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Slavoj Zizek |
第一部 コーズ CAUSE1 「抑圧的脱昇華」のデッドロック | *コーズ CAUSE 一般には「原因」だが、むろん「大義」の意もある。両義あるとして、ここでは「コーズ」としておく |
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われわれの知的生活の折々の儀礼の一つに、一年おきに、精神分析が流行遅れで、乗り越えられ、とうとう死んで埋葬されたと宣告されるというものがある。これらの攻撃の戦略が、またよく練られたものである――三つの主なモチーフがある。 ● フロイドの「スキャンダラスな」科学上のあるいは個人的なふるまいについての新しい「暴露」――たとえば、言われるところの、父親の誘惑という現実からの逃避(ジェフリー・マソンの『真理への攻撃』)のような。 |
我々の知的生活の季節的儀礼の一つは、二年ごとに、精神分析が、《流行遅れ》*で乗り越えられ、とうとう死んで埋葬されたと宣告される、ということである。これらの攻撃の戦略は、またよく稽古を積んだものでもあり――三つの主たるモチーフがある。 ● フロイトの「スキャンダラス」な科学上の品行あるいは個人的な品行について何らかの新しい「暴露」をすること――たとえば、父親の誘惑という現実からフロイトが逃避したという説(ジェフリー・マッソンの『真理への襲撃』*)。 史的唯物論*の立場からすれば、これらの攻撃を内属的に批判するよりもはるかに興味深いのは、所与の歴史的瞬間でのイデオロギーの状態の指標としてこれらの攻撃を解釈することである。最近の誘惑理論(父親による子供の性的虐待が後の心的障害の原因だとする)のリバイバルが、トラウマの幻想性に対するフロイトの根本的洞察に対していかに盲目であるか――言うならば、それ〔最近の誘惑理論〕がいかに心的領域の自律性を否定し、リニアな因果連鎖という伝統的観念を改めて主張しているか、ということを示すのはたやすい。けれども、このリバイバルを、後期資本主義的なナルシシスティックな主体性の様式という文脈の中に位置づける方が生産的である。その主体性の内部では、「他者」そのもの――現実の、欲望する他人――が、トラウマティックな障害として、私の〈自我〉の閉じた均衡を暴力的に乱暴に阻む何かとして、経験されるのだから。他者が何をしようと――彼らが私をかわいがろうと、彼らが煙草を吸おうと、叱ろうと、好色な目で私を見ようと、またたとえ彼らが私のジョークに心から笑わないとしても――それは(少なくとも潜在的には)私の空間に対する暴力的侵犯なのだ。*1 |
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【珍訳】 分析医の示唆が指示した結果だという効果への疑い ←(??)珍訳。 精神の故障 ←これはこれは、愉快な造語だね。 トラウマ的擾乱 ←何のことかね? ナルシシストの主観性のあり方 ←とほほほ。絶句。 |
【注記】 *《流行遅れ》 démodé *ジェフリー・マッソンの『真理への襲撃』 Jeffrey Masson’s The Assault on Truth *史的唯物論 historical materialism ジジェクは左翼だ。 |
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それぞれの内在的な理論的レベルでは、これらの攻撃はすべて因果性の問題に集中している。人は「科学的」立場をとって、精神分析が、厳密で検証可能な因果法則を明らかにすることができないと言って責めるか、精神諸科学〔ガイステスヴィツセンシャフテン〕の立場をとって、精神分析が、間主観的な弁証法を因果関係のつながりに「物象化」して、生きた個人を無意識のメカニズムに翻弄される操り人形に還元してしまうと言って責めるかの、いずれかである。