同体の精神とそれが両立不可能だということに関わる。ラカンの眼から見れば、究極の倫理的功業とは、自殺的なエクスタシーsuicidal ecstasyであり、我々が「死に向かう存在being toward death」であることを完全に受容することではないのか。それは明らかに社会的次元を宙づりにしてしまう。あらゆる公的な行いpublic deedは、主体の「真正」な欲望、つまり死の欲動death driveに対する一種の裏切りではないか。ここでわかるのは、こうした非難がどこで間違っているかである。すなわち、「真正」の自殺的振舞いと、公的な行いとは、外在的に対置されるべきものではないのだ。というのも、「自殺的」な振舞い、行為actは、まさに新たな社会的連環の創始foundationの場にあるからだ。
それゆえ、厳密な意味における行為の場合、我々は決してその帰結を完全に予見できない。その行為が、現存するシンボリックな空間をどのように変形することになるのか、予見できない。行為とは裂開〔裂け目〕ruptureであり、その後では「同じものであり続ける何物もないnothing remains the same」。それゆえに、〈歴史〉はつねに事後的にafterwards解説し説明することはできるが、我々はそのエイジェント〔行為者〕としてその流れに巻き込まれていて、前もってin advanceその行く末を予見することは決してできないのである。我々にそれができないのは、それ〔歴史〕が「客観的過程」ではなく、行為のスカンション〔分断/一般には韻律分析〕scansionによって絶えず遮断されるからだ。新たなもの(行為の余波〔影響〕aftermathとして発生するシンボリックなリアリティ)はつねに「本質的に副産物である状態state that is essentially by-product」*26であり、決して前もって計画した結果ではない。そのような行為の数多くの事例がある。ペタンPetainと一九四〇年のフランスの降伏capitulationに対するド・ゴールde Gaulleの「NO!」や、一九七九年のラカンのパリ・フロイト学派Ecole freudienne de Parisの解散、そこから、侵犯行為の神話的事例や、シーザーのルビコン渡河にいたるまで――彼らはみな、男性的なリーダーとして振舞っている。けれども我々が忘れてはならないのは、そのような行為の範例的な事例は女性的なものfeminineだということである。クレオンCreonに対する、国家権力に対するアンチゴネーAntigoneの「NO!」。彼女の行為は文字通り自殺的であり、自分を共同体から排除するものであって、しかも彼女は何の新たなものも、どんなポジティヴなプログラムも提出しないのである――彼女はただ無条件の要求に固執するだけである。そこで、たぶん我々はあえてこう言うべきである。すなわち、その本来内在的な論理によれば、リアルなものとしての行為the act as realは「女性的feminine」である、と。それとは対照的なのが「男性的masculine」なパフォーマティヴ、つまり新たな秩序の創始する行為である。ラカンのケースでは、彼のフロイト学派の解散は「女性的」であっただろうし、彼が「男性的」な側へと移行したのは、新たな「フロイトの大義」派Ecole de la Causeの創設行為によってのみである。その線は、アンチゴネーからシモーヌ・ヴェイユSimone Weilまで引かれるべきである。カトリックの神秘主義者でフランス・レジスタンスの闘士だった彼女は、自殺的な餓死によってロンドンで生涯を終えた。ロッセリーニの「ヨーロッパ一九五一年」のイレーネは彼女をモデルとしている。このパースペクティヴでは、男性的/女性的という差異はもはや、能動的/受動的、精神的/感覚的、文化/自然等という差異には一致しない。まさに男性的な能動性activityこそが、すでに女性的な行為feminine actの底なしの次元からの逃避である。「生まれつきの裂け目break with nature〔自然・出自との絶縁〕」とは、女の側のものであり、そして男の強迫的な能動性は、究極的にはこの裂開のトラウマティックな切れ目incisionを修復しようとする絶望的な企て以外のものではない。