したがって、これらの責めに効果的に答える唯一の方法は、精神分析が、自然科学と精神科学という対、つまり因果的決定論と解釈学という対にこそ抵抗しているところについて、十分な説明を提供することだ。フロイト革命の真の射程についてのわれわれの自覚を生かしておくためには、ときどき、基本に戻る、つまり「素朴」で初歩的な質問に戻るという手間も、かけてみる値打ちがある。精神分析は、精神の決定論として最も過激なものなのだろうか。フロイトは「心の生物学主義者」なのだろうか。精神分析は、心そのものを無意識による決定論のなぐさみものと決めつけ、その結果、心の自由など幻想だと決めつけるのだろうか。あるいは逆に、精神分析は、まったくの生理的身体的障害(と見える)事例においてさえ、やはり意味の弁証法を扱っている、つまり、主体の自身とその他者との歪んだコミュニケーションを扱っているのだという事情を明らかにすることによって、意味の分析の新しい領域を開く、「徹底した解釈学」なのだろうか。ここでまず注目すべきことは、この二重性が、まさにフロイト派の理論的構築物の中に、「メカニズム」とか「エネルギー」とか「段階」といった物理=生物主義的なメタファーに依拠しているメタ心理学的な欲動の理論(口唇、肛門、男根段階など)と、完全に意味の領域の内部にとどまっている解釈との二重性という姿をとって反映されているということだ。 この二重性は、フロイトが因果と意味の対立を解決しなかったということの証拠なのだろうか。ジャック=アラン・ミレールが、アインシュタイン的用語でぴったりの言い方をしているが、それを借りれば、これらの両面を「フロイト場の統一理論」にすることは可能なのだろうか。両面を擬似弁証法的に「綜合」すること、あるいは一方を他方に対する鏡として与えるところには解決が見つからないのは明白だ。われわれは、意味の領域を、隠れた因果的メカニズムによって、調節される錯覚の自己経験に還元できないのと同様、プシケーの因果的決定論の観念について、意味の固有の主観的弁証法を、客観主義的に「物象化」したり、実証主義的に誤解した、範例的事例と考えることもできない。しかし、フロイト革命の真の射程が、まさに解釈学と説明の対立、意味と因果性の対立を崩しているところに求められるべきだとすればどうだろう。解釈学と因果の説明の対立を疑問視する科学としての精神分析についての考え方をあからさまにしたものは、これまでには、フランクフルト学派とジャック・ラカンという二つの水源からしか出ていない。 |
理論に内属的なレベルでは、これらの攻撃はすべて因果関係の問題に集中する。「科学的」な立場をとって、精神分析が、厳密で立証可能な因果法則を定式化しそこねているとして非難するか、あるいは、《精神科学》Geisteswissen-schaftenの立場をとって、精神分析が、間主体的な弁証法を因果連環のネクサス〔連鎖〕に「物象化*」して、かくして生きた個人を無意識的メカニズムのなすがままにされる傀儡に還元してしまう、として非難するかの、いずれかである。したがって、これらの非難に有効に応える唯一の方法は、《自然科学》Naturwissenschaftenと《精神科学》という伝統的なカップル――すなわち、因果的決定論と解釈学というカップル――に関して、精神分析がいかなる立場をとるのかについて、十分な説明をすることである。我々がフロイト革命の真の射程に気づいたことを生々としたものにしておくためには、ときどき、基本に戻る――つまり、「ナイーヴ」で初歩的な問いに戻る――という苦労はしてみる値打ちがある。精神分析は、最もラディカルなヴァージョンの心的決定論なのか。フロイトは「心の生物学者*」なのか。精神分析は、心それ自体が無意識による決定論の慰み物であり、そのゆえ、心の自由など錯覚だと断じるものなのか。あるいは逆に、精神分析は、「徹底した解釈学」であり、純然たる生理的な身体的障害(と見える)症例においてさえ、我々はやはり意味の弁証法*を扱っている、つまり、主体自身および主体の〈他者〉とかかわる、主体の歪められたコミュニケーションを扱っている、ということを示すことによって、意味分析*の新たな領域を開くものなのか。ここでまず注目すべきことは、この二元性が、まさにフロイト的な理論組織の中に反映されており、それが「メカニズム」や「エネルギー」や「段階」といった物理学的生物学的な隠喩法に依拠するメタ心理学的な欲動理論*(口唇段階、肛門段階、男根段階等)と、完全に意味の領域の内部にとどまる解釈との、二元性という姿をとっているのである。 この二元性は、フロイトが因果関係と意味の敵対関係を解決しなかったという証拠なのか。ジャック=アラン・ミレールのそのものズバリのアインシュタイン的定式化を喚起して言えば、これらの両面を「フロイト的な場の統一理論*」にすることは可能か。この両面を似非弁証法的に「綜合」したり、あるいは一方の面を他方の面に対する鍵として与えたりするところには、明らかに何の解決も見つからない。我々は、心の因果的決定論の観念について、本来主体的な、意味の弁証法を、客観主義的に「物象化」したり、実証主義的に誤認した、典型例とみなすことはできない。それは意味の領域を、隠れた因果メカニズムによって統整される錯覚的な自己経験に還元できないのと同様である。けれども、もしフロイト革命の真の射程が、まさに解釈学と説明の対立、意味と因果性の対立を掘り崩しているところに求められるべきだとすれば、どうか。今に至るまで、精神分析は解釈学と因果的説明の対立を問題に付する科学だとみなす明確な考えは、二つの源泉から出て来ただけだった。すなわち、フランクフルト学派とジャック・ラカンである。 |
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【珍訳】 精神の決定論 ←上記の「精神の故障」と類似。 幻想 ←これじゃあ、fantasyとillusionが区別不可能だ。 フロイト派の ←Freudianといっても、セクトを指すのではない。これは形容詞。 意味の固有の主観的弁証法 ←(なんじゃ、これは) 誤解 ←それこそ誤解のもと。「誤解」は「誤認」とはちがう。 |
【注記】 *物象化 reifying *心の生物学者 biologist of the mind *意味の弁証法 dialectic of meaning *意味分析 analysis of meaning *メタ心理学的な欲動理論 meta-psychological theory of drives *フロイト的な場〔領野〕の統一理論 unified theory of the Freudian field ジジェクは物理学の大衆本が好きで、よく読んでいるらしい。 |
精神分析の「修正主義」に対する批判理論 Critical Theory against Psychoanalytic ‘Revisionism’
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ラカンよりだいぶ前から、フランクフルト学派は「フロイトヘの回帰」というその展望を、精神分析の「修正主義」として明確にしていた。この「フロイトヘの回帰」の輪郭を定めるために、ラッセル・ジャコビーの『社会的記憶喪失』*2が、われわれの最初の参考書として使える。その副題(「アドラーからレインまでのコンフォーミズム心理学批判」)が示すように、この本は、分析的「修正主義」の全体を、アドラーやユングから、反精神分析にいたるまで、新フロイト派やポスト・フロイト派(フロム、ホーニー、サリバン)、様々な形の「実存的」あるいは「人間性」精神分析(オルポート、フランクル、マズロウ)も含めて、調べている。ジャコビーの主なねらいは、この指向全体が、フロイトの発見がもつ社会批判的な核に関してだんだん「記憶喪失」になっていく様子を明らかにすることである。形こそ違え、検討された論者、分析医はみな、フロイトを、その言われるところの「生物学主義」、「汎性欲主義」、「自然主義」、「決定論」の点で非難している。フロイトは主体を、「モナド的」実体、客観的な決定因子に左右される抽象的な個体、物象化された「代理」の戦場と考えたと想定されている。フロイトは、個人の間主観的な実践という具体的な脈絡を考慮しないで、個体の精神構造を社会歴史的全体の中に位置づけることなく、このような考え方を抱いたとされる。 「修正主義派」は、この「狭い」考え方に、自らの実存的投企において自らを乗り越える創造的存在としての人間という名分で、反対する。人間の客観的本能的決定因子は、ただ「惰性的な」成分であり、人間の世界に対する能動的で全体をくくる関係の枠組みの中で、意味を獲得するものだという。本来の意味での精神分析の水準では、このアプローチはもちろん、綜合の代理人としての自我の中心的な役割を確認することになる。精神的なトラブルの第一の源は、禁じられている欲望を抑圧することではなく、むしろ人間の創造的ポテンシャルを妨害することなのだ。だから、精神的なトラブルには、じゃまされた「実存的達成」、本来の姿をなくした対人関係、愛と信頼の欠如、近代的労働の物象化された条件、疎外された環境の要求により引き起こされる道徳的対立といったものが関係し、それらは個人に自分の本当の自我を捨てて仮面をかぶらざるをえなくする。精神的なトラブルが性的異常の形をとるときでさえ、性はより根源的な葛藤(自我の創造的実現、真のコミュニケーションの必要などと関係する)が起動される舞台にとどまる(たとえば色情症〔ニンフォマニア〕は、女性の密接な対人関係の必要が、女性が性的満足の対象として用いられるという社会からの強要によって決定されるという、疎外され、物象化された形で表れているだけだという)。この展望の内部では、無意識は禁じられた欲動の貯蔵庫ではなく、主体にとって耐えられなくなった道徳的葛藤や創造の行きづまりの結果なのだ。 |
ラカンよりかなり前に、フランクフルト学派は、「フロイトヘの回帰*」という自身のプロジェクトが、精神分析の「修正主義*」に対する挑戦であることを明確にしていた。この「フロイトヘの回帰」の輪郭を見定めるためには、ラッセル・ジャコビーの『社会の健忘症』*2が、我々の最初の参照文献として使える。その副題(「アドラーからレインに至る順応主義的心理学の批判」)が示すように、この本は、分析の「修正主義」の全体を、アドラーやユングから、反精神医学*にいたるまで調査し、ネオ・フロイト派やポスト・フロイト派(フロム、ホーナイ、サリヴァン)、またさまざまなかたちの「実存的」あるいは「人間主義的」精神分析(オルポート、フランクル、マズロウ*)も忘れずに調べている。ジャコビーの主眼は、こうした指向の全体が、フロイトの発見がもつ社会批判的な中核に関して、いかに進行性の「健忘症」になってしまったか、それを示すことである。やり方こそ違え、調査された論者と分析者はみな、フロイトを、そのいわゆる「生物学主義」、「汎性欲主義」、「自然主義」、あるいは「決定論」だとして非難している。フロイトは、主体を、「モナド的」存在、客観的決定要因に左右される抽象的な個人、物象化された「諸審級」の戦場とみなしたと思われている。フロイトがそんな考えを抱いたのは、個人の間主体的な実践という具体的な文脈を考慮したり、個人の心的構造を社会的歴史的総体の中に位置づける、といったことをしなかったからだ、というわけだ。 「修正主義者たち」は、こうした「狭量」な考えに対し人間の名において反対する。人間は、自身の実存的投企*のなかで自分自身を超越する創造的存在なのだ。人間の客観的本能的な決定因は、ただ「惰性的」成分にすぎず、世界に対して人間が能動的に関係し、世界を全体化する関係をもつという枠組の内部で、人間は自身の意義を獲得するというわけだ。むろん、精神分析固有のレベルで言えば、このアプローチは、結局、ジンテーゼの審級としての〈自我〉の中心的な役割を再主張することになってしまう。すなわち、心のトラブルの第一の源泉は、不正な欲望を抑圧することではなく、むしろ人間の創造的ポテンシャルを阻害することだと。かくして、心のトラブルに内包されているのは、妨げられた「実存的成就」、真正でない人間関係、愛と信頼の欠如、近代的労働の物象化された条件、疎外された環境の要求から引き起こされる道徳的葛藤などであり、それらは個人に自分の本当の〈自己〉を断念し仮面をつけざるをえなくするものである。心のトラブルが性的障害の形をとる場合でさえ、セクシュアリティはより根源的な葛藤(〈自我〉の創造的成就、真正のコミュニケーションの必要等々に関わる)が演じられる段階にとどまっている。(たとえば、ニンフォマニアの女*は、自分が密接な対人関係を必要としていることを疎外され物象化された形態で表現しているにすぎないのだが、この形態を規定するのは、女は性的満足の対象として機能するものだという社会の主張だ)。こうしたパースペクティヴの内部では、無意識的なものは、不正な欲動の貯蔵庫なのではなく、主体には耐えがたくなった道徳的葛藤や創造のデッドロックの結果であるというわけだ。 |
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【珍訳】 展望」 ←projectは展望ではなく、仕事・事業だが ホーニー ←カレン・ホーナイのオバさんを知らんのか 代理(人) ←agencyはagentじゃない。agencyは精神分析の重要語彙。フロイトを再読すべし。 綜合の代理人 ←ここまで言うと誤訳も立派にみえる。 個体の精神構造 ←誤訳だし、大げさすぎる。 自我 ←〈自己〉と〈自我〉の区別がないのか。その上どちらも大文字だぞ。 性的異常 ←sexual disturbancesは異常というほどのものではない。 |
【注記】 *フロイトヘの回帰 return to Freud *修正主義 Revisionism 昔懐かしき左翼用語 *ラッセル・ジャコビーの『社会の健忘症』 Russell Jacoby's Social Amnesia *反精神医学 anti-psychiatry *実存的投企 existential project 日本実存主義の遺跡に敬意を表して「投企」という語を存続させよう *ニンフォマニアの女 nymphomaniac 男なら単にスケベですむが、女だと色情症という。 |
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したがって、「修正主義」は、フロイトの無意識を「社会化」し、「歴史化」することを唱導する。フロイトは「永遠の人間の条件」の中に、特定の歴史的事情に厳密に依存する様相(サドマゾ的「肛門」の性格が、資本主義の中に埋めこまれているなど)までをも投げ込んだとして非難される。エーリッヒ・フロムとともに、この修正主義指向は公然とマルクス主義的言い回しをとるようになる。フロムは超自我の中に、歴史的に特定のイデオロギー的代理人の「内面化」を探ろうとし、エディプス・コンプレックスを生産と再生産の社会的過程の全体に統合しようとする。しかし、フランクフルト学派の人々、とくにテオドール・アドルノとハーバート・マルクーゼは、厳密な史的唯物論のアプローチの名のもとに、最初からこの「修正主義」の傾向と闘った。いわゆる文化主義論争に際して、フランクフルト学派内部の最初の大きな分裂は、まさにフロムの新フロイト的修正主義を拒否することだった。 すると、自我とイドの間のリビドー的葛藤から、自我内部の社会倫理的葛藤へと力点を移すことによってフロイトを「社会化」しようとする修正主義の試みに対する、フランクフルト学派の反論とは何だったのだろう。「修正主義」は自然(「太古の」、「個人以前的」衝動)を「文化」(個人の創造的ポテンシャル、現代の「大衆社会」における個人の疎外)に置き換えるのに対し、アドルノやマルクーゼにとって、真の問題はこの「自然」そのものにある。批判的分析は、「自然」と見えるもの、生物学的あるいは少なくとも系統発生的遺産と見えるものの中に、歴史の媒介の痕跡を発掘しなければならないのだ。心的「自然」とは、その反対の、事物の歴史以前に与えられた状態が、歴史の疎外された性格のせいで、「物象化」され「自然化」されたものという、歴史過程の結果なのである。 個人を定義する「個人以下の個人以前的因子」は、太古の生物学的なものの領域に属している。しかし、それは純粋な自然ということではない。むしろそれは第二の自然なのだ。つまり、自然という形に固まった歴史である。自然と第二の自然の間の区別は、たいていの社会思想には馴染みがないとしても、批判理論には生死にかかわる重要なものである。個人に対して第二の自然であるものは、蓄積し、沈殿した歴史である。それが凍結しているのは、あまりにも長く解放されていない歴史――あまりにも長い間、単調に抑圧的だった歴史――である。第二の自然は、ただ自然あるいは歴史なのではなく、自然として表面化する凍った歴史である。*3 |
したがって、「修正主義」が提唱するのは、フロイト的な無意識的なもの*を「社会化」し「歴史化」することである。つまり、フロイトは、特種な歴史状況に厳密に依存する諸特徴(サド・マゾ的な「アナル」な性格は、資本主義中に埋めこまれている、等々)を、「永遠の人間的条件*」の中に投影したと非難されるのだ。エーリッヒ・フロムの場合、この修正主義の方向は、明白にマルクス主義的な方へ転回している。彼の狙いは、超自我の中に、歴史的に特種化されたイデオロギー的諸審級が「内在化」されたものを探り、エディプス・コンプレックスを、生産と再生産の社会過程の総体へと統合しようとすることにある。しかしながら、フランクフルト学派のメンバー、とくにテオドール・アドルノとヘルベルト・マルクーゼは、厳密な史的唯物論的アプローチの名において、最初からこの「修正主義的」傾向と闘った。フランクフルト学派内部の最初の大きな分裂だった、いわゆる《文化主義論争》*では、問題はまさしく、フロムのネオ・フロイト修正主義を排撃することだった。 では、〈自我〉と〈エス〉の間のリビドー的葛藤から〈自我〉内部の社会的倫理的葛藤へとアクセントを移すことによってフロイトを「社会化」しようとする、こうした修正主義的企てに対する、フランクフルト学派の反対とはどういうものだったのか。「修正主義」は「自然」(「太古的」な「前個人的」欲動)を「文化」(個人の創造的ポテンシャル、現代の「大衆社会」における個人の疎外)に交替させる。これに対し、アドルノやマルクーゼにとって、真の問題は、こうした「自然」それ自体にある。「自然」と見えるもの、生物学的遺産あるいは少なくとも系統発生的*な遺産と見えるものに、批判的分析は、歴史的媒介の痕跡を発掘しなければならない。心的な「自然」とは歴史過程の結果なのだ。歴史過程は、疎外的性格の歴史のゆえに、自身の反対物である前歴史的な所与の物事の状態という、「物象化」され「自然化」された形態*をとるのである。 個人を定義する「個人以下で個人以前の要因*」は、太古的で生物学的なものの領域に属している。しかし、それは純粋な自然という問題ではない。むしろ、それは第二の自然であり、自然へと硬化して自然になってしまった歴史である。自然と第二の自然の間の区別は、ほとんどの社会思想にはなじみがないとしても、批判理論にとっては生命である。個人にとって第二の自然であるものは、蓄積され堆積された歴史である。それが凝固させているのは、かくも長い間、未解放だった歴史――かくも長い間、圧制一色だった歴史――である。第二の自然は、ただ単に自然あるいは歴史であるのではなく、凍りついた歴史、自然として表面化した歴史である。*3 |
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【珍訳】 サドマゾ的「肛門」の性格 ←サドマゾ的「肛門」というものがありそうだね。 マルクス主義的言い回しをとる ←なんのこと? 歴史的に特定のイデオロギー的代理人の「内面化」 ←とほほ。しかも、よくわからない。 「個人以前的」衝動 ←「衝動」は誤訳だが、「個人以前的」も変な訳語。 |
【注記】 *フロイト的な無意識的なもの the Freudian unconscious 回りくどいが、「無意識」unconsciousnessではなく、形容詞の名詞化the unconsciousだから「無意識的なもの」。それにunconsciousはフロイトの専売特許ではなく、さまざまな無意識理論がある。 *《文化主義論争》 Kultutismus-Debatte 周知の理論的分派闘争 *「物象化」され「自然化」された形態 ‘reified’, ‘naturalized’ form 決まり文句だね *個人以下で個人以前の要因 sub-individual and pre-individual factors |
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フロイトの理論的構築物をこのように「歴史化」することは、社会文化的問題、つまり自我の道徳的、情緒的葛藤へ焦点をしぼることとの間に、共通のものをまったくもっていない。むしろそれは、無意識を「飼いならす」という修正主義の身振り、つまり、社会規範に従って構造化する自我と、自我に対立する無意識の衝動との間の、根源的で解消できない緊張、フロイトの理論にまさにその批判的なポテンシャルを与える緊張を弱めようとする身振りとは、真っ向から対立する。疎外された社会では、「文化」の領域は、準「自然」の形をとる人間のリビドー的核の乱暴な排除(抑圧)の上に立てられている。「第二の自然」は、「文化の進歩」に対して支払われた代償、つまり「文化」そのものに備わっている野生が石化して残った証拠である。このような、欲動の準生物学的貯蔵庫の中に凍結された歴史の痕跡を探知する、「象形文字」の読み取りは、誰よりもマルクーゼによって行われた。
マルクーゼは、修正主義者とは違って、フロイトの準生物学的概念を守っているが、当のフロイトよりも忠実なのである――そしてフロイトとは違って、それらの概念を展開する。修正主義者は、精神分析に、言わば外側から、つまり社会的価値、規範、目標によって、歴史、すなわち社会的ダイナミックを導入する。マルクーゼは、概念の内部に歴史を見いだす。彼は、フロイトの「生物学主義」を、第二の自然、石化した歴史と解釈している。*4 |
このようなフロイト的理論組織の「歴史化」には、社会的文化的問題や〈自我〉の道徳的情動的葛藤を焦点にすることと、共通のものは何もない。むしろそれは、無意識的なものを「飼いならす*」という修正主義的な身振りに対し真っ向から対立する――すなわち、その身振りは、社会規範に従って構造化される〈自我〉と、〈自我〉に対立する無意識的欲動*との間の、根本的で解決不可能な緊張を弱めようとする――まさにこの緊張こそが、フロイトの理論にその批判的なポテンシャルを賦与するものなのに。疎外された社会では、「文化」という領域の基礎は、人間のリビドー的中核を暴力的に排除(「抑圧」)するところにある。だから、それ〔リビドー的中核〕は擬似「自然」の形態をとるのだ。つまり、「第二の自然」は、「文化的進歩」に対して支払われた代価の、「文化」それ自体に本来内在する野蛮性の、石化した証拠である。このような「象形文字的」読解*は、欲動の擬似生物学的収蔵庫の中に、凝固した歴史の痕跡を探索するものだが、それを実践したのは誰よりもマルクーゼだった。
修正主義者とは違って、マルクーゼは、フロイトの擬似生物学的な諸概念を保持している。だが、フロイト自身以上に忠実に保持し――そしてフロイトに反して、それら〔擬似生物学的概念〕を展開するのである。修正主義者は、精神分析のなかに、歴史や社会的力動性を導入するが、言わば外部から――社会的な価値や規範や目標によって――導入するのである。マルクーゼは、その〔擬似生物学的〕概念の内部に歴史を見い出す。彼は、フロイトの「生物学主義」を、第二の自然、石化した歴史と解釈する。*4 |
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【珍訳】 準「自然」 ←アカデミックなつもり? 野生 ←レヴィ=ストロースが気になるの? barbarityをきちんと訳せ。 「象形文字」の読み取り ←とほほ。オリエント考古学か。 |
【注記】 *飼いならす domesticating 順応主義・馴致主義に対する批判 *無意識的欲動 unconscious drives 精神分析の基本的概念 *「象形文字的」読解 ‘hieroglyphic’ reading 精神分析は解釈というより暗号の解読だ。 |
(つづく)